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街のあちこちに点在している、騎士団の詰所。そこには常時数名の騎士が詰めており、街で事件が発生すれば、すぐに騎士たちが駆けつけることになっている。
だが、王の善政による国民の豊かさと、質量ともに大陸でも指折りである騎士団の存在により、この街の治安は良好だ。そうそう物騒な事件は起こらない。
だから普段、街中の騎士たちはさほど忙しくない。今日も、挨拶にやってきたヨシマサを、小隊長であるシルヴィが丁寧に応接していた。
「行ってしまう、か。どうだ、もう一度考えてくれないか? お前が今まで立てた手柄を考えれば、正式に予備隊として登録されるのは容易だ。ゆくゆくは正騎士への昇格だって」
テーブルを挟んで、向かい合って座るヨシマサに、シルヴィが身を乗り出して言った。
「俺のようなただの武骨者に、ありがたい申し出だが」
もう何度目かわからない、シルヴィの勧誘を、ヨシマサは丁重に断る。
「俺が海を越えたのは、広く世界を巡って修行の旅をする為だ。いつまでも、一つ所にじっとしてはいられない。この大陸での作法や、社会常識についても、充分に学ばせて貰ったしな」
「そうか……」
失望の色を露わに、しかし無理強いはせず、シルヴィは力なく腰を落とす。
「残念だな」
「すまん。あんたには本当に世話になったな」
ヨシマサは深々と頭を下げた。
シルヴィは慌てて手を振り、
「まてまて、そんな。私は大したことはしていない」
あの日。ヨシマサに助けられた少年・ミドリは、この街まで搬送され手当てを受けた。既にヨシマサの気光による治癒が済んでいた為、肉体的には(胸の傷跡以外は)すぐに完治できた。
また、ヨシマサ自身も現場で確認していたが、魔術研究所でも検査されて確定した。ミドリは純粋な人間である、と。ヨシマサを含む何人かが危惧したような、妖怪獣をベースにした改造人間だとか、妖怪獣が化けているだとか、そんなことはなかった。ミドリは、間違いなく人間であると、魔術研究所が断定した。これで完全に問題なしだ。ある一点を除いて。
ミドリは、体こそ完治して問題なしとなったが、やはり記憶は戻らなかったのである。また、攫われた子供たちの数が膨大であり、死体の状況が酷過ぎたことから、騎士たちがどれほど手を尽くしても、行方不明者名簿と死亡確認名簿との照合が、殆どできずに終わった。その結果、ミドリは身元不明となってしまったのだ。
孤児院に行くしかないところだったが、ミドリは魔術研究所で働かせてほしい、と申し出た。魔力や魔術といったものが、何か、記憶に引っかかるからと。
それを聞いたヨシマサが、シルヴィに頼み込んだ。ミドリを魔術研究に触れさせることが、故郷や家族の記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない、と思ったからだ。そして頼まれたシルヴィが、王宮魔術師に願い出たところ、どうにか許可が下りたのである。
ミドリは、魔術師たちの雑用、実験の助手などをして、王立魔術研究所に住み込みで働いた。
そして、その生活が始まってから一か月ほどが経過した頃。ミドリは見様見真似と、少し見せてもらった本だけで、魔術の基礎を一通り身に着けてしまったのである。
並々ならぬ才能、と魔術師たちは目を見張った。ミドリが素直に積極的に学ぶ姿勢を見せたため、魔術師たちから可愛がられ、雑用係から書生、新米研究員へと身分が変わり……
「ミドリのことで、俺がどれほど感謝しているか、言葉では言い尽くせん。それだけに、騎士団への誘いを断ってしまうのは心苦しいのだが」
ミドリのことを、弟のように気遣うヨシマサに、シルヴィは苦笑した。
あの日の傷が癒え、ミドリの容態が落ち着いてから、ヨシマサはミドリに真実を話した。ヨシマサが、ミドリの本当の兄ではないことを。ミドリはそれを受け入れたが、それでもヨシマサを「兄様」と呼ばせてほしいと懇願し、ヨシマサはそれを許したのである。
家族がおらず、その記憶すらないミドリの、せめてもの支えになろう、と。
「そういえば、最初の頃は毎日のように様子を見に行っていたな」
