第1話
プロローグ
昔々、その島国は、海を隔てた外国からは「日の国」と呼ばれていた。現在より数百年位前のことである。現在では異形の者たちは存在しないと言うことが通説になっているが、そのころは人間たちと共存していた。
人々にとって異形の者の多くが、その禍々しい顔かたちによって忌まわしき者とされ、人々の倫理観とはかけ離れた言動により、たとえば鬼と呼ばれた者たちは地獄からやって来たと思われていた。だが例外もあり、神と崇められていた種類もあった。それは龍または龍神と呼ばれていた種類だ。
龍が生きながらえて百年以上になると、龍神と呼ばれるようになった。
その島国はその中でも十数の小さな領土に分かれていて、絶えず隣国間で争いが起こっていた。その内に段々強弱の差が出てきて、東の大国が近隣の国を従え統一国家、「日の国」を作ろうとしていた。地方の小国の領主は東の大国に逆らう力は無く、東の大国の領主、大河俊重の野望は達成されていった。
だが、そんな国家間の争いとは無縁だった国があった。南の山岳地帯を含む小国紅国である。
その国は小さいながらも豊かであり、豊かなために最新の武力も西国との貿易で持っており、近隣の国も紅国と争っても負けは決まっていたので、攻めては来なかった。
なぜそんなに豊なのか、隣国では疑問に思っていた。しかし噂は立っていた。紅国には大規模な金山があったのだ。
そのことは紅国の最大の秘密事項であり、金山で働く人々はそこのころの賃金としては法外な量を受け取っており、その代わり金山で働いていることを口外してはならない掟であった。彼等は国有の山の林業の労務者ということになっていた。
そしてその金山を守るために特殊な武器と類まれな戦闘能力を持った紅軍団がいた。軍団の者たちは外部からの侵入者を討ち、金山で働く者の逃亡を防いでいた。普通は逃亡する気になる者はいないのだが、他の国からの間者が入ってくることがあり、間者は自国に情報を流しに逃亡しようとした。
紅国は豊かだったため、近隣の国から貧しくて生活出来ない者が、自分の生まれ育った国を捨てて紅国に働き口を求めてくる事が多かった。紅国は若い働き手を拒むことは無かった。仕事は十二分にあったからだ。
しかし入国したら最後、故郷に戻ることを許されることは無かった。だからと言って自分の国では生きていけないのだから、それを承知でみんな働いていた。
そんな状態だから、間者も入って来安かった。しかし掟を破って出国しようとした者は間者と見なされ、容赦なく軍団に殺されることとなった。
第1話
紅国に、一人の美しい龍神が住んでいた。住処は紅国で一番大きな川、紅琉川である。
龍神は好んで川に住み着く。
彼女の名は、紅のせせらぎ姫。彼女は人の姿になる事が出来る能力を持っていた見かけは二十代後半と言ったところだろうか。だが、歳は二百歳前後になる。とは言っても龍は寿命が永遠と言ってよいほど長いのである。
龍神は美しい者が多いが、紅のせせらぎ姫は中でも類まれな美しさだった。彼らには結婚という決まり事は無いが、彼女には数人の男友達と言える相手はいた。
その中には彼女が子供を生んでも良いと思える相手も居た。相手の名は「北の大露羅の尊」と言った。
そして百年ほど前に「紅の新しきせせらぎの尊」という名をつけた息子を生んでいた。
二、三十年もすれば寿命の長い彼らといえども自立して巣立っていくものだが、情の厚い紅のせせらぎ姫は息子を手放せず一緒に暮らしていたのだった。
そんな龍神の住む紅国にしても、紅琉川にしても、なぜそのような名になったかと言うと、昔、高度の文明を持った西国から来た一人の旅人が、この国を訪れた時の事である。夕暮れ時、大きな川に差し掛かると、水面が夕日の紅色を反射して眩いばかりに紅に光り輝いていた。それに川ばかりではなく、岸辺一面が輝いていたのだった。
川にはおびただしい量の砂金があり、辺りの岩にも金が含まれていたのだ。
旅人はそれに気が付き、近辺の無学な貧しい人々に砂金の価値を教え、金を採取することを教えた。その国の領主、山方麗光は驚いて旅人を召抱え、高度の文明を持った西国の事、金の価値や採取の仕方を知った。
旅人は、今まで無名の貧しい集落の集まりだったその国の名を、紅国と名乗らせ、その川を紅琉川と名付けたのである。
そして紅国の領主に、決して金山のことを他の国の者に知られてはならぬ、知られてはたちまちこの国は戦場になるぞと諭して立ち去ったのだ。
西国の旅人は、金を巡っての争いの醜さを、自国でいやと言うほど味わっていたのだろう。
無学だった山方麗光だが、金を売って品物に変えてみるとその価値を実感して、たちまち金の亡者になっていった。家来、領民達も然りだった。
簡単に採取できる砂金は取り付くし、山を掘って採取しだした。
彼は隣国に悟られぬように、遠く海を越えた西国で金を売りさばいていた。そして武力で秘密を守ろうとした。西国から武勇の優れた格闘家を呼び寄せ、腕に覚えのある若者に習わせた。
