33. アラクネの糸
広大な森全体をまるで屋根のように覆い尽くす無数の糸。網状に張り巡らされたそれらが最も密に集まる中心部では、この森の主ーー蟲魔族の女王アラクネが腹を空かせながら獲物の到来を待ち侘びていた。
「ほほう、アンデッドを装った傀儡の正体を見破ったか。なかなかやりおる」
指先の感覚が急に軽くなり、遠くの地点で動かしていた勇者の亡骸たちの操り糸が切断されたことを悟るアラクネ。
「なあ、マリン。悪魔の子の力、少し借りるぞ?」
彼女の視線の先には、糸で体を巻かれ吊り下げられたマリンがいた。
「アラクネ……私が混血者だっていつから知ってたの?」
糸を介して魔力を吸い取られ、意識が朦朧とする中でマリンはアラクネへと問いかける。
「お前と同じ悪魔の子から教えてもらったのさ。勇者たちの王とお前たちがこの先の渓谷で戦うということも含めてな」
「私以外にも悪魔の子がいるっていうの?」
「ああ。そいつは自らそう名乗ったわけではないが、私にはわかったのだ」
蟲の女王はマリンの宝石のように青い瞳を覗き込みながら言う。
「フードで顔の大半を隠していたが、僅かに見えた髪は赤かった。純血の土師族は瞳が黒いと言っておきながら、そいつの瞳はまるでエメラルドのような翠眼をしていたからな」
「その人は一体何者なの?」
「さあな。"堕天使"……そう名乗っていたが、それ以上のことはわからない」
マリンは人間でも魔族でもない混血者が自分一人だけではないということにどこか安堵し、会ってみたいとさえ思っていた。
「だが、只者ではないことだけは確かだ。彼女はかなり博学で、蟲魔族が同胞を喰らうと強くなれることを知っていたからな」
「まさか、見違えるようにあなたが強くなったのって……」
「そう、今の私は魔族の味を知っている。人間を喰うよりも数倍不味いが、その数十倍力は漲る。堕天使とはそれを教えてくれた頃からの付き合いだが、今回はとびきり美味な獲物がこの森へ来ると言っていた」
アラクネは遠くの方から木々の間に張り巡らせた糸たちを次々と斬りながら迫って来る存在に気付き、生唾を飲み込んだ。
「もうじき来る。人間たちの王・勇者皇帝御一行がな!」
宙に高く浮いた巣の中心から地面に降り立つと、アラクネはマリンから吸い取った魔力を足元の土へと送り、球状の物体を形成していく。
「面白い、こうやって他の種族の能力をも自在に扱えるということは、もはや万能ではないか。魔導姫ミスティ亡き今、魔族を統べる女王に相応しいのはこの私だ!」
やがてその物体は8つの長い脚を生やし、巨大な蜘蛛の姿となった。
「ちょっと待って、ミスティなら生きているはずよ!」
「どういうことだ? 以前よりも強さを増した私の糸を断つことができるのは勇者が持つ剣型兵器くらいしかない。今私の糸を斬りながらここへ向かって来ているのは渓谷での戦いを制した勇者皇帝たちに違いないはずだ!ミスティは勇者どもにとっくにやられて……」
アラクネはそう言いかけて、視界に飛び込んできた者たちの姿に目を疑った。
やって来たのは待ち侘びていた勇者皇帝ではなく、剣型兵器を持った少年と薬師の青年、そして魔導姫ミスティの3人だったのだ。
「マリン! 大丈夫?」
涙を浮かべながらマリンの名を呼ぶミスティ。
「私は平気。そんなことより、今のアラクネはもう私たちの知っている彼女じゃない。気をつけて!」
ミスティは目の前に現れた巨大土蜘蛛を見て、それがマリンの力を奪ったアラクネの操る傀儡であることを理解した。
「ほう、まさか勝ったのはミスティだったとはな。しかもお前の側に寝返った裏切り者までいるとは……」
自分の糸を斬ったと思しき勇者の剣を持つ少年を興味深そうに見るアラクネ。
「まあいい。魔導姫ミスティ! お前の不味い肉を喰って私が新たなる魔族の救世主となってやろう」
アラクネは巨大な蜘蛛の傀儡の背に乗り、ミスティへと襲いかかった。
「潰れてしまえっ!」
「そうはさせない! 土に還してやるぜ」
ミスティを踏み潰そうとする巨大な蜘蛛の脚を光の刃で切断するユウシ。
そのまま突進し、残った7本の脚も次々に斬っていく。
「無駄だ。マリンの魔力を吸い続けている限り、私は土を操り放題……喰らえっ!」
アラクネが指を鳴らすと斬られた脚は即座に再生し、その内の一本から放たれた突きがユウシの腹部目掛けて炸裂した。
「ユウシっ!」
宙へと投げ出されたユウシを受け止めるレオン。
「今こそ、秘薬の使いどころのようだな」
薬箱から出した獣化の薬を躊躇なく一気に飲み干すと、レオンの肉体は瞬く間に変異し、金の鬣を生やした勇ましい獣王族の姿と化した。
「ほう、まさか獣王族に生き残りがいたとはな。だが、貴様の爪如きでは我が糸にも土の傀儡にも傷一つつけられんっ!」