「ああ。心配だったからな。だが杞憂だった。魔術研究所の人たちには親切にしてもらっている、と語るあいつの笑顔の、曇りの無さは本物だった。むしろ、少々ハシャギ過ぎてたから、叱ってやったぐらいだ」
そうして安堵したヨシマサは、修行と、この大陸のことを学ぶ為に、徐々に遠征の仕事も受けていった。この街を何日も離れ、帰ってきてはすぐまた出ていく、ということが増えた。
帰ってくるたびにミドリの顔を見に行ったが、いつも元気に、幸せそうにしていた。研究所員たちからは、ミドリは魔術師として素晴らしい成長を遂げていると聞いた。
ミドリがそんな暮らしをできたのも、シルヴィのおかげだ。ヨシマサはまた深々と、
「いや、もういいから顔を上げてくれ。それより、旅に出るお前に、少し頼み事があるんだ」
「頼み事? 恩返しだ、できる限りのことはするぞ」
「そう堅苦しく考えなくていい。旅の中で、余裕がある時に、何かのついでに、という程度で充分だ。……忍者、というのを知っているか?」
ディルガルトの中央を貫く大通り。ここは大都会なので人が多く、荷物を満載した牛車なども忙しく行きかっている。だが綺麗に整備された石畳の街路は幅が広く、人や車が数多く通行しても、まだまだ余裕がある。
そんな大通りの角々では、露天商が商品を並べていたり、大道芸人が見物客を集めていたりする。そろそろ夕闇が迫ってきたが、夜は夜でまた活気づくので、ここが静まるのは夜明け前の一時だけといっていい。
そんな大通りの、いつもの風景のひとつが、賭け試合である。といってももちろん、街中で殺し合いをするわけではない。素手の殴り合いで、先に顔面に一発入れた方が勝ちだとか。取っ組み合いで、相手の背中を地に着けた方が勝ちだとか。そういったものだ。
これが魔術師だと、魔力勝負になる。
僧侶が駆使する、【法力】による術のことを【法術】と言い、魔術師が魔力を用いる術のことを【魔術】と呼ぶ。魔術と法術、二つの総称が【魔法】だ。
魔力を操り、炎などに換えて使用する術が魔術なわけだが、術になる前、魔力の段階では、筋力などと同じ単純な力である。それによる押し合いが、ここでの一般的な試合形式だ。
「……く、くそっ、踏ん張れな……っ……がっ!」
後方に飛ばされた男の背中が、勢いよく石畳を叩いて砂埃を上げた。
「そこまで! 勝負ありっ!」
審判の声が響き、金を賭けていた観客たちの声が轟く。ある者は大儲けで歓喜、ある者は大損で落胆。金を賭けてはいないが、見世物として楽しんでいる者もいるので、そんな者たちからも色々な種類の声が響いている。
そんな観客たちが作る輪の中央。魔力による真っ向押し合い勝負で敗れ、豪快にぶっ倒された中年の魔術師が、倒れたまま苦笑して言った。
「ったく、強くなったなぁ坊や。ここに来たばかりの頃とは、比べ物にならねえ」
「ありがとうございます」
華奢な体に魔術研究所の制服を纏ったその少年は、一礼して魔術師に両手を伸ばした。
まるで宝石を梳いて作られたかのような、眩い碧色の髪。野原を元気に走り回る子犬を思わせる、愛らしく無垢な瞳。あの日、ヨシマサによって一命を取り止めたミドリである。
「噂は聞いてるぜ。魔術研究所でも、優秀な研究員で通ってるって。もう一人前の魔術師だな」
ミドリの両手に掴まって立ち上がった男が、ミドリを見下ろして言う。こんな場にいるのは、やはり旅の冒険者や傭兵などが大多数なので、その中の誰と比べても、ミドリの背の低さや、体つきの細さは際立っている。
女装させれば……いや、このままでも、何も知らなければ、ミドリを男性だと思う者はなかなかいないだろう。ここの観客たちはほぼ常連ばかりで、皆が顔なじみなので知っているが。
「僕なんか、まだまだですよ。知識と技術は学ばせて頂きましたけど、実戦経験はありませんから。僕にとって経験と呼べるのは、ここでの試合だけです」
「ああ、確かに実戦の経験は大事だ。外に出りゃ、いつどんな戦いに巻き込まれるかわからんからな。どの術をどの状況で使うかの瞬時の判断、緊張に潰されずに術を正確に駆使する度胸……こんな試合では得られないものも多い」
「はい。だからせめて、今得ることができる限りのものを、しっかり得ておかないと、と思ってます。今日も、ありがとうございました!」
ミドリは、また魔術師に一礼すると、審判から賞金を受け取り、ぱたぱたと去っていった。