義人 追剝が原へ蛍狩 うるしの日(いつもミット。でも、ピッチャーになりたい)。 雨二モマケズ ガイコク人 ポリ袋でお湯ポチャ、悪魔カレーうどん 最後の藁 廃墟の上に月上りきぬ 生きる糧はボランティア
人は、たぶん生まれた時から、恐らく黄泉の国に召される日まで、ある魔法を掛けられている。陶酔という、その魅惑の魔の手に魅かれてついふらふらと……。エエーい、あとは野となれ山となれってな感じに。
太りたくはないと年がら年中思っているくせに、夜中にお財布を覗くと恐ろしいほど食べ物のレシートが入っているとか、朝は眠くてコーヒーをがぶ飲みするくせに、インターネットという便利屋さんの口車に乗せられて、夜な夜なポテトチップスを齧りつつも、自分の指にそっくりの指人形が勝手にタップダンスを踊るのをだらだらと見ていたり、お互いタイプでもないのに、なんだか人恋しくてさみしくて、小寒い冬場に鼻を啜りながらコンビニのおでんをつつくごとくに夜通し布団を被って二人でチチクリあっちゃうとか、殺虫剤を片手に、たった一匹の蟻の侵入経路を探るかのように、なんのために、なんのためにと生きる目的ばかり探していながら、あたかもたまたま入ったパチンコ屋で素寒貧になってしまうごとくに、降って湧いたような話に乗せられてそれっきり……。しかし、得るものもあるのだ。人のために尽くしたい。助けてあげたい。お節介かもしれないけれど、他人の人生に介入しないではおけない、たとえその相手に裏切られたとしても……。その自分以外の者に注ぐマーシー(慈悲)の念、純粋で無垢なボランタリー精神には、代えがたい喜びがある。
たった一言「ありがとう」ってそう言ってもらえるだけで、バーナーで熱せられた気球の風船みたいに、心の中がふんわりと軽くなって気持ちは宙へと舞い上がる。誰もが必ず口にする「がんばって」って言葉よりも、それは最高の心のサプリメントなのだ。
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夢川村は、人口ピラミッドがタンポポの綿帽子型の、住民の年齢層が六十代から九十代に固まっているシルバー王国である。総人口は一一〇〇人余り、もしも八百万の神々が花粉症にでもなってクシュンとくしゃみをしたなら、あっという間に人口分布は細い茎となってしまうだろう典型的な過疎地だ。山の日に夏休みの宿題で緑色の絵の具を絞って描いていた一本の大木に、折り悪くポツポツ降り出した雨が滴ってぼやけてしまった凹みのごとく夢川村のぐるりは小高い山々に囲まれ、その山懐に抱かれた当村には鉄道が走っていない。公共の線路の代わりに、秋口には手裏剣山の裾野の梯子段のような棚田に、蓑市のごとくに、天日干しのはさ掛けが所狭しと列をなす。村の住民は皆体内時計と共に生きているから、大概の人はお天道さまが明るいうちしか活動はしない。必然的にわざわざ眠い眼をこすって店を開けても、トイレには何回も立っても外を出歩く者は誰もいないからコンビニエンスストアもない(夜中に飯食ってどうなる、太るだろ)。
一見すると鄙びた寒村の態だが、この介護保険料だけはバカに高い夢川村にも呼び物と言えそうなものが三つほどある。
その一 お化けスポットとして隠れファンもいる、旧一徹小学校(昭和十一年建造、昭和六十一年(一九八六年)に廃校)。戦時中に戦況の悪化で一徹小学校に学童疎開して来た児童がいじめに遭って、布団むしの挙げ句に圧殺されてしまったのだとか、ひもじさが高じてついに栄養失調で餓死してしまったのだとか、その少年の霊が未だに都会で暮らす母親会いたさに夜な夜な現れてはこの地に足を踏み入れた者の背中におぶさり、またそのくるぶしをぎゅっと摑んで転倒させ、なかには全治三週間の怪我を負ったり前歯が一本折れてしまった人もあるとか、この手の恐怖の体験談は人の口から口へと尾ひれはひれ尻びれを付けて、実の十倍はあるだろう衣ばかりのエビ天のごとくにまことしやかな恐怖譚が飛び交う。
その二 その昔、忍者の隠れ道場があったとされる、手裏剣山。標高一、二〇二メートルの低山ではあるが、意外にも遭難者が年間両手の指では収まらないほど出る(無計画の場当たり的な日帰りのハイカーが、野生動物の通り道を登山道と勘違いして迷い込んだりするのだ)。山には、おばあさんが女の細(?)腕で経営している山小屋Iがある。素朴で庶民的な山ごはんの中でも、お魚バーガーが断トツに旨い(村で随一の川釣り名人(自称)であるオジサンから懇意で進呈された、春先から初夏に掛けての水底の魚影が透けるほど清らかな沢で釣り上げた瑞々しいイワナやヤマメを豪快に粗目にぶつぶつと切ってお味噌と生姜とお麩とコーヒーフレッシュをもみ込んで焼いたものを挟んだパン)。元はといえば、不意の宿泊客がわんさと押し寄せ、仕込んでおいた食材ではとても足りず、夕餉の下拵えで大わらわの山小屋Iの女主人である通称手裏剣ばあさんの脳裏に、カンカンカンカーンとまるで火の見櫓に昇って釣鐘をぶっ叩くごとくに閃いたというのが、俎板に載った塩焼き用の足し無い川魚をぶつ切りにしてかさ増ししハンバーグのごとくに丸めて焼いたのをおやつのロールパンに挟んでどうにか急場を乗り切ったというのが事の起こりで、いつしかそれを食べるのを楽しみに山登りをする人が続出するほどの山小屋Iのナンバーワンの山ごはんになってしまったのだとか。このおばあさん、人の心の内を見抜くある種の眼力があり、望まれれば有償で八卦を見たりもするが、本質的には焼き芋ならぬお節介を焼いて人の心をホクホクにするのが実はインスタントコーヒーと同じくらいに大好きなのだ。
その三 秋の風物詩としてフルーツ好きには垂涎もののキウイの里として知られ、月明かりの美しい夜長に栗きんなんぞを黒文字でつつきつつ推理小説に耽りながら、脳内ではマツタケご飯も良し、いや永谷園の吸いものより匂いの全くしない外国産のそれよりはここは一つ栗ご飯で、いやしかし皮を剝くのも面倒だから、サンマの塩焼きをおかずにして炊き立ての新米なんかをワシワシと、いやしかしサンマも最近高くなったから、カップヌードルとどん兵衛と一平ちゃんを取りあえず平らげて口直しにはチョコパイでも…、とひたすら考えることは食うことだらけで殺人犯の仕組んだアリバイトリックなど、いやそもそもその小説、読んでいるのか単に紙を這いずる蟻の行列のような字の形を眺めているのかさえ定かではない、何を置いても食欲だけは一二〇%の秋においてその数ある旬のフルーツの中でも当村のキウイはその孤塁を守っているのである。
それとあと一つ、夢川村の総面積のうち九割方は森林が占めているので規模は小さいけれども、手裏剣山の麓一体では酒造好適米の神の穂を栽培している。おまけは、まだ明けそめぬ朝まだきの早朝にキツネの遠吠えで眼が覚める人もあるとかないとか…。
一 義人
ニュースの大半は、ふつうの暮らしを脅かす数々の事象についてのものが占めていて(対岸の火事的なものが多い)陰鬱感が増すばかりだが、その中にあって天気予報というのは自分の生活に密着していて、気象予報士がやおら寒冷前線が通過するとでも告げれば、言わずと知れた遠山の金さん、誰もが明日の雨降りを想像してやはり陰鬱となってしまう。その鬱々とした冷たい雨に打たれた、夜行の高速バスの車内は、水を打ったようにシンと静まり返っている。とても人が満席で座っているとは思えない静けさだ。体力を消耗しないために大方の人は眼をつぶってはいるが、緊張のためか眠っている人は少ないようだ。バスの単調な振動と湯たんぽのように温かな足元の温風に眠気を誘われて一人寝入ってしまったのか、米作と四列シートに隣り合わせた外国人の若者は頭部が通路側に傾いてしまっている。米作は後ろの人を意識してリクライニングを心持ち倒して登山靴を穿いた足をぐっと伸ばすと、汚れても良いように災害各地で使い回して着ているシミだらけのレインウエアの腿に載せた、朝日新聞の朝刊を開いて読書灯を灯し、いつも眼を通すことにしている鷲田清一の折々のことば1638を見る。
