表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

序章1  過去、それは兆し

鴻庵コウアン暦 331年     境界の町『運暢ウンヨウ



母さん(サンチェ)母さん(サンチェ)!」

「どうしたんだい、そんなに急いで。」


少年は頬を上気させて、さほど広くはない我が家に飛び込んだ。

奉公させてもらっている州侯の屋敷ほど立派でも美しくもない小さな家。

でも少年はこの家が大好きだった。

夜や秋から春にかけては隙間風が冷たくて、寒くて凍えそうになる。

風の強い日などは、木でできたこの家なんて飛んで行きそうで。

でも、こうして奉公から帰るとたった1人の家族が温かい笑顔で「おかえり」と言ってくれるのだ。

風の冷たい日も自然の恐ろしい日も、母が寄り添ってくれるから彼は恐れたことがない。

息を弾ませて、そこに温かい笑みを見ると少年はホッとして「サンチェ」と母を呼んだ。


「ただいま!!」

「おかえり。今日は何か良いことでもあったのかい?」

「うん!今日はごちそうをもらえたんだ!!」


少年は嬉しそうに腰につけてあった壷を取り出した。

小さな手には少し大きい壷。それはまだ温かい。

いそいそと蓋を開けると、美味しそうな匂いがした。

奉公先でもらってきた余り物。それでも少年にとってはご馳走だった。

いつもより多くていつもより香り豊かなそれに彼の母もほっと笑みをもらす。


「そうか。今日は太子様の『15の儀式』の日だねぇ。」

「15のぎしき?」

「おや、坊やにはまだ教えていなかったかねぇ。」


首を傾げ不思議そうにする息子に母親は穏やかに笑いながら今日のご馳走を受け取った。

そして「ついておいで」と家を出、裏へと回った。

少年は何故連れて行かれるか分からない。

けれど、繋がれた手は温かい。

母親が少年を連れてきたのは、家の裏にある畑だった。

オレンジの光が差し込んだそこには貧相な作物がいくつか実っている。


「ご覧、坊や。あそこに山が見えるだろう。」


母親の赤切れて骨ばった指先は真っ直ぐに北の山を指差した。

真っ赤に燃える日の下で連なった奥深い山々がゆらりと揺らめいている。

少年には母がどの山を指差しているのかすぐ分かった。あそこは特別な場所だ。


「うん。鵬崙公ホウロンコウの山だよね。」

「そうさ。あそこには偉い仙人様が住んでおられるんだよ。」


幼い頃から何度も何度も聞かされて育った話だった。

あの深い深い山奥の迷いの森を越えた洞窟に住んでいる仙人様の話。

鵬崙公様ははるか昔からそこに住んでいて、全てを見通し、不思議な力を持っている仙人様だと言う。

悪さをしたら仙人様の怒りをかって、暗い洞窟に閉じ込められてしまうのだというのは子供たちの中では言わずと知れた話だ。

仙人様は何でも見通す。だから、悪いことをしてもしても隠せないよ、と。

少年には父がいない。

だから、他の子が1番怖いものを「父さん(ツォンツェ)」と答えても彼はいつも「鵬崙公ホウロンコウ」と答えていた。


「仙人様がどうかしたの?」

「坊や、仙人様は普通の人にはお会いにならないのを知っているだろう?」

「うん。だから、悪戯をした子供はまず目を潰されちゃうんだよね。それで、真っ暗の中置いていかれるんだ。」

「そうさ。仙人様は禁を破る者にはとても恐ろしい方だからね。」


想像して怯えるように手をぎゅっと握り返す少年に、母親はわざといかめつい面をして少年の顔を覗きこむ。

益々怯えて痛くなるくらいに手を握りしめ、でも虚勢を張って上を向く少年に母はふと優しい微笑をもらす。


「でも、禁を護るえらい子のことはちゃーんと守って下さるからね。」


お前ものような子は大丈夫だよ。

自分の腰くらいまで育った息子の頭を撫でてやる。

この土地で一般的な黒い髪は、ぱさついて硬くなってしまっている。

それは母の手も同様だ。

いや、最近寝込むことの多い母の手は少年以上に潤いというものがなくなってしまっている。

それでもやさしい母の手に、少年は明らかにホッとした表情をした。


「私たちはお会いできないけれど、太子様や州侯様みたいな偉い方は別なんだよ。」

「太子様って?」

「州侯様よりずっと偉い長様の息子様さ。仙人様の洞窟のお傍に住んでいらっしゃるんだ。」

「仙人様のお傍?あの山の中に住んでるの?」

「あぁ。偉い方々の暮らす里があるっていう話さ。」


少年は目を見開いて前方に見える山々に目をやった。

日はだいぶ傾いて、オレンジだった山々もだんだん暗い光に染まりかけていく。

夕日と闇夜の色が混ざり合ってなんとも不気味だ。あんなところに人が住んでいるなんて考えられなかった。


「太子様や州侯様の一族の方はね、15になると仙人様の洞窟に入ることができるんだ。そこで多くの恩恵を授かるんだよ。」

「恩恵?」


恩恵、という言葉は知っていた。

彼が奉公している州候様の屋敷でもよく聞く言葉だからだ。

恩恵を授かった仲間は、少し身分の高い役職を与えられたり、いつも多めの給金や食事を貰えることができる。

でも、州候様より偉い方が、どんな恩恵を授かるというのだろう?


