新たな隣人
金曜日の帰宅はいつもより心が弾む、という人は多いだろう。翌週月曜日が祝日ならばなおさらだ。しかし、俺の心は沈んでいた。駐車場に引越センターのトラックが停まっていたからだ。誰かが引っ越してきた。そう考えた次の瞬間、俺は天に祈った。どうか902号室じゃありませんように、と。
俺が住んでいるマンションは現在、106号室、202号室、404号室、504号室、902号室、1403号室、1405号室の七部屋が空き部屋になっている。確率は七分の一だ。901と書かれた郵便受けの中身を取り出し、エントランスを通り抜ける。上りボタンで呼び出されたエレベーターの内部には養生テープが貼られていた。106号室の可能性が消えた。荷物運びにエレベーターが使われているということは、引っ越し先は一階ではない。確率が六分の一になってしまったが、まだ希望は残っている。
このマンションはワケアリの404号室以外、全て家賃が同じだ。同じ家賃なら、見晴らしの良い14階を選びたくなるはずだ。きっと1403号室か1405号室に違いない。と、だいぶ願望寄りの推理をしたところでエレベーターが九階に着いた。
廊下に出た直後、俺は絶望した。902号室の前に引越センターの作業員が立っていたのだ。全身の力が抜けていく。崩れ落ちそうになるのをなんとかこらえて、突き当たりにある901号室に向かって歩き出す。会釈しながら作業員とすれ違うと、引っ越してきた張本人らしき女性が話しかけてきた。
「あの、もしかしてお隣さんですか?」
切り揃えた長い黒髪が印象的な小柄な女性だ。
「えぇ、901の者です…」
ショックから立ち直れていない状態でぎこちない返事をする。七分の一を引き当てただけでも最悪なのに、隣人と初日に顔を合わせる羽目になった。さっきの祈りは全く無駄だったようだ。そんな俺の心中など露知らず、黒髪の女性は朗らかに話す。
「私、今日から902号室に住むことになりました、富樫梨奈です。これからよろしくお願いしますね」
そう挨拶しながら微笑んだ。
(空き部屋は他にもあるのになんでよりによって902号室なんだよ)
「唐元です。こちらこそよろしくお願いします」
本音と建前を華麗に使い分けながら、当たり障りのない挨拶を返す。笑顔が引き攣っていることを悟られないようにしながら、そそくさと自室に戻った。リビングにリュックを置き、寝室に直行し、ベッドに身を投げ頭を抱えて、溜息交じりに呟いた。
「マジかよ……」
唐元大志、つまり俺だが、は昔から運がない。正確に言うと隣人に恵まれない。今風に言うと『隣人ガチャで爆死続き』だ。
始まりは五歳の頃、住宅街の一軒家に住んでいた時のことだ。当時の隣人にヒロムという子がいた。同じ幼稚園に通い、同じクラス、隣人なので当然送迎バスも同じだ。度が過ぎる悪ふざけや、気に入らないとすぐに大声で泣き喚く癇癪癖が苦手であまり会いたい相手ではなかったが、家が隣だとそういうわけにもいかない。親のご近所付き合いの都合で無理やり遊ばされることも少なくなかった。
ある日近所の公園で、縄と滑車の遊具(俺たちはターザンと呼んでいた)で遊んでいた時に、ヒロムがゴール地点の足場から縄を揺らして俺をからかってきた。落ちるのが怖かった俺は必死に「やめて!揺らさないで!」と叫んだが、慌てふためく俺を見たヒロムは面白がってさらにギコギコと激しく揺らした。それが災いした。縄がたわんだ反動で滑車がゴールに向かって急加速し、バタバタと藻掻いていた俺の足が強烈な蹴りとなってヒロムの顔面を直撃した。後で分かったことだが、ヒロムはこの時鼻の骨と前歯二本が折れていたそうだ。
俺はその時のことを必死に説明した。ヒロムが縄を揺らしたから制御が出来なかった、蹴るつもりなんてなかった、と。しかしヒロムは自分が縄を揺らしたことなどすっかり忘れて「タイシがターザンでいきなり顔蹴った!」と言い、それが決め手となって弁明虚しく俺が悪者になった。人間とは不思議なもので、精神的被害者の主張よりも肉体的被害者の主張の方に耳を傾ける。遊具で怖い思いをされられた子供に比べて、顔面蹴りを喰らって包帯を巻いている子供の方が分かり易くかわいそうだからだ。
『顔面蹴りで大怪我を負わせた子供』の烙印を押された俺がその後どんな扱いをされたのかは想像に難くないだろう。結局その住宅街には居られなくなり、引っ越すことになった。
しかしその後も不幸は続く。次の引っ越し先のマンションの隣人は一日中部屋に引きこもり、プラモを作っている男だった。ある日、スプレー缶のガスか何かに引火して大火事になった。怪我がなかったのは不幸中の幸いだが、家具の半分が灰になった。
高校生になってから住み始めた学生寮は壁が薄く、隣の部屋で騒ぐ不良生徒の声が筒抜けで不眠症になり、一人暮らしを始めた大学一年の時にはアパートの隣人からストーカー被害を受け半年で退居。さらに次のマンションでは、隣の部屋が振り込め詐欺グループのアジトとして使われていたせいで警察にあれこれ疑われる羽目になり、そして去年まで住んでいた団地では、隣人の借金を取り立てに来た男たちが部屋を間違えて、俺の部屋のドアを蹴破る事件が発生。俺は完全なる被害者なのに大家に怒鳴られた挙句追い出された。
そんなわけで唐元大志、つまり俺だが、の人生は隣人トラブルのせいで波乱万丈だ。なので隣人という存在が大嫌いだし、近隣住民とも極力関わらないように生きてきた。隣が空室の今の住まいで、これからは悠悠閑閑な暮らしを満喫する。───はずだった。
「富樫……」
まだ挨拶を交わしただけなのに、俺は早くも隣人の富樫のことで頭がいっぱいになっていた。恋愛の意味ではなく、不安の意味で。第一印象はお淑やかで落ち着いた礼儀正しい女性だったが、果たして本当に大丈夫だろうか。一見まともに見えるだけで、実はとんでもない狂人だったらどうしよう。このマンションは住み心地が良いから出ていきたくないなぁ。しかし悩んだところでどうにもならない。引っ越しは既に終わっている。今の俺にできることは、新たな隣人がどうかまともな人でありますように、と天に祈ることだけだ。