〝面をつけることは、視野のうちから自分自身の姿を消すことである。…『能』から。…「視野のうちから自分自身の姿を消す」それは、どれほど「恐ろしい」ことであるのか。…死を恐ろしく感じる人がいるのは、今見ている「世界」に自分がいない、ことを想像するからだと思う。私がいなくても「世界」は成立するとなると、私の存在はどういう意味を持つのか…何の意味も持たないのではないか……自分自身の存在が何に依っているのかを自分の内に持っているしかないような。…〟
米作は、読みかけの新聞をガサゴソと脇腹に収め、携帯ラジオのイヤホンを耳に挿してスイッチを入れると、前席の小物入れの網から表紙のよれたノートと鉛筆を取り出して、鼓膜を研ぎ澄ます。
『……、各地の明日の日の出の時刻をお伝えいたしました。プップップップ――。日付が変わって、十一月十四日午前0時のNHKニュースです。
二週間前、東海道沖で発生した、マグニチュード七・三、最大震度六強を記録した地震は、同日近畿地方を縦断した台風二十号の大雨による影響などの複合要因により、液状化によって道路網が断絶した和歌山県を初め、家屋の倒壊、土砂崩れ、河川の決壊、火災等、三重県、奈良県などの各地に未曾有の被害をもたらし、死者二百十五人、行方不明者は七十七人に上り、二週間経った現在も、和歌山県や三重県を中心に停電は約五六〇〇〇戸、断水は約一八〇〇〇戸に及び、被災各地の復旧へ向けての道のりは未だ険しく、今も約一一〇〇〇人が避難所に身を寄せており、長期化する避難生活による体調の悪化なども懸念され、ボランティアの確保なども課題であり、愛知県では、今日自治体が運行するバスで、集まったボランティアを三重県へと派遣し……』。
上下の歯が小刻みにぶつかるバスの振れの中、米作はノートの真新しいページを開くと歪んでしまうのも構わずに筆を執る。この被災地日記をつけ始めてかれこれ二十年余りこれで十五冊目になる。新たに元号が改まってのこの七ヶ月間にも様々な災害が日本列島を襲った。ものを書くというのは不思議なものだ。災禍の最中にあって自分のその心を想いのままに綴っていると、まず頭の温度が下がる。もやもやした気持ちや胸の痞えが取れて心が少しだけ軽くなれるのだ。凄惨な被災地に身を置いても、心の動揺を抑え、その非日常に溺れることなく、己を冷静に見つめ、ここ(被災地)とこちら(日常)の、ともするとスクランブルしてしまいそうになる心の迷いや葛藤を断ち切ってくれるのだ。今回ボランティアとして派遣されるのはどの地になるのだろうか。同じ災害を被っても報道機関に取り上げられる光の当たる地域と、世間が目を向けることのない暗い地域がある。できればあのふるさと納税を巡って返礼品競争で脚光を浴びる表舞台の袖でとてもお礼の品など見繕う余裕もないような、自分たちが生きてゆくので精一杯であるというそんな僻地での活動が許されれば本望なのだが……。
・現地での情報収集/本日ぼくが赴くことになった被災地は、日本の国土の約七〇パーセントを占める中山間地域の中でも飛び切りに小さな夢川村という一集落である。地元の災害ボランティアセンターからの依頼先は、石丸健二郎さんと仰る夫婦二人暮らしのお宅。中傾斜地にある、築一世紀以上という素焼きの日本瓦を葺いた越屋根の二階屋だ。酒造会社のウイスキーのブレンダーをしていた石丸さんは、三年前定年を機にこの自治体が借り上げた空き家だった家に居を移したそうだ。裏山に面した石丸家の玄関先は崩れてきた土砂や石塊や樹木の断片などで塞がれてしまっていてとても足を踏み入れることなど出来ないのだが、日頃の出入りは奥座敷の板間の廊下の上がり口からされているので、被災を免れた二階での在宅における避難生活にも取りあえず支障はない。そのお隣の家は、怒涛のごとく崩壊した土砂の波に吞まれて跡形もなく住民の安否は未だ不明。左手の果樹園は、キウイの木の枝が絡みついた骨組みのパイプが落石に潰されて歪み、泥にまみれたキウイやその砕けた実がそこら中に大量に散らばっている。遥か真向かいに見える、手裏剣山の山足の棚田は、土石流だろうか、急峻な坂道のように土壌が剝がれて巨大な岩や、大太鼓の胴のように寸断された巨樹や、稲わらの塊がゴロゴロしている。
援助の第一弾はまず家の中身をすべてカラにすることだ。木の根や石混じりの土砂で埋め尽くされた階下は、一般的な家財道具はもとより、続き間の座敷には、妻の華子さんの亡父はかつては時計の修理などを手掛ける職人さんであったとか、自身も機械式時計のコレクターだったらしくそれら収集していたゼンマイ式の置き時計や掛け時計などの遺品が幾つも置かれている。華子さんは父親亡き後もそれらを一つも処分することはなく自分の手元に残しておいたらしい。恐らく何度も分解して掃除したり、油を差したりしただろうその故人の想いが色濃く滲んだ縁の品も、今では跳ねた泥がへばり付いた身を晒して、あたかも救助を待つ水難者のごとくこの汚泥の充満した一室に互いに身を寄せ合うようにして浸かっているのだ。
ボランティアとして派遣された人員は、ぼくと同年の五十一歳の笛吹という男の二人組である。この男、洗ってかさの減った猫みたいというか、骨皮筋右衛門というかとにかく線の細い瘦せぎすの妙に影の薄い男で、密かに〝ニョロ〟(ムーミンのニョロニョロから)と呼んでいる。そのニョロとコンビを組み、ぼくはスコップで搔き出した土砂をバケツに入れて彼に渡し、ニョロはそれを庭先の一輪車に空けて運び出す。尖ったスコップの刃が土塊にめり込むと半乾きの土埃がぶわりと舞い上がる。どぶさらいのあのヘドロのような臭いが鼻をつく。だんだん汗で蒸れた脇や股間がかゆくなってくる。気持ちだけはこんなにも焦っているのになかなか捗らない。首から下げた腕時計の針だけが虚しく空回りしてゆく。まるで終わりのない徒競走みたいだ。我先にと時間だけが走って行ってしまい、それを手と足がもたもたと追い掛けるのだ。息でくもるゴーグルを視野を確保するために外すと、塵芥が煙って眼に染みる。涙と鼻水で潤んだ視界には、一輪車に身体を持っていかれそうになりながら土砂をよろよろと運んいるニョロの姿が見える。樹木がまばらに茂る庭には、口の裂けたイガ栗が一面に散らばり、そこから零れ落ちたすでに鬼皮が柔らかくなってしまった栗の実も落ちていて、その地べたにちょこんと座り込んだ華子さんは、大きな缶詰のゆであずきをグーで握ったスプーンを突っ込んでは黙々と食べている。
「…いやあ、手伝いもしないで申し訳ない。どうもありがとうございます。あの、あんまり根を詰めると身体に障るからどうぞ休んで下さい」。
奥座敷の軒先から長靴を履いた石丸さんが出て来て、如何にもすまなさそうに額を何度も下げつつ言う。石丸さんのズボンの裾や膝には何かこびり付いていて、強烈な排泄物の臭いが鼻を衝く。
「なんにもないけど、そうだ役場の人が持って来てくれた餡パンがあるから、それと水で、ねっ、ちょっと休憩して下さいよ」。
米作は笛吹と顔を見合わせて、
「いや、それはぼくたちが頂く訳にはいきませんよ」。
「いいんだ、目端につくと、あれが余分に食べちゃうから」。
石丸さんは、二人の背後の華子さんを顎で指し示す。
「エーヴィー、シャラララー、エヴィ、ウォウウォー、はっはっはっ、カンカンカンカン……」。
ぎょっとして庭先を振り返ると、華子さんがあずきの缶をスプーンで叩いては、歌なのか奇声なのか笑い声なのか判別の付かない大きな声を上げている。
その刹那、大便の異臭が鼻先を掠め、すたすたと歩いて行った石丸さんは座り込んだ華子さんの頭をパチンと平手で叩く。
「何やってるんだ。えっ、おい、分かってるのか!」
