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「まあいいわ。この子も無事だったみたいだし」
レティアナは、唸るルファルの背後に立って手を翳した。
「心の神様、この子に平穏を……」
レティアナの手から柔らかな光が溢れ出し、ルファルに降り注いだ。
その光は、乾いた砂に撒かれた水のように、ルファルの中に染み込んでいく。それは正しく水のように、ルファルの心の中を鎮火していった。
ケンカをしている猫のようだったルファルの顔から、険がとれていく。それに合わせて、耳としっぽ、爪と牙も引っ込んでいく。
「……ぁ……」
ルファルが立ち上がった。今、夢から覚めたといった顔で。
「わ、私……」
自分の体を抱きしめて怯えるルファル。
そのルファルにレティアナが声をかけようとすると、蛇男がまた異様な叫び声をあげて、
「ァゴオオオオゥゥ!」
口から、丸太のような蛇を吐き出した。その蛇はまだ火に包まれており、蛇を吐き出した男の方は、もう燃えてはいない。
その男は、鱗もなく腕の長さも元通りで、ごく普通の人間の姿になっている。傷口から流れている血も赤い。ただ、ひどく衰弱しているようで、蛇を吐き出すと同時に倒れてしまった。
「た……たす……け……」
ミドリが駆け寄って膝をつき、抱き起す。
風貌が戻っていたので、今度はミドリにも判った。この男が、昼間の借金取りであると。
「ぜ、ぜんぶ、白状、する……から、おお俺、を、騎士団、に、突き出し、て……牢に、い、入れてくれ……怖い、こわい、コワイ……」
よほどの恐怖、そして苦痛を味わったのだろう。顔色も表情も、死人のようだ。
一方、火に包まれた蛇はミドリたちから離れ、高く跳躍して逃げようとしたところ、駆けつけたヨシマサによって斬り捨てられた。真っ二つになった蛇は絶命し、炭となっていく。
「遅れてすまん! ミドリ、無事かっ!」
「は、はい、兄様。僕は何ともありません。でもあの、この人と、ルファルちゃんが」
ミドリは立ち上がって、ヨシマサに事情を説明した。
元・蛇男の借金取りは倒れたままで、マリカが尋問している。
ルファルは、立ってはいるが変身して暴れてしまった自分に怯え、震えている。
そんなルファルを、レティアナが優しく抱きしめた。
「ルファルちゃん、っていったわね。貴女、もしかして自分のことを妖怪獣だとか思ってない? さっきの蛇男とか、昼間のクモ男の同類だって」
ルファルは俯いたまま、答えた。
「お姉さんだって、見たでしょう……? 私が、あのバケモノと、違うっていうんですか……?」
「ええ、違うわよ」
レティアナはきっぱりと言い切った。
「実は昼間、酒場であなたを見た時、ちょっと感じてね。それで耳を澄ましてみたら、案の定。貴女の体から聞こえる、肉や骨や血や水の……体の神様の声が、普通の人間とは少し違っていた。だから、貴女をあの場から逃がしたの」
「か、神様の、声?」
「そうよ。そしてあなたは、さっき私の火を浴びて平気だったでしょ? あれが、貴女が妖怪獣ではないという証拠」
顔を上げたルファルと、まっすぐに見つめ合ってレティアナは説明した。
「私の、清浄の火はね。この世ならざる、邪悪な魂を焼くものなの。それを受けて何ともなかったのだから、貴女は異世界から召喚された獣だとか、どこかのイカレた魔術師が作った兵器生物だとか、そういうのではないわ」
「……じゃあ、私は……」
「ライカンスロープ、よ」
ルファルには聞いたことのない名を、レティアナが口にした。
その名を、ミドリは知っている。魔術研究所にあった本で読んだことがある。ヨシマサも、噂だけは聞いたことがある。だが二人とも、実物を見るのは初めてだ。もともと空想上のものか、あるいはとっくに絶滅したか。そんな風に思っていた。
ヨシマサが、レティアナに尋ねた。
「おい。ライカンスロープというと、確か……」
「獣人のことよ。例としては狼男が有名。貴方には、狐憑きとでも言えば解り易いかしら? といっても、ライカンスロープにも種類はあるから、狐憑きと同種のものも、全く違うものもいるけど。この子はその、全く違うタイプ」
「というと?」
「清浄の火で焼かれなかったわけだから、何も憑いてない。霊的にも、肉体的にもね。つまり、最初からこういう種族なのよ。貴方は人間、私はエルフ、で、この子はライカンスロープ」
すらすらと説明するレティアナを見上げて、ルファルは戸惑っている。
「え……と、あの、とにかく、私は人間ではない、ってことなんですよね」
「そうね。でも、それを言ったら私もマリカも同じ。貴女と同じく、人間ではない者よ」
マリカが、男の足首を後ろ手に持って、引きずって歩き出した。
「じゃ、わたしはこいつを騎士団に突き出してくるわ。ルファルちゃん、あなたの借金は返さなくてもいいことになったから、安心してね」
「えっ?」
「ヨシマサとミドリちゃんは一緒に来て。道々説明するから」
歩き出したマリカに、ヨシマサとミドリが着いていく。
マリカは、男から聞き出した話を二人に伝えた。当の男をずりずりと引きずって歩きながら。
「……ということで。こいつ自身が、あの子のおばあさんに毒を盛った実行犯らしいから、そのことの賠償と借金を相殺にするの。裏専門のザルツと違って、ツバルマー商会は表で名が通ってるからね。こんなことで訴えられたら、金銭的損失以上の大きなダメージがあるわ。間違いなく、この取引には乗るはずよ」
ミドリが、ぽんと手を叩いて感嘆の声を上げた。
「なるほど! そうすれば、ライカンスロープの話を出さなくても」
「ええ。こいつ自身のお望み通り、こいつを牢に入れた上で、しっかりと公的に、借金を帳消しにできる。めでたしめでたしよ」
「それはいいが、まだ問題は残っている」
ヨシマサが腕組みをして言った。
「あの子がまた、何かのきっかけで暴れて誰かを傷つけたりしたら。いつ、騒ぎが広がって、妖怪獣だと思われ、狩られるかもわからない。ライカンスロープなんて、普通の人は知らないか、知っていても実在を疑うぞ」
「そうですね。それに、今回の借金は凌げても、おばあさんと二人きりの暮らしには、やっぱり不安がありますし。……でも、そこまでは僕らにはどうにも……」
「そうでもないわよ」
マリカは、引き摺り歩きを止めないまま、にかっと笑った。
「ま、わたしたちに任せといて。そろそろ、ルファルちゃんも落ち着いただろうから、レティアナが案内してる頃よ」
「案内?」
「ええ。この事件が、この街で起こって良かったわ。ディルガルトにはアレがないから、ここまで移動するのが面倒になるとこだったけど」
数日後。
「いらっしゃいませ~!」
コスプレ喫茶【けものっ子】にて、可愛らしいエプロンドレスと猫耳・猫しっぽを装備して、笑顔で接客するルファルの姿があった。
「いやいやいやいや、ちょっと待て! 何だこれは!」
思わず立ち上がって叫ぶヨシマサ。同じテーブルにはレティアナとマリカ、そして目を点にしているミドリもいる。