アラクネが操る巨大土蜘蛛の脚から放たれた刺突は空を裂き、レオンの影に直撃して土埃を舞い上がらせた。
「上か?」
「獣王族は魔族最速。瞬発力では他の魔族に負けないっ!」
高く跳び上がって攻撃を回避したレオンは鋭い爪を蜘蛛の上に乗るアラクネへと振り下ろす。
「くっ……届かない?」
「はっはっはっ、滑稽だな。私の周囲には結界のように無数の糸を張り巡らせてあるのだ」
獣王族の眼力でも目視できないほどの細く頑丈な糸に捕らえられ、空中で停止してしまったレオン。
彼は爪が触れる寸前のところまでアラクネを追い詰めたつもりだったが、罠に掛かってしまい、逆に危機的状況へと追い詰められることになってしまった。
「か、体が動かない……」
「安心して。私が代わりに動かしてあげるから。あなたには私の騎士になってもらうわ」
「やめろ!くっ、体が勝手に」
意図に反し、自分の顔面を殴り始めるレオン。
アラクネの糸に束縛されたレオンはまるで操り人形のように、四肢の動きを完全に支配されてしまったのだ。
「さて、ミスティはどうやら杖が壊れて何もできないみたいだし、まずはそこの勇者小僧からズタズタに引き裂いてやれ!」
「や、やめてくれっ……」
必死で抵抗するが、力を吸い取られて思うように動けず、アラクネの操り糸には逆らえないレオン。
操作されて地面に降り立つと、彼はそのままユウシ目掛けて一直線に飛びかかった。
「避けろっ」
あまりの速さに反応できなかったユウシだが、レオンの精一杯の抵抗によって爪が彼の左肩を掠める程度の傷で済んだ。
「このままでは君たちを殺してしまう。僕を殺してくれ!」
「冷静になれ! お前を殺してしまえばアラクネの思う壺だ。死体の方が操りやすいはずだからな……」
ユウシはEXカリバーを構え、レオンを操る糸を断ち切ろうと目を凝らす。
「無駄だっ!」
しかし、レオンの跳び蹴りが喉元に直撃し、大きく後方へと飛ばされ地面へと叩きつけられてしまった。
「速い……だけど、あの技を使えば糸だけを斬ることはできない」
レオンは糸に抗うだけの力を失いつつあり、雷岳の頂で戦った迷いある彼以上の動きでユウシたちの前に立ちはだかっていた。
獣王族の爪でさえ千切れない糸を斬れる唯一の手段はEXカリバーの光の刃だけ。
完全なる"風読みの剣"でなければもはや彼には太刀打ちできなさそうだったが、手加減できるほど自在に奥義をコントロールできないため、レオンを殺してしまう結果になりかねない。
「一体どうすれば……」
「降参しましょう」
沈黙していたミスティは考えを巡らせた結果、降参という二文字を最適解として導き出した。
「何を言ってるんだ?」
「どうせ負けるなら、仲間と殺し合うよりもこの身を彼女に捧げた方がまだマシでしょう?」
通り過ぎ様に魔導書をユウシに見せ、ミスティはアラクネが乗る巨大土蜘蛛の足元へと歩み寄った。
「マリンの土使いの能力も、レオンの神速の動きも、その糸さえあれば自在に使える……だったら、私の魔術だって使えるはずよ。こんな救世主と呼ばれるには力不足な私に代わって、魔族の新た希望になって!」
「ほう。お前の力を無理矢理にでも奪ってやるつもりだったが、まさか自分から譲ってくれるとはな。ならば、美味しく頂いてやろう」
アラクネは束ねた糸を投げ縄のようにして無抵抗のミスティとユウシを捕らえ、手繰り寄せて空中の巨大な網状の巣へと絡め取ってしまった。
「おお、何と上質で美味な魔力だろう。さあ魔導姫ミスティ、そいつを寄越しな!」
アラクネは巨大な蜘蛛の上に立ったままミスティへと接近し、左手から魔導書を奪い取った。
ページを捲りながら、使えそうな呪文を探すアラクネ。
「何だ? 消えている文字ばかりで、残っているのも使いづらそうなものだらけじゃないか」
「もっとよく探して。面白い呪文があるはずよ?」
ユウシたちはミスティの意図を理解していた。魔導書を手に取らせ、時間稼ぎをしながらアラクネの生気が吸い取られるのを待つ4人。
しかし、アラクネの様子は一向に変化なく、自分たちの力だけが糸越しに奪われ続ける一方だった。
逆転の可能性に賭けるミスティたちの表情は次第に不安で曇ってゆく。
「どうした? この本の表紙の細工が発動しないのがそんなに不思議か?」
アラクネは全部のページに目を倒した後、魔導書を閉じて勝ち誇った笑みを浮かべた。
「……あなた、何でそれを?」
「この糸で繋がった者の思考は丸分かりなのさ。だが、こいつはお前の魔力を吸った私のことを魔導姫ミスティだと錯誤しているようだぞ?」
「そんな……」
たった一つ残された勝ち筋すら絶たれてしまい、絶望で表情が凍りつくミスティ。
勇者帝国の反逆者たち4人の運命の糸は、蟲魔族の女王アラクネによって完全に掌握されてしまった。