石丸さんは華子さんの胸倉を摑んで言い放つ。ぐいぐい、ぐいぐい、華子さんは身体を揺さぶられても声一つ上げずに、どこでもない空を呆然と見つめている。米作は咄嗟に石丸さんの身体を華子さんから剝がすように強く引く。最早夫婦喧嘩と脅威の境はとっくに超えている。
「ついね、つい、いやいつも、いつもこうなんだ。理性では分かっているんだ。なのに、この手が、いやこの手を動かしているのは自分なんだが、自分だけど、自分じゃないんだ。いや自分だからなのか、ついかあーっとしてしまうと超えちゃならないその一線を越えてしまって……」。
眉間に深い皺を寄せて憔悴しきったような顔で石丸さんは言う。
土砂や瓦礫に埋もれた裏庭で逆さにしたバケツに米作は腰を下ろして、笛吹はなぜか内股で外れて斜めに立て掛けた網戸にもたれかかって、二人ともとても頂いた餡パンなど喉を通るはずもなく、その石丸さんの絞り出すかのようなか細い声に耳を傾けている。
健二郎さんは現在六十八歳。三年前に華子さんが認知症を発症してしまい自宅で介護をしている。一時は施設にも預けたそうだが、手首を拘束されてベッドに寝かされているその妻の姿があまりにも不憫で〝ほっとけなかった〟らしい。華子さんは今年で八十四歳になる。石丸さんが海外勤務でカルフォルニアのワイナリーで働いていた当時、アメリカ西海岸巡りツアーで通訳兼ガイドとして働いていた、ロサンゼルスの旅行会社に勤務していた華子さんと知り合い、ナパバレーのブドウ園で即刻プロポーズしてしまったそうだ。その時の太陽が燦々と降り注ぐ仮設テントでテイスティングしたシャルドネの爽やかな味わいと、そこで摘んだコーンミールの舌触りと、黒胡椒が絶妙にマッチしたオニオンリングの旨さを、結婚記念日に毎年石丸さんがプレゼントしてくれるミモザの花束を食卓に活けながら華子さんは大層懐かしんだそうだが、その将来を誓い合った二人が口にしたグラスの中で揺れる緑豊かな葡萄畑が映り込んだ辛口の白ワインの忘れ難い味は、永遠にミモザの花言葉どおりの秘密の恋の味となってしまった。今現在華子さんとの意思疎通は皆無である。
年齢差を超えて石丸さんは彼女の何に惹かれたのか。華子さんは、例えば夜食にお茶漬けを啜る程度のほんの何気ない日常でも、四コマ漫画に変えてしまうくらいとにかく面白い人なのだそうだ。お二人には子どもはいないけれどそれを空虚に思うどころか、子どもに妻を取られないで自分が独占できて却って良かったと石丸さんは言い切る。多い時には日に数度も弄便してしまい睡眠障害で夜行性の華子さんにも元より罪は無く、下の世話に明け暮れて夜も満足に眠れない石丸さんが堪らずに手を上げてしまうのにも真からの罪は無く、責められるべきは時だろうか。そこで止まってくれたなら、ほんの少し巻き戻すことが出来たなら一体何人の人が救われるだろう。時は非情だ。刻々と時を刻みながら、その時は明にもなれば暗にもなる。座敷のあの泥の海に埋もれている無数の時計のように、いつその時が深い暗がりに引きずり込まれてしまうか誰も分からない。
石丸さんは、お隣のキウイ農家の老夫妻と共に落ちたキウイの実を拾っているボランティアの外国人の青年の一挙一動をなぜか興味深げにじっと見つめている華子さんに眼をやりながら、
「ボジョレー・ヌーヴォーってさ、天候が優れない裏年の方が、味が濃くて旨かったりするんだ。逆境が却ってプラスに働くんだろうね。天の災いも、真逆に取れば摘房の肩代わりをしてくれたみたいなもので、ぶどうの木に少ししか房が実らなければ、その分栄養だって独り占めができる。逞しく生き残ったぶどうは、自ずと甘味も酸味も苦味も濃縮される。華子もね、確かに記憶はもうほとんど間引きされちゃってあまり残ってはいない。今していることがなぜなのか、どうして自分がそんなことをするのかも分からないんだと思う。でもね、人生における最高の時、ウイスキーの原酒に例えるなら、マチュレーションピークっていうのかな、そういう時代もあったんだ、華子とこの私にもね。あれには、最早過去とか現在とか時間は存在していない。…だけど、心は残ってるんだ。ごはんをほんと子どもみたいに嬉しそうに食べてにっこりしたり、反対にあからさまにまずそうにべっと口から出したり、笑ったと思うと大きな声で泣いたり、歌を歌ったり腹を立てたり、心はあれで毎日運動してるんだ。おいっちに、おいっちにってね。その、その華子に残されている、情っていうのかな、それは病んでいるからこそ純粋でより濃くて味わい深くなる。……そう信じたいんだ。いや信じてるよ、私は。辛いことは山ほどある。イライラすることだって、正直投げ出したくなることなんて茶飯事だ。…でもね、それでもさ、それでも、私は心の底では華子のその心をリスペクトしてるんだ」。
米作は、聴いている端から潤んでくる目頭を指でぐっと摘み、鼻腔から垂れた鼻水やこみ上げた涙にむせ込んで、喉をひくひくさせている。
笛吹も咀嚼した餡パンを口中に溜めたまま飲み込むこともできずに下を向いて土だらけの運動靴をじっと見つめている。家族が長年に渡って起居を共にする家庭というその入れ子の器の中にはいろいろな事情や事柄が内在しているものだが、実際に中に入ってみなければ第三者にはそこに何が入っているのか本当のところは分かりはしない。
昼時に休憩で持参したコモのパンやカシューナッツや干し葡萄を齧って束の間の休息を取った後(ニョロは何も口にしなかった)、午後からはお隣の果樹園の方から借りた軽トラで、不用になった調度類や電気製品、もう二度と時を刻むことのない数多の時計類を二キロほど行った先にある、仮の集積所になっている土手まで捨てに行くことになった。
「…なんか羨ましいな、華子さんのことが。自分のことは分からなくても、ちゃんと居場所がある。俺は自分の置かれた現状は分かり過ぎるくらい分かっちゃいるけど、居る場所なんて、居ても良いって心底思える安住の地はどこにもない」。
道行きの車窓に映る民家の屋根に掛けられた応急処置のブルーシートが、土嚢が外れて風を孕んでぶわりと膨らむのを呆然と見ながら笛吹は呟くように言う。
「…居場所か。そうだな、二十四時間、自分が地球の重力に引っ張られてたまたま居る所が自分の居る場所だけど、そこに望まれてるか、そこで何の心配も不安もなくでーんと構えていられるかっていうと、ぼくも自信がないよ」。
米作は、なにがしかエンジンに問題があるのか、やはり荷台に積んだ物が多すぎるのか、そもそも軽トラックとはこんなものなのかコトコトガタガタカタカタと異音がする車を運転しながら溜息を吐く。
「だって、酒蔵を経営されている立派なオーナーでしょ。だったら……」。
「オーナーたって、零細の零細の家内工業で、よっぽど勤め人の方がマシな暮らしが出来るよ」。
米作はハンドルを抱きかかえるようにして顎を載せ鼻孔を膨らます。
国道は土砂崩れによって通行止めとなっているが、一部土砂が流入してはいるもののバイパス側道は通行は可能だ。しかし車線規制による片側交互通行で停車しては十キロほどの速度で僅かに進める程度でなんだかトイレに行きたいような気もしてくる。ニョロは米作のことを立派ななどと持ち上げたが、停滞しているのはなにも道路ばかりでなく米作の人生だってノロノロ運転みたいなものだ。明治、大正、昭和、平成、令和と一本木米作を受け継いでこれで六代目になるが、今ではその歴史を重ねた酒蔵も風前の灯火。果たしてこの令和の御世を生き残れるかどうかも分からない。一升瓶換算で年に九千本作れるかどうかの小商いだ。隠居した親譲りの安価な本醸造酒を一〇〇石弱に、僅かな純米酒を醸すだけの酒蔵家業でも四苦八苦している。この求人難のご時世、酒造りをする十月初旬から四月末までの間になんとか期間雇用で働いてもらっている従業員の顔色をいつも窺って、その彼らの機嫌を損ねないように唐辛子を舐めたみたいに常時ピリピリしているのだ。だから労使の関係は常に労働者が上。使われるより使う方がよほど神経を使う。家の中だって、果たして座布団一枚分でも自分の居る場所があるのかどうか。
