魚喰い池
寺の裏庭には池がある。
裏庭は古風な日本庭園式。四季折々を彩る木々と、一面を覆う緑の下草が、やや狭いながら見事な景観を作り出している。
池は、その庭の中央にある。山から流れ出る湧き水をたっぷりと湛え、大小の岩を美しく配置し、小さな石造りの橋を架けた姿は、歴史と風情を感じさせる。
初秋のある日、住職が池の清掃業者を呼んだ。今まであまり管理してこなかった池を、根本から綺麗にしたいということらしい。
「この池は、どうも魚が居着かんのですわ」
清掃業者と並んで池を見下ろしながら住職はいった。
「何度鯉を入れても、数ヶ月もすれば全部いなくなる。私の子供時分からそうですが、寺に伝わる話では江戸の時代から既にそうだったらしく、この一帯では、この池は『魚喰い池』と呼ばれていたようです」
住職の話の通り、今も池に魚の姿は見えない。前回鯉を十匹入れたのは一ヶ月前だという。
それでも今まではさほど気に止めなかった。鯉も気が向いたら池に入れる程度で、何もいない期間の方が長かったそうだ。
ただ、近年、新規参拝者を呼び込むため、裏庭を活用できないかと考えるようになった。そのためには池に目を楽しませる鮮やかな錦鯉が泳いでいた方がいい。
「しかし、鯉を何度入れても、やっぱり駄目ですわ。すぐに全滅です。原因が分からんので、とにかく一度、池をきちんと清掃してみようと」
池は今まで住職家族が適当に手を入れるだけだった。魚の居着かない理由についても、あれこれ考えてはみたものの、素人では原因を特定することが出来ない。そのため専門業者に依頼することにしたという。
「そうでしたか。水の状態は悪くなさそうに見えますが、少し泥が堆積してますね」
清掃業者は池を覗き込みながらいった。
「底が浅くなっているので、鯉にとって住みにくい環境ではあるでしょう。とりあえず水を抜いて清掃してみましょうか」
清掃業者は排水ポンプを持ってきて、池に設置した。ポンプを作動させると、水面が細かく揺れ、少しずつ水かさが減っていく。
その様子を見守りながら、清掃業者は首を傾げた。
「しかし、鯉がすぐに全滅するほどの状態には見えませんね。となると、病気か、酸欠か、農薬かなんかの混入か……」
「病気の様子はなかったですね。農薬については考えませんでしたわ。ただ、」
住職は眉を寄せる。
「それらの場合だと、鯉の死骸が残りませんか?」
「残ります」
「残らんのですわ」
「は?」
「この池で鯉の死骸が浮くことはないんです。いつのまにか姿が消えとるんです」
「消失する、ということですか? 手品みたいに?」
「そう。ある日、気が付くと一匹いない。また別の日に一匹いない。そうして全部いなくなります。酷い時は半日で全部消えました」
清掃業者は、まさかというような顔をした。
しかし、住職は冗談を言っている様子ではない。至極真面目な表情で続ける。
「そういえば、前に一度だけ、弱った鯉を見かけたことがあります。ふらふらと妙な泳ぎ方をしてましてな。引き上げて様子をみようと思って、網でもって、ほら、そこの、浅いところに追い詰めたんですわ。あと少し、というところで、鯉がすーっと、その植木の影に隠れたんです。慌てて覗いたんですが、いませんでした。もちろん潜れるような深さはないです。隠れる場所もありません。しかし、見えんかった。いるはずの赤白の背中は見えず、水が静かに揺れているだけ。それっきりです。その鯉はいなくなりました。死骸も浮かびません。綺麗に消えてなくなりました。きっと、池が喰ったんですわ」
「はあ……」
清掃業者は反応に困り、曖昧に頷いた。
しかしその困惑を全く意に介さず、住職は淡々と言葉を重ねる。
「実を言いますとな、この池で消えるのは魚だけではないのです」
住職は視線を池のどこか遠くに注いだ。
池はきらきらと午後の光を反射している。日を受けた水面はまばゆく輝いているが、その分、水中の影は濃く、深い。
住職の目も、池も、どこか底知れない色に染まっている。
「この池は、人間も消えるんですわ」
感情のない声音で住職はいった。
昔、江戸時代に飢饉がありましてな。この辺り一帯も作物が実らず、餓死者がたくさん出たようです。
ただ、この寺はさほど影響を受けませんでした。というのも、どうも当時の先祖があちこちの有力者とつるんで、かなり悪どいことをやっていたらしいんですわ。それこそ餓死寸前の人間から、供物と称して食物を奪うような所業もやっていたとか。それで寺は飢饉でも不自由なく、裕福に暮らしとったのです。