山方麗光は、隣国の兵隊とは比べ物にならないような、強力な軍団を作り上げたのだ。
それは紅軍団と名づけられた。
紅のせせらぎ姫は、人間がいくら自分の住処の川に入り込んで、砂金を探し回っても気にはしなかった。まあ時々は、あきれて眺めていたりはしたが。龍神は大様なのだ。
そんなある日、紅のせせらぎ姫の住処へ、北の大露羅の尊が遊びに来た。
彼もまた、以前と違う辺りの人間の金の亡者ぶりには無関心だったが、未だに息子がその辺をうろうろしているのには少し意見をした。
「おまえ、もう良い歳であろう。一人前の龍になったからには、母親と同じ住処に住まうのは如何なものかのう。はやく彼女でもつくれよ。そうだ。善は急げと言うぞ。今からとっとと探しに行け」
父親にあきれて言われた紅の新しきせせらぎの尊(名が長すぎるのでシンと呼んでおこう、紅のせせらぎ姫も彼のことはそう呼んでいた)ことシンは、少し憤慨して、
「私にだって、彼女の一人や二人ぐらいその気になればすぐに出来ます。母上がさびしがると思って、今までここに居てやったのですから。どうせ私がお邪魔なのでしょう」
と、捨て台詞を残して紅琉川の住処を飛び出した。
一部始終を横から見ていた紅のせせらぎ姫は困ってしまった。
「おやおや、そのようなことをシンに申されたところで、シンにちょうど良い年頃の姫などこの辺りには居りませんよ。大露羅殿」
「この辺りには居ずともほら、西の大陸には年頃の姫がごろごろたむろしているぞ。七大湖の辺りだ。今日もここに来る途中覘いてみると、おるわおるわ、また新しい姫を一度に三人産みおったぞ。西の瑞の姫は女腹というのだろうな。いやいや誤解するな相手はわしではない。兄者の北の極の尊だ」
「そう言われても、シンはあなたに似ず空を翔ることが苦手のようです。私はシンが空を翔けているところなど、見たことがありません」
「なに、そのように心配するでない。おそらく、その必用が無かったからであろう。あれは姫とわしとの間に出来た子だ。その能力は他の龍の能力とは格が違うはずだ」
そのころシンは親の心配や期待をよそに、捨て台詞を言って出た面子も気にせず、まだ住処の近くをうろついていた。
龍神は人の姿をしている時も、その神々しい美しさは一目で只者ではない事がうかがい知れるが、一度龍の姿に変わり天を翔ければ、雷雲を従えて雨と風を操る異形の者である。
川など水に住むのを好む者が多いが、北の大露羅の尊のように殆ど空に居る者もいる。空を好む者の方が水に住む者よりも格が上で、能力も際立っていた。
シンは北の大露羅の尊という空に住む龍神の子なのであるが、まだその能力は開花していないようである。遅咲きの方がその能力は際立っているというのが、彼らの間では通説になっているのではあるが、紅のせせらぎ姫にとっては気がかりな事である。
気がかりの種はまだあったが、紅のせせらぎ姫は幸いなことに、まだ気が付いていなかった。シンはなぜ空を飛んでこの地を出て行かないのかと言うと、里の人間の中にいる、美しい娘に心を奪われていた。名を夕霧と言い紅軍団の頭の娘だった。夕霧は姿形だけではなく心も美しかった。実際見た目だけが美しい娘なら、里にはまだ何人もいた。
シンは幼いころから、人間たちが必死で金を掘り、そんなところを他の国の者に知られはしまいかと、やきもきして暮らしている人々を、不思議な気持ちで見続けていた。シンはよく母親の紅のせせらぎ姫に、
「どうして、人間は石ころをいつも一生懸命掘っているの」
と、尋ねた。
「坊や、あれは金と言ってね、人間が一番好きな物なんだよ」
と母はいつも説明していたが、シンは何度聞いても納得できなかった。
そんなある日、シンは同じようなことを考えている少女に出会った。
「どうして皆、そんなに金山が大事なのかしら。他の国に知られたら、本当に戦争になるのかしら。父上達は、もう数え切れないくらい間者を殺しているわ。こういう事は、悪いことなのじゃあないかしら」
少女は、毎日そんな事を独り呟きながら川で洗濯をしていた。
数十年前の洪水で、紅琉川の新しい流れが紅軍団の本拠地、本所の前に出来ていた。その支流は実はシンの寝床であった。
シンは少女の幼いころから、見知っていたのだ。少女は他の人間とは違って、金の亡者にはなっていなかった。その事が彼の興味を引いたのだった。
彼女をずっと観察しているうちに、いつしか彼女を本気で愛するようになっていた。
そのことを紅のせせらぎ姫が気が付いたなら、大慌てで、
「シンや、人間はすぐ死んでしまいますよ」とか「すぐお婆ちゃんになってしまいますよ」
と言って、人間を愛することは出来ないと止めただろう。しかし、シンにとっては幸か不幸か、彼の気持ちを母龍に気付かれることはなかった。
きっと紅のせせらぎ姫にとって、息子が人間の娘を本心から愛することなど、想像もつかなかったのだろう。彼女にとって、人間と異形の者との恋愛など、鮒と人間の結婚がありえないのと同じような事なのだ。