「そうかなあ。なんかね、そう、隣の芝生は青いっていうけど、自分以外の人はみんな報われているってそんな風に思えるんですよ」。
「他人はとかく自分より良さそうに見えるからね。でも、報われてるとか、幸せそうとか、それ人から見た場合の意味合いで、当の本人がそれを意識した段階でどこかに無理があって不幸な訳で、我が家の芝生なんて内情は股引みたいなババ色だよ」。
「……ばばあは、こりごりだな」。
先がつかえて一向に進まない車列に辟易しながらもどうにかこうにか災害ゴミの仮の置き場になっている土手にやっと到着し、車の荷台に載せてきた物をニョロと二人で下ろそうとしていると、
「失礼ですが、身分を証明できるものをお持ちですか。免許証か保険証か何か?」
どことなく香川照之に似ている、いやその半分くらいの年頃の男が近寄って来て言う。
「えっと、免許証とコピーなら保険証も持ってますけど」。
「不法投棄が増えているので、一様確認を取ることになってまして」。
「ああ、ぼくたちはボランティアで石丸さんというお宅のごみを捨てに来たんですよ」。
「あっ、それはそれは。どうも、どうもありがとうございます。不躾なことを言ってしまって、せっかく来てくださっているのに」。
「いやあ、…で、そんなに、その不法投棄って?」
「まあ…。ここの他にも、地元の人が設けた『勝手仮置き場』っていう一時的な災害ゴミの集積場にも、住民以外の人が夜中に車で捨てに来たりするんですよ」。
男は眉間に皺を寄せて絶壁と化したゴミの塊を見上げて言う。
自然の災害とは無情なものだ。人間がこの手で大切に育んできたすべての物やあらゆる営みを、ある一刻を境にしてまるで塵や芥と同系列のかえって人々の手を煩わせるだけの不要なゴミにしてしまうのだから。捨て場のないこれらのゴミが大量に排出されるのも、それ自体災害みたいなものだが。
社協の地域福祉課主事だという一木くんに二人の身分を確認してもらい、捨てるごみを抱えて災害ゴミが山と積まれた現場に近づいてゆくと、確かに古くはあるけれどコンセントを入れればすぐにでも使えそうな家電製品や、臼、麻雀卓、サーフボード、大型金庫、ガス台、湯沸器、石油タンク、卓球台、パチンコ台、パーティション、火鉢、腹筋台、ぶら下がり健康器、ブランコ、風呂釜、ペットの小屋etc……、どれも泥汚れなどは見当たらず、常識的にはちゃんとお金を出して粗大ごみのシールを買い、指定のごみ集積場にそれを貼って出すべき物が雑多に放り出されている。明らかに便乗投棄、誰かのピンチは自身のチャンスとばかりに災害ですら利用する輩。避難して無人になった被災家屋への盗難も後を絶たない。無性に腹が立ってくる。ムカムカする。他人の苦境をパラパラとふり掛けて、よくもメシウマなんてそんなものが食えるものだ。毛ほども、人としての痛みを感じられないなんて。米作は頭に血が昇って見ている物がぷるぷる震える。蓄積された疲労やストレスも相まって行き場のない怒りが爆発する。
…突然、地面が渦を巻くようにぐらりと大きく揺れる。轟音を放ってごみの団塊がガタガタと激しく鳴動する。…瞬間、ぐいと何者かに摑まれたかのごとくに米作は全身が斜めに引っ張られて強い衝撃を感じる。眼界は垂直に傾き、真上には黒くて大きな塊が、…巨大な影が迫ってくる。暗部は見る間に肥大し、なにもかもが暗黒に押し潰されてしまう――暗い、眼は開いているはずなのに何も見えない。耳の奥で微かに時報が聞こえる。秒を刻む無機質な音だけが淡々と……。時がこの自分を置き去りにする。何食わぬ顔で、何もなかったかのように、時が一刻一刻とぼくから離れて行ってしまう。…待ってくれ、まだ、まだぼくはここにいるんだ。だが、ひょっとして、もう……。冷たい、目元はこんなにあったかいのに、頰を伝う涙が、つめたい…。
「…、……、いっ、一本木さん。一本木さん。だ、だいじょうぶですか!」
息が、誰かの息が額に触れる。肩を、細くて硬い、だけど温かな指先が何度も何度も叩く……。
「…大丈夫。……だいじょうぶだ。ぼくは……」。
二 追剝が原へ蛍狩
教科書と参考書とパソコンで二十三万円、資格取得費約四十万円、運転免許取得費約二十万円、アパートの敷金・礼金と家具や電化製品で約五十万円、入学式用のスーツと靴で四万八千円、月々の生活費(バイトで何とかしろ!)の補助、これから四年間に掛かる帰省時の交通費、就職活動の足代と宿泊費と服装費etc. etc. etc. ……、もはや書き切れない。脳内のブラックボードには、筆舌に尽くし難い出費の羅列。この他にも、初年度納入金(入学金を含む)は別に納め、家賃や光熱費はこのアタシの口座から現に引き落とされているのだ。それに、なんとふとどきなというか向学心が強いというか、親の苦労を知ってか知らずか、息子の義偉は大学院にもいくつもりでいるらしい(おい、お金はどうするんだよ!)。
くり子は、あのシルバーの聖地である巣鴨のとげぬき地蔵尊さながら高齢者だらけの開店間もないスーパーの、生鮮コーナーの片隅にある陳列棚に整然と並べられた漬物群の手前のその通り沿いの店先に小かぶのぬか漬けの桶をドスンと置いて溜息をつく。
子育てなんて、テキ屋の金魚すくいをするようなものだ。親のこうあってほしいという願望を貼ったポイを片手に、好き勝手にヒラヒラと泳いで行ってしまう子どもをすくっては破られ、すくっては破られ、結局一生親の意中のお椀になど子どもは入りはしない。お金がなくなるだけだ。
由緒だけは漬物石のように重いあの酒蔵も、夫の代までとは家族の暗黙の了解事項で、せめて学歴くらいはってそりゃあ親としての人情だけど、スーパーのテナントの漬物屋で、一日中立ち詰めで働いたって、パートの時給じゃボーナスがある訳じゃなし給料なんてたかが知れてる。
六代も続いた蔵元たって、うちのような規模の小さな酒蔵では、精魂込めて日本酒を造っても、コストばっかり高くついて、売上げから原価を差っ引けば利益なんて蚊の涙、その雫すら息子のバカ高い授業料と夫のドウラクに吸い取られて(あんた、自腹をドーンと切っちゃあ、人助けにうつつを抜かして、その腹の中身が空になったら切腹でもするつもりなの!)、その滓を啜るように、親はヤドカリみたいに身をこごめて、毎日毎日もやしご飯ばかり食べて、夜中にお腹が空いてこっそり夫のボランティアグッズからくすねたカップヌードルを啜っているとなんだかやりきれなくて泣けてくる。なんで、自分から求めて、危険なところへ赴いて、タダで他人に奉仕するのか、あたしには全く分からない。そんな余力があるのなら、わらじを二足でも三足でも四足でも履いて、このカツカツの生活をなんとかしてよ。何なら、この古女房の肩の一つも揉んだらどうなのよ。隠居してから昔使われてた穀物蔵を改造した離れで暮らしてる義父母は老人向けの配食サービスのまごころ弁当を利用しているから、食事の世話はいらないし、今のところ健康にも問題はなさそうだから働くこともできるけれどいつ介護が始まるかは分からない。パートの収入が絶たれれば息子への仕送りもどうなってしまうのか。
「これ、買いてぁーで」。
朝一番に必ずと言っていいほどやって来る常連のおばあさんがトングで取り分けて袋に入れた守口漬をよろよろと手渡す。
「毎度、ありがとうございます」。
くり子は、渡された漬物を秤に掛けて、グラム数と金額が印字されたシールを貼ろうとしていると、
「あのね、試食がしてぁーけど、どれかお勧めはあるきゃあ?」
おばあさんの顔をくり子はちらりと見る。よくも懲りずに毎日その同じフレーズを吐けるものだ。ここでの食事がきっとこの人のお昼ご飯なんだろうけれど。
「どれも美味しいですけど、たくあんとか、茄子もキュウリも良い塩梅に糠に浸かってますし、そうそう白菜も……」。
お店の中でも、比較的高価格帯の商品ではなく、定番のお安い方を暗に勧める。
「ほんじゃあ、それをね、ちいともらおうかな」。