この池にもたくさん鯉が泳いでいたといいます。付近の人々が日々の食べ物にさえ窮するなかで、池に大量の鯉。羽振りの良さが伺えます。
その鯉を狙って来たんですわ。人間が。飢餓に喘ぐ付近の人々です。食い詰めてどうしようもなくなり、鯉を獲って食べようと夜な夜な侵入してきたんですな。
しかし、誰も戻りませんでした。鯉を盗みに寺に忍び込んだ人間は、誰一人として帰ることはありませんでした。死体も見つかりません。消えたのです。跡形もなく。
当然、付近では噂になりました。あの池には何かある。あの池に行くと人が消える。あの池は『人喰い池』だと……。
ありえない、というお顔ですな? まあ、そうでしょう。
しかし、こういった噂というものは、案外素直に現実に起こった事実を内包しているものですよ。
推測ですが、まず、ひとつ。池に来た人間たちは、いずれも飢餓で弱っていました。栄養失調で、まともに歩けん者もいたでしょう。そういった者が鯉を取ろうとして足を滑らせ池に落ちた。そして見つかり、罪人として引っ立てられていった。夜中のうちだったので誰にも知られなかった。家族も外聞が悪いので口をつぐんだ。
そんな風に考えれば、どうです? あり得る気がしてきますでしょう?
こんな場合もあったかもしれません。池に行くと言いながら、どこか別の場所へ逃亡した。家族との共倒れを嫌っての出奔。要するに、自分一人が生き残るため、家族を捨てていく口実にしたということです。
また、侵入者を減らそうという寺の思惑もあったかもしれません。『人喰い池』という恐ろしい噂を流すことで、鯉泥棒の発生を抑制する。
……どうですかね。これらのどれかか。これら全てか。いずれにしても真実はそんなようなものかもしれません。
しかしね。これらの他に、この付近で、最近まで固く信じられてきた有力な説がひとつ、あるんですわ。
鯉泥棒は皆、池に沈められた。これです。
さっきお話しした通り、当時、寺は色々な人間から恨まれていました。鯉泥棒だけでなく、様々な方面から相当な恨みを買っていたと思われます。なかには暴力的な方法で報復しようとする人間もいたでしょう。そのため、寺は護衛を雇っていました。
この護衛というのがまた問題でしてな。地域一帯から忌み嫌われている場所に、金に釣られてくるような人間です。まともな人間ではありません。粗暴、というより、もはや無法、非道な者ばかりだったようです。人間を痛めつけるのを好むような輩ですな。特に弱った人間をいたぶるのを娯楽とするような。
そんな人間に捕まった鯉泥棒がどうなったか。想像するだに恐ろしい。飢餓でふらふらになった人間は、外道の恰好の玩具であったでしょう。鯉泥棒はみな、捕まったあと口に出すのも憚れるような目に遭い、最後は池に撒かれ、鯉の餌になった。そんな噂が広まりました。
それだけではありません。なかには鯉泥棒ですらない、無実の人間がいたという噂もあります。ただの通行人や、浮浪者、果ては近所の赤ん坊も攫われていったとか……。言い伝えでは、泣いて許しを請う声、喚く声、悲鳴が、昼夜問わず裏庭から聞こえていたといいます。覗き見た池が真っ赤に染まっていたとも。それはさながら地獄の光景であったことでしょう。寺でありながら実態は地獄。なんとも業の深い、恐ろしいことです。
こんな凄惨な歴史のある池です。人々が、魚の居着かない理由を過去の怨念に結びつけても不思議はないでしょう。
あの池には殺された人々の怨念が住み着いている。それが魚を喰っている。だから魚が居着かないんだと。
今でもそう信じる人はいます。この池は呪われている。秘すべき場所だ、と。だからずっと、この裏庭は非公開とされてきたんです。
迷信深い年寄り衆になると、喰っているのは魚だけではないと主張する人もいます。魚だけではない。人間も喰らい続けていると。彼らは信じているのです。この池が、今も密かに人間を呼んでは喰らっていると……。
もちろん、そんな事実はありません。それは人間が集まって生活しておれば、たまには失踪者もでますが、皆理由がはっきりしております。また、過去に悲惨な目に遭われた御魂の供養も欠かさず行っております。
しかしね。毎日毎日池を眺めておると、時々感じるんですわ。
ああ、人を呼んでおるな、と。