「幸せになれる証さ。」


少年は母の言葉に益々首を傾げた。

まだ10足らずの、学問を学んだことさえない少年にはよく分からない話だ。

ただ、少年は思った。1番に感じた疑問を。


「変なの。仙人様に証をもらわなくたって、幸せにはなれるのに。」


だって、自分は太子様でも州侯様の一族でもないけど、とっても幸せだ。

毎日ご飯を食べれるし、家に帰れば優しい母が待っている。

そう答える無邪気な瞳に母親は瞳を潤ませる。

顔を煤や埃だらけにして、真っ直ぐ自分を見上げ笑う息子がひどく愛おしかった。






◆アルクティス暦1982年  『アルクティス王宮』



どんなに優秀な名君にだって耐え難いものがあるのだと、民は信じてくれるだろうか。


ロキア=ノアは自室のソファに腰掛けて手を組み、難しい顔をして目を閉じていた。

本当は広間にいるであろう息子のように、落ち着きなく部屋中を歩き回りたい。

しかし、この国を名実ともに大陸1の大国と謳われるまでに導いたかつての女王にはそれは許されないことだった。

例え、その部屋に他人の目がなかろうとも、だ。

数十年前に夫が亡くなった時だって、彼女は決して取り乱したりはしなかったのだから。


ふいに重い扉がノックされ、来客を告げる声が聞こえた。

はじかれたように顔をあげたロキア=ノアは、だけれどもすぐに冷静な声で応える。

まもなくしてそこから1人の若い女性が入ってきた。

女官でも侍女でもない。

彼女のたった1人の息子の何十といる側室のうちの1人だ。


「ロキア=ノア。少しお時間よろしいでしょうか?」

「構わない、座りなさい。」


真向かいのソファを勧めると、側室―フィーネは嬉しそうに微笑んだ。

その花が咲いたような可憐な笑みに知らないうちに自分の肩の力が抜けていくのをロキア=ノアは感じた。

それでも自然とその目は彼女の下腹部へといってしまう。


「クス。気になりますか。」

「ふん。知らせるために来たのだろう。お前に挨拶だの何だのは期待していないからさっさとお言い。」

「あら、随分な言い草ですね。私、これでもお義母様のことは尊敬していましてよ。」


よく言う、とロキア=ノアは思った。

それが皺の増えた顔の中に少し現れたのだろう。フィーネは悪戯成功とばかりにあはっ、と笑った。

その一国の主の妻らしからぬ子供っぽい仕草にロキア=ノアは思わずフゥと溜息をついてしまう。

呆れているけど、親しみのこもった溜息だった。

40近くも年の離れた息子の妻、夫の母という関係の2人は年や肩書きにとらわれず友人のような関係を築いていた。

それは、フィーネの何者にも怯まない無邪気な笑みによるものが大きい。


「ロキア=ノア。喜んでください。私は貴女の孫を生めるのです。」


だからこそ唐突なその言葉に大陸1の名君と呼ばれた彼女は一瞬、全ての思考・動作を止めてしまいそうになった。

カップに手を伸ばしかけた指先が、ピクリと小さく震える。

それに気づかないふりをして、フィーネは尚も幸せそうに笑みを向ける。


「・・・そうか。」


それは、覚悟していたことだった。

カップを受け皿の上に戻してコトンと机に置く。

ロキア=ノアはなんでもないかのように真っ直ぐと息子の妻を見据える。

向かい合う艶やかな黒髪と同じ色の瞳はしっかりとした頑固な意志を携えていた。

それに反して赤い唇はうっすらと笑みの形を築いている。

だがロキア=ノアは知っていた。

その美しい造作を縁取る輪郭は立派なご馳走をいくら食べてもふっくらとすることはない。

膝の上に置かれた手袋の中の手は、触ってみれば驚くほどにゴツゴツとして硬い。

先ほどうっすらと赤味を帯びていた頬も、実は赤より蒼いときのほうが多いのだ。


フィーネに、子供を生んでも耐えられる体力は備わってはいない。


「・・・国のため、民のため、未来に身を結ぶ子を産みなさい。」


なんでもないように言わなければならなかった。

大陸1の名君として、引退した身でも国母と言われる者として。


「十分に心得ております、国母ロキア=ノア。現国王陛下第30夫人として立派な御子を御生みいたしましょう。」


柔らかな「母」の微笑を湛え、己の立場に責任を負う「妃」の目をするフィーネからロキア=ノアはわざと視線を外して机の上に置いたカップに手を伸ばす。

水面に映る女の顔がひどく情けなく思えて一気に飲み干した。でも、最高級のお茶も何の味もしない。


自分は「生むな」とは言えない。

友人のような娘のような彼女に私情で「死なないでくれ」なんて言えないのだ。

自分は、「国母」だ。伝説に名を残さなければならない名君なのだから。


涙なんてとっくの昔に乾いていた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