「ええ、少しだけなら、ちょっとお待ちいだたけますか。今お切りしますから」。
新手のカステラハラ?(カスハラ)とまでは言わないけれど、このおばあさん、店内ではお高めの一口大にカットした守口漬をアリバイの様に極少量購入して、その何十倍もの店の商品を要求し堂々と食べて帰るのだ。だが、こちらも負けてはいられない。端切れや浸かりすぎて半額引きでなければ店頭に出せない俗に言う訳アリな漬物を粗めにザクザクと切って楊枝を添えて差し出す。
「ねーえ、おじいさんがね、この店の漬物じゃなきゃあ飯を食わんなんてさ。あの人も意固地だで」。
割りと歯が丈夫と見える。バリバリボリボリよくも漬物だらけのその口でものが喋れるものだ。
「意固地って自分の考えをどこまでも押し通してしまうってことでしょう。周りの者は大変なんですよね」。
「ほうだ、頭の中でいってぁーなに考えとるんけーな」。
「ほんとに、なにを考えているんでしょうねえ」。
「ゴホン、ゴホン、ちょっ、ちょいと喉につかえちゃったみてぁーで。お茶ちょう。あたしゃ歳だで、誤嚥性肺炎にでもなってまったらぽっくりいってまう。ご飯ありゃせんかね。何ぞ詰まったらご飯粒飲み込んで治すて知らにゃあか?」
「さあ、アタシ非常識なのなしら、そんな事ぜんぜん知りませんけど」。
「最近はそういう人がようけおるで。常識っちゅうんは日本人の文化だでなも。文化と言やあ、お茶だわね。日本人はまっとお茶飲まなかんわ。ご飯にちゃちゃっと掛けてお茶漬け食べたら、ほら喉に詰まったもんなんかいっつかとれてまうがね」。
このおばあさん、漬物を試食したいと言いつつ、お茶とご飯も所望するのは常套句なのだが、本当にこんな所で死なれても困るので、ここはやんわりと自分の水筒からお茶だけをあげてなんとか帰ってもらった。お客様は神様ですなんて、今や死語だと思うけど、客商売はストレスが溜まる。おばあさんを上手くあしらうのに六分も掛かった。でもアンガーマネジメントでいう怒りのピークの六秒の十倍は掛かったけれどこれでどうにか腹立ちも静まった。あと深呼吸でもすれば完璧だ。
交代要員のすみれさんと入れ違いに、遅めのお昼休憩を取りに(弁当箱に詰めてきたもやしご飯にのりたまを掛けて食べるだけ)店内を下がろうとして、くり子は冷めた目でサッカー代の上に鎮座する小銭が数個しか入っていないあの透明の四角い募金箱を見る。今度は一体なんという災害名が付いているのか。定番の東日本大震災から、酷い時には一月ごとに切り替わったりして、日本は災害大国なのだとしみじみと感じる。一〇%に増税になってから、キャッシュレス決裁にした方がポイントが付いたり割引されたりしてお得になるから、未だに重たい小銭を律儀に持ち歩く層がどれほどいるのか。今日日は神社のお賽銭だって電子決済にする所もあるらしい。だけどアタシはデジタルアレルギーだから、きちんとお金を財布から出していつも日々の買い物をしているけれども(クレジットカードだって持っていないし、ペイペイって、あれひょっとして昔のあのマハラジャのお立ち台に立ってビージーズに乗って踊るみたいなことの現代版?なのかしら)。だから義偉にはいつもバカにされる。母さんは、テレビと洗濯機とエアコンと炊飯器のスイッチ以外はてんでダメだもんなって(掃除機だってちゃんと一ヶ月に一回か二回くらいはこれでも掛けてるんだからね)。ちょっとくらい情報学部に行ってるからってそれが何なのよ。アタシが仕送りを絶ったら、あんたなんか宙ぶらりんになっちゃうのよ。目糞鼻糞を笑うってね、アタシを笑うってことは自分を自分で笑ってるってことなんだから。亭主も亭主なら、息子も息子、アタシは一人になりたい。アタシにとっての最高の贅沢は、孤独かしら。身も心もダイエットしたい。しがらみをすべて削ぎ落として、アタシはアタシのために踊るのよ。もしもペイペイでポイントが貯まったら何をしようかしら。そうね、白いご飯を炊いてゆっくりと一人で食べてみたい。ゆっくりと、誰かのために何かをしなければならないその呪縛から解放されて、混ざり物のない、真っ白いピカピカのご飯をたった一人で嚙みしめて食べる。他は何も要らない。漬物ものりたまも亭主も義偉も、むしゃくしゃするソロバン勘定も政治も、コレステロールも、血圧が一三〇を越えたらどうだっていうの、これでも水道の水をゼラチンで固めてコラーゲンだけは摂ってるんだから。女性がコラーゲンに弱いからって、なんでもかんでもコラーゲンって取りあえず書いとけば売れるって、アタシは騙されないわよ。家にはお金なんかないんだから。なのに、亭主ときたら、無償の愛とかぬかしてほっつき歩いて、他人に尽くすのなら、その気持ちがあるなら、まずは自分のパンツでも自分で洗って、縦の物を横にもしないその生活態度をなんとかしてよ。ボランティアをするなら、まず自発的に自分に奉仕して、このアタシを自由にしてください。社会に貢献する暇があるなら、まず家庭に貢献してほしいわ。家族を蔑ろにして他人にだけは良い顔をして、そんなウチベンケイの戯事、それが真実の愛だっていうの、冗談じゃない、そんなのどこかの大統領の決まり文句のフェイクよ、正義じゃない、そんなのまっとうな生き方なんかじゃないわ。遠くの誰かの幸せより家族が何の心配もなく暮らしていけるのが真の幸せよ。小さなことからコツコツと、たとえば自分の食べたお皿を洗う、自分の食べる分くらいなんとかする、たまにはアタシのパンツだって洗ってくれる、そういう積み重ねが家庭を平和に導くのよ。それこそ本当の愛だわ。ああムシャクシャする、どうにも腹の虫がおさまらない。こういうむかっ腹にはアンガーマネジメント。六秒間我慢できたらこっちのもの。まずは鼻から息を吸って、思いっきり吐いて……、はい、一、二、三、四、五、六…。ほれ、一、二、三、四、五、六…。もひとつ一、二、三、四、五、六、七、八、九……、これじゃたった三十分しかない昼休みが終わってしまう。だいたいね、頭に来る時は、頭に来るのよ。ムカムカする時は食べるが一番。仕方がない、のりたまをおかずにしてもやしご飯でも食べるか、腹の虫もキュルキュル泣いてるし。
三 うるしの日(いつもミット。でも、ピッチャーになりたい)。
いや、思い当たる節はあるにはある、あれか。朝飯で配給されたパック入りの牛乳を、夕飯前の空腹時に飲んだのだ。泥水を被った家財道具の搬出で汗だくになり、温んだ牛乳が腹に染みた。身体がぶるぶる震える。…じゅげむ、じゅげむ、ゴボウのささがき、じゃりじゃりアサリの、水便、コロ便、バナナ便、食う寝るところも居場所もなく、破れかぶれの恥知らず、キンエンパイポのシェイクスピア、シェイクスピアとグリーン、グリーンのポンポコピーの経帷子、超救命のたすけてー、…も、もう限界だ。そ、そこまで来てる。
政府のプッシュ型支援とかで送られた仮設トイレが校庭の恐らく三十有余年は剪定をされていないだろう、葉という葉をモンクロシャチホコに食い荒らされて、地面に付きそうなほど枝先が伸びてしまった桜の大樹の下の赤錆の浮いた緑色のジャングルジムと、猫の花摘み場と化した砂場の端に設えられている。三基並んだ男性用トイレの内二つは使用中、残りの一基の扉を開けてみると、心和む黄色い裸電球に照らされて、生者の証しとでもいうべきそれは鎮座していた。……俺は息を吞んだ。そして、すべてを諒解して、鬱蒼とした裏山へとダッシュした――誰もが疲れ果てているのだ。日中は泥に埋もれた自宅をなんとか元通りに回復させようと、ドロの搔き出しや災害ごみ(この言葉は、事前であればどれも個々人の大切な財産なのだから、プロパティーロスと表したい)の搬出や防護しながら消毒用の消石灰をまいたりと、なぜ自分ばかりがこんな困苦を味わわねばならぬのかそのなぜをぶつける相手もないままに、この辛酸を汗や涙とともに舐めながら、それでもへとへとになるまで身体と心を酷使して、ほんの束の間だけでもと休息を取りに日が暮れると避難所まで戻ってくるのだ(硬いダンボールベッドに身を横たえて、他人の鼾や細々とした生活音やゴキブリの足音にも耐えながら。新聞の記事によれば、なんとイタリアでは災害時にキッチンカーでプロが作る料理を食べ、家族ごとに大型のテントがあてがわれ、まともなベッドで眠り、シャワーで汗を流すことも出来るという。これが流行りの手ぶらでキャンプではなく、被災者に当然のように与えられている避難所なのだから日本とは雲泥の差だ)。和式トイレに被せた便座の代用の座面がくり抜かれたプラスチック製の椅子の端にコロコロとした一粒チョコのようなそれが落ちていたとして、誰が責められよう。