水面で揺れる波が手招きに見えたり、池を渡る風の音に呼び声のようなものが聞こえたり……。池におる何かが、人を呼んでいるのが分かるのです。
ああ、ほら!今も!聞こえます。風の中に人の声が。沢山の人の声が。若い声、年老いた声、高い声、低い声……。喚いたり、泣いたり、縋ったりしながら、我々を必死に呼んでおります。彼らは人に飢えておるのです。ああ、なんと惨いことか。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏……。
住職は数珠を擦り合わせて念仏を唱えだした。
清掃業者は池を見た。池は水かさが減り、まもなく底が現れようとしている。
何も聞こえない。しかし、どこか重く淀んだ空気が池から漂ってきている気がする。
ざざあっと風が吹いた。妙に強い風だ。周囲の木々がざわざわと騒ぐように揺れる。午後の日はまだ高いのに、池の水が濃い黒色に染まっている。堆積した泥の色だろうか。いやに黒い。どろどろと濁った黒だ。これは、もしかすると、過去に流された多くの血の……。
体に震えが走った。
「と、まあ、こういう風に話しますとな、子供たちが震えあがるんですわ」
不意に明るい声がした。隣を見やると、住職があっけらかんと笑っている。
「……ええと?」
「いやね、たまにおるんですわ。この池の噂を聞いて、裏庭に侵入してくる子供らが」
「はあ」
「子供というものは怖いもの知らずですな。元気なのは良いことですが、岩に上ったり、池に落ちそうになったりと、とにかく危なくて仕方ない。そういうやんちゃな子らに、今のように話してやるんです」
「……なるほど。作り話ですか。それは効果覿面でしょうね」
「青い顔して、二度と来なくなりますわ。はははは。ああ、いやしかし、池にまつわる言い伝え自体は本当ですよ。まあ、人が喰われるなんてことはありはしませんがね」
「そう、ですよね」
「まさか!あるわけないでしょう。昔話は昔話、噂は噂です。この現代で鬼や亡者などあるわけがない。けれど、なかなか雰囲気があってよろしかったでしょう?」
剃り上げた丸い頭を手のひらで撫でながら、住職は笑った。清掃業者もつられて苦笑する。
「ところで、魚が消える件についてですが」
気を取り直して業者はいった。池は、まばらに底が見え始めている。
「獣や野鳥が原因といったことはないでしょうか」
「動物ですか? 裏山から来たりしとるのかもしれませんが……。あまり気にしたことはありませんな。昔からこの池には野生動物も近寄らんのです。そこの建物にしょっちゅう人がおりますし、近くに川や溜池があって結構魚がおりますから、そちらに行っとるんじゃないでしょうか」
「ああ、あの川なんですが、最近下流で護岸工事を行って、魚が激減したんです。それで新たな餌場を探して、あちこちに野鳥が出没しているようです。この地域にも飛んできていると聞きますし、もしかしたらその影響もあるかもしれません」
「そういえば、家内が見かけない大きな鳥が池の付近にいたと言っていましたな」
「では、今回魚が消えたのは鳥の被害という可能性もありますね」
「そうですなあ」
住職は、ううんと唸って腕を組んだ。野鳥が原因ならば鳥よけを設置しなければならない。が、そうなると池の景観が悪くなる。観光客を呼び込みにくくなるのでは、と算盤勘定に忙しいようだ。
池は、もうすっかり水が抜けた。堆積した柔らかな泥が、日に当たって、てらてらと光っている。
清掃業者は排水ポンプを片付けようと手を伸ばした。ポンプを掴み、顔をあげ、硬直する。
「うわっ」
つられて住職も池に目をやり、凍り付いた。
「なんだ、これは……」
池は、ねっとりとした泥に覆われている。その泥の表面に、びっしりと赤い物が浮かんでいた。赤いなめくじのようなものが一面に蠢いている。
いや、なめくじではなかった。それは人間の唇だった。無数の人間の口が泥の中から浮き上がり、ぱくぱくと開閉を繰り返している。
「あ、あれ……」
清掃業者が指差した方向には、何かが突き立っていた。唇のひとつが、棒のような細長いものを天に向かって咥えている。よく見ると、それは鳥の骨だった。肉の一片も残っていない白い骨を、唇はまだ味わえるとばかりに端をしゃぶっている。
恐らくは池の近くにいたという鳥の末路だろう。
清掃業者と住職は青くなって言葉を失った。
強い風が吹いた。
唇はもごもごと動き、骨をぺっと吐き捨てた。