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少年の体が大きく痙攣した。
「あ、ぐ、ああぁぁっ!」
傷口から湧き出て波打つ黒い蟲たちの数が増え、一層激しく波打ちだした。傷口に触れている、ヨシマサの腕への纏わりつきも激しくなってくる。
気光を強めれば一掃できるだろうが、この状態でそれをやっては、少年の体が耐えきれない。だが弱め過ぎてもいけない。蟲たちの浸食にヨシマサもろともやられてしまうし、今以上の出血を許したら、そろそろ死に直結するだろう。
「くぅっ……!」
ヨシマサは歯を食い縛り、気光の強さと流れを調節し、蟲と戦い、同時に少年の傷を少しずつ治癒していく。だがそうしている間にも、少年は苦しみ、悶え、どんどん弱っていく。
少年が、涙に曇る目でヨシマサを見た。
「……僕……もう……」
細く小さく、消え入りそうな声。捨てられ、傷つき、雨に打たれる、子犬のような瞳。
気は魂に直結するものであり、生物の根幹にあるものだ。体力や魔力を植物の茎や葉とするならば、気は根。土中深くのものなので、常人には見ることも感じることも容易ではない。だが体力や魔力と同様、誰もが必ず持っているものであり、誰にも通じるものだ。
その気の流れを気光と呼び、それを高めて用いるのが気光術である。全ての源である気を直接用いているので、気光術は形のない魔術や霊体を攻撃することもできるし、傷ついた人の体を癒すこともできる。
そして気光による治癒とは、自分の気光を分け与えながら相手の気光に働きかけ、魂を活性化させ、相手の自己治癒能力を高めることで為されるものなのだ。
故にその効果は、治癒される本人の魂から生まれる気力、心の生命力に左右される。治癒される者の心が弱れば弱るほど、治癒は困難になっていくのである。
今、この少年は重傷を負い、且つ恐ろしい術をかけられた状態で、更に記憶がないため、心の拠りどころが全くない。死の崖っぷちにいて、縋れるものがないのだ。絶望するのも当然の状況だが、しかし少年自身が生きることを諦めてしまったら、もう助かる見込みはない。
ヨシマサは必死に、少年を励ました。
「こんな術に負けるな! 俺が必ず、助ける!」
「っ……あ、あ……あなたは……誰……? ……に、兄様……なの……?」
もう、聞き取るのが難しいほどに小さくなった少年の声。これが最後の、希望の欠片とヨシマサは判断した。もはや手段を選んではいられない。
その時、少年の、美しい碧色の髪が目に入った。ヨシマサは躊躇わず叫んだ。
「そうだ、俺の名はヨシマサ! お前の兄だ、ミドリ!」
「……ミド、リ……」
「俺が、お前の兄がここにいる! 可愛い弟を、決して見捨てたりはしない! だから頑張れ、ミドリ!」
「……にい……さま……」
苦痛、恐怖、混乱、絶望で染まっていた少年の表情に、微かな安らぎと希望が灯った。
ヨシマサの視線をしっかりと受け止めるその瞳に、精気が戻ってきた。
「よし、そうだ! いくぞおおぉぉ!」
ヨシマサの気光が、少年……ミドリの気光と結びつき、同調し始めた。ミドリにとって無害なものとなった強い気光が、その全身に充満し、消えかけていた生命力を甦らせていく。
「ヨシマサ!」
シルヴィが部屋に踏み込んだ時。
疲労困憊で床に座り込むヨシマサの前に、ヨシマサのマントをかけられて安らかな寝息を立てる少年がいた。
「その子は? 誘拐された子の……生き残りか?」
部屋の中に転がる死体の数々を見て、シルヴィが問いかける。
「ああ……なんとか……生き残っ……た」
汗まみれで、まだ呼吸の整いきっていないヨシマサが、マントを少しめくった。少年の白い胸に、横一文字の傷が走っている。
そう酷いものではなく、細い筋にすぎないが、なにしろ白く滑らかな肌をしているので、どうしても目立ってしまう。これ以上は、治せなかったのだ。
だが、この子を蝕む猛毒のような魔力の蟲たちを、欠片も残さずに消滅できたのは、気光で確認済みだ。斬り裂かれた筋肉や傷ついた肋骨もほぼ修復できた。もちろん出血も止まっている。体力も、少しは回復できたはず。
これでどうにか、命の危険は去った。記憶喪失だけは不安だが……しかし、ヨシマサの体力がもう限界だ。あまり得手ではない、治癒の気光を使い過ぎてしまったために。
「すまん。首領は逃がしてしまった」
ヨシマサは、ここで起こったことを説明した。
シルヴィは頷き、
「奴らのアジトを潰しただけで充分な手柄だ。気にすることはない。それより、その子を早く街へ連れて行かねば」
「ああ。頼む」
他の部屋を探索していたシルヴィの部下たちが、部屋に入ってきた。シルヴィの指示を受け、少年を抱き上げて連れていく。
これでもう、あの子は大丈夫だ。大丈夫だが……
『俺のせいだ。俺が、一人でいけると思いあがって、先走ったから。あの男を生け捕ってやろうなどと、手柄のことを考えたから。シルヴィたちと一緒にここに来ていれば、あるいは有無を言わさずあの男を斬り捨てていれば、こんなことにはならなかった』
ヨシマサは己の未熟を恥じ、軽率であったことを深く悔いた。
【勇者の国】ディーガル王国。ここは、強く正しい信念をもって怯むことなく己の道を行く、勇気ある者=勇者が尊ばれる国である。
武器を手に、強大な魔物や犯罪組織などと火花を散らす騎士、戦士。
未知なるものを求め、前人未到の研究や発掘に取り組む魔術師、冒険者。
神々とのより深き対話の為、厳しい修行を積んで心身を鍛え上げる僧侶、神官。
大損害のリスクを恐れず、新たな交易ルート開拓や新商品開発に勤しむ商人、職人。
多くの人々の生活と命を背負い、数々の難題が絡む外交と内政に取り組む王族、貴族。
誰もが、それぞれの道で勇気を奮い、未来を切り開く【勇者】たらんとしている。
そんなディーガル王国が、近年、ある東方の島国との交流を開始した。大陸広しといえども、遥か海の彼方にあるこの国と国交をもっているのは、ディーガルだけである。これも、万民が【勇気ある者】たらんとする国風ゆえのことといえよう。
まだ付き合いが浅いため、行き来している人数も、交易している物品の量も、さほど多くはない。だが今のところ関係は良好で、双方ともに交易で大きな利益を上げているので、今後ますます両国の仲は深まっていくだろうと言われている。
そんな中で、東方から単身、この大陸に渡ってきたのがヨシマサであった。【勇者の国】と名高いこのディーガルにて、己が武を高めんとして。そして、【勇者】たちの中でも大きく傑出した存在であり、永く歴史に刻まれる者、【伝説の英雄】となることを夢見て。
ヨシマサはこの王都ディルガルトにて、騎士団の傭兵部隊に参加した。何度か任務をこなし、この国の生活にも慣れてきたところで、あの事件に遭遇したのである。
あれから四季が過ぎ、ヨシマサがこの大陸にやってきてから、ちょうど一年が経った。
ヨシマサはまだ、このディルガルトで騎士団の傭兵として生活している。