ともかく上に昇るんだ。仮設の堤防が直に完成するが、いつ何時また決壊して濁流が攻めてくるやも知れぬ。妙なところでキジ撃ちをしたなら、母なる水資源を汚し、安心してゴクゴクと水道水を飲むことなど出来なくなってしまうかもしれない。自分一人くらいならというその安直な心根が、選挙を棄権するのと同じくこの国をひいては地球という美しい惑星を破壊してしまうのだ。いや、このままでは早晩その一物は宇宙に溢れ出すことだろう。考えてもみてほしい。恐竜が闊歩していたあの時代、毎日のお通じで、ゴジラ(???ゴジラサウルスなのでは)がいかに目を見張るほどの、二階建てバスのダブルデッカーはあるだろうそれをその辺にしていたことか。はたまた、縄目の土器を拵えて、かの縄文人が四季折々の旬の幸を煮炊きして腹を満たした後、夢想に耽りながら川のほとりの茂みでどれほどの立派なそれをひり出したことか。そこには必ずやジアルディア・ランブリアが…。太古から現代人までのその総量を考えれば、きちんと猫穴を掘ってブツを始末し、土中のバクテリアに委ねて酵素で分解してもらわなければ、いずれは許容量を超えてこの地球は茶色く変色し得も言われぬ臭いを放ちながら、漆黒の宇宙空間にそれを撒き散らし、あたかも電子レンジに生卵を放り込むがごとく砕け散った大量のそれは巡り巡って銀河の果ての未知の惑星へと落下して、あろうことかうっかり手洗いを忘れた宇宙人の手に付着した鞭毛虫の包嚢は、これ幸いと新たな宿主の体内に潜り込んでぐんぐん増殖し、ゲリピーの痛苦に悶絶した異星人は、自分たちをハメた憎っくき地球人を滅ぼそうと宇宙戦争がおっぱじまるかもしれないのだ。これは本当のことだ、信じてくれ、嘘じゃない。
そうなのだ、嘘は悪評ふんぷんたるあの政治と同じで大嫌いなのだ。だから俺は毎日新聞を切り抜きして32ポケットファイルに入れている。新聞は正義だからだ。しかし、読み返すことはない。切り抜くことに意義があるのであり、その用途は単なる時間つぶしさ。あと一つ真剣に取り組んでいるのは、読書(唯一のサンクチュアリである図書館にて)である。夢は、思う存分積ん読すること(一度金に飽かせて本が買ってみたいのだ)。俺の主な生業は、英国風に言うとハウスキーパーというか、昔風に言えば家事手伝いかな(雇い主はじぶんの母親、給金はお目付け役のオフクロがあの口金の硬いがま口をパチンと開けて、年金から必要最低限の一日分の生活費をくれる)。見ての通り、あのオフクロとの二人暮らし、しかも二人とも無職とあれば、その暮らし向きも理解してもらえると思う。
父親はじぶんが生まれてすぐ死んだから、どんな面かも知らない。オフクロが、小学校で住み込みの用務員をしていたから、給食室の隣にある、玉すだれが下がった入り口の奥のマッチ箱みたいな小さな部屋だったけれど食うには困らなかった(当時は、廃棄するような給食の残飯まがいの物を貰ってご飯替わりに食べていたから今よりうんと太っていた。だが現在は蟻に門前払いを食らって餓死寸前のキリギリスのように痩せている)。
これでも大学は一様法学部だったから、弁護士事務所に勤めたこともあったんだ。でも事務員の先輩格の古狸にいじめられて(布巾の干し方が四隅が揃ってないとか、ハンコを打つ音が耳障りだとか、口を開けば親の顔が見て見たいとかイヤミの百科事典みたいなババアだった)、大学出たての純な俺の精神ではとても持たなくて、耳鳴りが始まってメニエールになっちまって辞めた。その後はうどんのぶつ切りみたいに、社会って包丁で切り刻まれながら非正規稼業を渡り歩いて、ご存じの通り今現在は無職、すでに五十一歳となり、正社員に非ずの俺たちは人間じゃなくて物として扱われるから、スーパーでつい奥の新しそうなのに手を伸ばすのと同じで、古そうな中年男をわざわざ選んで買ってくれる奇特な企業はそうはない。
食べてくのって、食べさせてもらうってのはほんとに辛いことだよ。眼には見えないが、首輪で繫がれた犬みたいに精神的にも肉体的にもあの老婆に牛耳られて、じぶんの意見なんて気持ちなんて一ミリも言うことは許されない。いつもアイツの一挙手一投足にビクビクしながら暮らすしかない。
たとえばだよ、俺が炊事場で朝食の定番のサバの水煮と白菜を入れた味噌汁を作っていると、
「オクラがつかみ取り一袋入れ放題一〇〇円、ヌードのカップ麺九十八円、競合他店対抗価格の肉か、なんだったっけ、あれ、一〇〇ぐらむ六十八円、激安もんくがあるなら言ってちょう価格納豆三パック五十八円、……」。
オフクロの朝飯前の、頭のラジオ体操が始まる(新聞の折り込み広告に掲載されている商品の値段を一分間じっくりと凝視して、さっと裏返しその商品群の値段を自分がどれだけ覚えているかを諳んずるのだ)。
「激安ですね」。
「火曜特売だよ。四時から特売だと、ネギが一束六十八円だってさ。だいぶ離れたスーパーだけどね、イケイケドンキ」。
「自転車を飛ばせばすぐですよ」。
「今日は、風が強いし、雨もパラパラしてるよ」。
「どうぞ、もう、お構いなく。お蔭様で、この歳でモラトリアムを貪る若人のように中年太りにも縁がなく、この体型を維持できるのも、日々骨身を惜しまず身体を動かして、一銭でも安く上げて家計を助けようと粉骨砕身しているからこそなんですから」。
「ちょいと、あんた」。
老母がじろりと我が息子の顔を覗き込む。ひょっとして顔のどこかにヘソクリでも隠されているかのように。
「モラトリだか、モラハラだか、モグラだかあんたいっつも高尚なことばっかり言ってるけど、で、このアタシが死んだら、どうするつもりだい?何か、先に展望でもあるのかい」。
「て、テンボウですか。えっと、そ、そうそう、秋は空が高くなりますからね夏場と違って、て、テンボウ(・・・・)が利くようになりますよね。うろこ雲の浮かぶ空はとっても青くて、毛深い男の髭剃り跡みたいに」。
「で、一体どうするつもりだい。金なし将棋に受け手なしって、家は金なんかもう何にも残ってないんだよ。アタシが死んだらどうするんだよ、年金がなくなるんだよ。世間様じゃあんたくらいの歳になったら、親の介護してる人だっているんだ。なのに、あんたときたら。誰のお蔭でそうやってのうのうと生きてられると思ってるんだよ。ちったあ感謝したらどうだい。お見合いで土地勘も何もなかった笛吹家に嫁いで、早くに夫に先立たれて女手一つで子どもを育てるのがどれほど大変だったか、再婚話だって幾つもあったのにあんたのために一生を捧げて、なのに老後にこんな目に遭うなんて、こんなはずじゃあなかったよ。あんたなんか、アタシがぽっくり逝ったら、ネスカフェ難民になってホームパイになるしかないんだよ。一体全体どうするつもりなんだか」。
ご覧の通り、俺が居ても良い場所なんて、安心してご飯が食べられる場所なんて社会の中にもじぶん家にもどこにもないからね、地震台風家事オフクロで何か災害が起きると、俺も現実っていう酷すぎる災厄から逃れるために避難所へ身を寄せるんだ。仮の保護施設ってとこかな。食べる物と寝る所を恵んでもらって、一宿一飯の恩義で俺は被災地でボランティアをする。手前勝手の善意の押し売りかもしれないけれど、人から頼りにされるのって、心からありがとうって言ってもらえるなんて、こんな嬉しいことはない。肯定されるんだ、この俺が。生産性なんて微塵もない、実の母親にさえしょっちゅう死ねって言われてる、誰にとっても荷厄介でしかないこの俺が。分かってる、じぶんは死刑囚なのだ。俺は刑が執行される寸前の、一般社会から逸脱した、三途の川への永遠の旅行を目前に控えた老母がしぶしぶ支えているだけの絞首台にすでに乗っている。現実がボタンを押せば、つまりオフクロが逝ってしまえば(年金をピンはね出来なくなるから)、そのやわな踏み板はパックリと真っ二つに割れて、世間の冷徹な綱でぐいぐいと首を絞め付けられた俺は、じぶんのその重みに耐えきれずに遂に酸欠となって――在宅ホームレスに成り果てて、あの家の中で、或いは汚れた公園のトイレで孤独に死んでいくだけだ。
そうなのだ、問題は、差し迫った危機は、その公衆のトイレさえ使えないことなのだ。いわんや生理現象に待ったは通用しない。先程から肛門はすでに限界を訴えている。俺は、避難所の旧一徹小学校の校舎の裏手のコンクリートの外壁を跳び越えて、プロパティーロスが両サイドに山のように積み上がった、そば道を右に折れて裏の山へと入って行った。夜の闇に懐中電灯の明かりを巡らすと、藪にはびこる下草や毛細血管のような木々の細い枝々が行く手を阻み、眼を凝らすとその先に人の踏み跡らしきものも見える。この禍々しい夜陰には一体何が身を潜めているのか。蛇かイノシシか熊かサルか河童かちょっと変わった人か、ひょっとして季節外れの幽霊が経帷子に防寒対策でちゃんちゃんこでも羽織ってドロロンと……。べき乗のごとく恐怖がいや増すのは闇が深いからか、それとも肛門括約筋がすでにその最期の一線を越えつつあるからなのか。いや、客観的になるんだ。限界なんてあるようでないんだ。本当に怖いのは、俺がこうして今生きていることなのだから。じぶんの行く末に立ちはだかるあの恐怖に比べたら、これしきのこと。……が、しかし、来た、来た来た来た来た、きたーのーさかばどおりにはーーーー、…も、もう限界だ。
俺は、ジャージのズボン(高校時代に体育で履いていたヴィンテージ物)をがばりと下ろして、片足で土を蹴り上げ、尻を剝き出しにしてしゃがむと、でものはれものところきらわず肛門からは出るは出るは水様のそれはあたかも高圧噴射のノズルのごとく、足で掘った穴など優に越えてケツに付きそうなほど上がってくる。俺は事が終わって意識が朦朧とする中、落ち枝で辺りの土を搔き集めて大量のそれをこんもりと埋めた。排泄物を分解するのにもっとも効果的な酵素は、土壌の上部二〇センチ以内に住んでいるのだ。
断っておくが、俺は尻を拭くことだって忘れてはいない。そこらに茂った木の葉っぱを一枚ずつむしっては揉んでケツを拭った。葉は、できるだけ水分が抜けて枯れていそうなのを物色する。実は、山でウンコをする方法という本を読んでから、じぶんの家でも垣根のサザンカの葉をもぎ取って、トイレットペーパーの代わりとして自らの使用分を減らし、実際には使ったことにして浮いた小銭を溜めて小遣いにしているのだ。それだけではない。食費をごまかして懐に入れようとフェイク料理を作ったりもする。たとえば、どう見てもイワシであるのにサンマの塩焼きであると称して夕餉のおかずとしたり、道路脇の草の茂みから捕ってきた、イナゴをぐらぐら煮て、お茶漬けのお供に〝しぐれ〟と偽ってそっと置いたり、図書館で渉猟したキノコ図鑑で毒性か否かを判別して、山に生えていたキノコをふんだんに入れて永谷園の松茸の吸いもので豪ジャスなマツタケご飯を炊いてみたり、しかもそれらはいずれもリアル料理として寸毫も疑わずに入れ歯を酷使してオフクロは毎日食べているのだから、舌を巻く。
涙ぐましい金策で得た金で、ごくたまにだが吉野家のアタマの大盛の牛丼をそれが見えないくらい紅ショウガを載せて搔っ込んでいると、喉元に哀しみがこみ上げる。俺だって、この冷たい現実に、薬缶の湯を掛けるように、夢とか希望とかをぶっかけてもっと熱く燃えるような人生を送りたいのだ。野球で言うならピッチャーかな。一度でいい、俺の意志のこもった球を力の限り世界に放つのだ。世間の流れ球ばかりを拾わされる、体のいいミットなんて御免だ。いささか長広舌に過ぎたがこれで俺という人物を少しは分かってもらえただろうか。ところで、一つ相談なんだが、そこの君、そう君だよ、俺の野球チームに入ってくれないかな。弱小のチームだけど、君の居場所だけはあるつもりだ。たとえ君が老いさらばえようと、もちろん陳腐な二値的な性別もないし、もし君がどこかに障害を負ったために球を握れなくなったとしても、君がいてくれるだけでいいんだ。大事なのは君だ。君がいる、それだけでいいんだよ。だって誰にとっても障害ってのは、社会から見た一方的な解釈であって決して君自身ではないからだ。ボールが取れなきゃ野球が出来ないなんて、そんなの悪いのは社会の敷いたルールであって君じゃない。俺は君が活かされるチームを必ず作るよ。俺のミットは君のすべてを受け止める。それが正義だからだ。正義は新聞なのだ。あれは使い様でね、読んでると気が滅入るからほどほどにして、生ゴミをまとめたり、兜を作って遊んだり、そうそう緊急事態に、ビリビリに細かく裂いてブツの水気を吸わせれば立派なトイレにもなる。これは事実だ。嘘じゃない。俺は噓は大嫌いなのだ。それとそこの君、道端でキジ撃ちやお花摘みだけはしないように。地球が太陽の下で青く輝く、それが宇宙における俺たち地球人の矜持なのだから。ババ色の地球なんて、もしも地球が変色してしまったら、宇宙の厄介者として知的生命体に一掃され、汚物にまみれた俺たちは、宇宙人の流儀による分別処理をされて、無重力空間にポイッと捨てられ、最早宇宙の平和のために一心に祈り続けている女神テレサに助けを請うしか…、『古代くん』『雪っ』『メーテルー』『ごめんよ、まだ僕には帰れる所があるんだ』(???作者が違うのでは)さらばー地球よー、旅だーつ船はー。
そうなのだ、問題は、喫緊の課題は、あのオフクロが久遠の旅路についた後、俺は帰ったってもうがま口をパチンと開けても、牛丼一杯食う金もなく、ついに公園のトイレで非業の死を遂げ、正義の味方の月光仮面も老眼鏡を掛けて読んでいるだろうあの新聞の小さな記事に載り、誰かの爪切りの下敷きか、カラスよけの目隠しに生ゴミでも包まれてポイッと捨てられて……。そうなのだ、結局捨てられるんだよ。この不安が君に分かるかい、不安だよ、じぶんに問いたいんだ、俺ってこれでいいのかと…。
四 雨ニモマケズ
外、酷い雨。いきなり(両手の親ゆびと人差しゆびで作った輪っか、ぶつけてパッと開く)床、揺れる。天気予報、大きな台風、警戒。揺れる、揺れる、揺れる……、お尻、突き上がる。身体が斜め。両手の味噌汁、零れる。スウェット、汚れた(左手、猫の手にした右手でトントン)。ごはん、おかず、湯吞み、食卓を滑る、風に飛ばされるみたい。状況、眼でジャッジ。電気の傘、ぐらんぐらん揺れてる(両てのひら、前後にユサユサ)。食器棚の扉、開く、閉じる、開く……、皿、コップ、小鉢、……いろいろ落ちてくる。仏壇、金具外れる。中の物、投げ出される。位牌、リン、数珠、写真立て、母の顔、鬼(両手の人差しゆび、頭の上にニョッキリ)……。仏壇にぶち込んでおいたのに。ネグレクト、思い出、怒りだけ(心の奥の奥の奥……、殺意)。お店、お客来る、クリーニングを取りに。『奥に引っ込んでなさい。みっともないでしょ』。家に親戚集まる法事、いつも押し入れ、かくれんぼ。シンジとアキコのごはん、丼に揚げたての天ぷらのってる。私、冷や飯に味の素掛けて食べる。それ、ふつうの夕ごはん。聾、私だけ、腹ちがいの弟、妹、継父、母、耳、聞こえる。耳、聞こえない、醜いこと、恥ずかしいこと、母、そう思ってた。私、いつも世間からかくれんぼ。あの母にとって、私、汚い存在。いつも『あっちいってなさい』。あっちって、どっち?連れ子の私、どこ行ったらいい?誰がかばってくれる?
……電気、…でんきが、き、消えた!まっ、真っ暗‼まだ、揺れてる。……こわい、視界を絶たれたら、私は…。
……闇の中、四つん這いになって、どこかに転がってしまった懐中電灯を、手で探る。暗がりは、最高の恐怖。……なにも、なにも、分からない。当たった、右膝に、懐中電灯、それ、やっと(額の汗拭うみたいに、手を振り払う)点けた。
…な、なんなんだ、畳と畳の間から、水?ふっ、布団の敷布が、黒っぽくなって……。
私、魂の言葉、眼で見る言語、それ、手話(人差しゆび、ねり飴作るみたいにクルクル)。
私、地球に、居る。だから、空で、太陽、雲、そして暗い夜には、月や星、身体を濡らす雨でさえ、私を見守ってくれる。
でも、世間、冷たい(こぶしを握りしめて、身体ブルブル)。私、ろう者。だから、顔の表情、身振り、そして両手を使って、自分の気持ち表す。世の中、健聴者が標準。普通の人、手話、分からない。マスクを付けられると、相手の表情も読み取れない。意思疎通、できない(ゆびでほっぺたつねる)。私、世間から無視される。だから、いつも独りぼっち(一本だけ立てた人差しゆび、上から反対の手でクルンクルン)。
世の中、良い、少し、悪い、いっぱい、寸善尺魔。
停電した時も、困った、最高に。だって、テレビ見れない。携帯つながらない。ラジオ、音だけ。眼からの情報遮断されたら、聾、お手上げ。私たち、情報弱者。
避難所に行っても、同じ、災害からは逃れても、今・現在から逃れること、難しい。困ること、いっぱい、私、イッスンも安心、できない。
食べ物、水、毛布、衣服、みかん箱ベッド、それ、いつ、どこで、誰から貰う、それ、分からない。情報は、ちゃんと流れてる。私、それ、摑むこと、できない。聴く力がないから。聴く力ある、それ、当たり前、それが社会の仕組み。
私、トイレの場所、尋ねた。あなた、首を立てに振る(分かった、分かった)。OKのサイン、親ゆびと人差しゆび、少し離すと、それ、手話でトイレ表す。私『トイレはどこにありますか?』、それ、あなた『私は避難所の生活に満足している。大丈夫だ』と捉える。永遠に嚙み合わない。世間の大丈夫と私の大丈夫は全く違う。意志が伝わらない、分かり合えない、それ、一番辛い。私、気持ち、停電したみたいに、真っ暗。暗がりで、私、今後・前途・将来・未来、どうしよう、そればかり、考える。クリーニング屋、高価な機械、ローンで買った。それ、すべて水に浸かってしまった。以前から、クリーニング桂、うまくいっていない。お客、皆健聴、聾の私との食い違い、揉め事、いっぱい。お客、私、嫌う。経営、赤字、マイナス。
マイナス、同じ、聾学校でも、考え方、引き算だった。
私、中途失聴者、幼い頃、病気、聞こえなくなった。ほんの少しだけ、聞こえる。例えば、踏切の警報音くらい大きな音。でも、大声で話されても、何言ってるか分からない。ただ、うるさくて、頭痛くなるだけ。未だに、口パク、口話も苦手。だから、小学部でも、先生に、それ、出来なくて、よく叱られた。
昔、手話、蔑まれていた、虐げられていた。社会の考え、健聴者が上、聾は下。だから、その社会に教育も合わさせられた。授業は、まず口話。それが出来て、初めて勉学をすること、許される。だから、人の口の動きを見て、聞こえてもいない言葉を頭の中で考えて、どんな声かも分からない、自分の声帯、へたくそに震わせて、口パクで話さないと、先生、鬼みたいに叱った。こっそり友だち同士手話で話してるとこ見つかると、先生すごく怒った(ゾンビみたいにかぎ爪にした両手で、胸搔き上げる)。
五体満足、それ、ふつう、世の中の基準。○○障害者、ふつうマイナスしょうがいイコール、何か足りない存在。足りなければ、差が生まれる。見下される。
ふつう(・・・)って、何?それ、誰決めた?ふつうの物差し、それで社会に線を引くから、上と下、優れた者と劣った者に、まるで丸々と実ったフルーツ、包丁で真っ二つに割るみたいに、分かれてしまう。それ、平気でムシャムシャと食べて、生きることになる。
人間(空気に、人差しゆびで漢字の〝人〟書く)にだけ与えられてる、心の物差し、それ、一本の線を引くのではなく、一点を押さえて、コンパスみたいにグルグルと回せば、描かれる想いは常に〇、世界はサッカーボールみたいに、いつも弾けてはずんで、分かれない、差もなくなる。
いつか、そうなったら、世界のみんな、〝イツモシヅカニワラツテイル〟できる。
もし、そうなったら、世界の誰一人、〝ミンナニデクノボートヨバレ〟はしない。
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
サウイフモノニワタシハナリタイ、社会の冷酷な引き算ニモマケズに。
五 ガイコク人
歌をうたうの上手なお隣のヴォヴォーが、きっとお昼ご飯?なんだろうと思うんだけど、ボクにオニギリを一個分けてくれた。良い人だ。優しい人だ。ほんと旨かったね。故郷の米、口の中でピーヒャラピーヒャラ踊るくらいにパラッパラ。日本の米は、ど根性演歌。口中で粘っこくウンウンとこぶし回す。あのべっちょりした食感がほんとはニガテ(・・・)なんだけど、ボランティア一生懸命頑張ったからお腹キュルキュルだったし、なぜかおばあさんの分厚い掌からポロンとボクの手に渡してくれたオニギリは最高に旨かった。日頃はね、ドンキ買ったチキンラーメンを一日に一袋、お給料日だけは大奮発して二袋は食べることにしてるんだ。でも一食でもまだ食べる物があるだけ有り難いよ。ヴォヴォとヴォヴォーも小学校の校庭でもらえるタキダシを持って帰って食べてるみたいだから、いちおう食べることには事欠かない。でも、お腹が膨れたとしても、二人の心はまるで空気が抜けたみたいに萎んだまま。災害で何もかも失ってしまったから。それらを取り戻すには、あまりにも歳を取り過ぎているから。年寄りはもう借金できないって、ヴォヴォが言ってた。ボクは歳はまだ若いけど、元気かって聞かれたら、どうだろう。やっぱり、同じなのかな、ボクも……。ヒサイシャは、現実と戦っている。だけど、ボクも現実と戦っているんだ。
日本人、ボクたちのことを指してガイコク人と言う。ガイコク、外の人、部外者、よそ者、あの嚙み応えがネバっこくて敬遠してしまう、でも日本人一番好きな炊き立ての白いご飯といっしょ、お互いに食わず嫌いなのかもしれない。でも、いつか掛け算の九九みたいに、両者の文化への理解が〇×〇で+になると良いな。だけど、ボクの国では、くくはちじゅういちじゃなくて、きゅうかけるきゅうははちじゅういちって覚えるんだ。異文化ってやつを咀嚼するには、お互い鼻でもつまんで吞み込むしかないのかもしれないね。
ボクは、日本語話すのヘタではないんだけど、あのショウユ味のラーメンほどはウマくない。だから、ボクの気持ち表す言語、日本語にちょっぴり母国語(ポルトガル語)足して、それでも足らないところ、ボクの大好きな料理ハバーダに塩を一摘みパラパラとふるみたいに、心の言葉をプラスする。
ボクは、母国ブラジルで、人の心温まる店開きたくて、勉強するために日本へ来た。ナゴヤでビジネスの学校通ってる。でも、とっても悩んでる。
牛丼、タチ食いきしめん、ピザ、カレー、ラーメン、そば、ハンバーガー、レストラン、パン、肉、魚、ヤオヤ、これ大食いに挑戦したメニューじゃない。みーんなアルバイト。これまでに、どえりゃあ(ゲンバのおじいさんに教えてもらったナゴヤベン)稼いだ。今も、いくつか掛け持ち、ハイタツと工事やってる道路立ってケイビインもしてる。
ママィン病気。たぶんもう治らない。でも、良くなって欲しい。それファミーリアみんなの願い。Masダメダメ、願ってるだけ。カミ頼み助からない。お金いる。お医者さん、お金出すと、やっと病人みてくれる。だから、働く。ボクの食いぶちと学費(学校がゲンメンしてくれるけど、でーらー高い)、もう前みたいにパパイ助けてくれない。パパイの両手、ママィン助けるのでイッパイイッパイ。
Masボクの前には壁があるんだ。よじ登ろうとしても、ボルダリングみたいに手足を掛けるカラフルなホールドなんて一つも付いてない、人生の難壁ね。
ボク、トクテイギノウの試験パスした。これで胸張って日本で働ける。Masそれできない。働き過ぎね。ニュウカンナンミンホウシコウキソク、この舌嚙みそうな法律、一週間に二十八時間しかガイコク人働くこと許さない。日本、物価どえりゃあ高い。二十八時間じゃ、とても生きていけない。ママィンへの仕送りもあるし……。
日本の法律、ボクは犯してる。だから、試験にパスしても、ニュウカンチョウっていう、えりゃーさんが許してくれるかどうか分からないから、ビザ申請を出すに出せないでいる。いつもはね、今頃は一時間目の授業がない日は、インドカレーの店で、発酵させたナンの生地、サラダ油付けた手でパチンパチン叩いて薄く伸ばして、タンドールはり付けて焼いてるとこかな。熱いんだ、あの釜四〇〇度以上もあるから。ナンに穴開けちゃったり、真っ黒けに焦がしたり、手が滑ってお皿が割れてしまったり、注文を聞き間違えたり、そもそも店長の機関銃みたいな日本語もよく分からなくて、仕事ののみ込みもスローだからいつもこっぴどく叱られる。給料袋もぺちゃんこ。あの茶封筒がちっとも膨らまないのはなぜなのか、明細書って貰ったことがないからボクには分からない。『ガイコク人、ヨウリョウ悪い。グズ、バカ、アホ、シネ、……』日本語の弾丸何発も撃ち込まれて、ボクの心はいつも穴ぼこだらけ。頭も、スイカ割りみたいに、店長ぶっ叩く。ヘラヘラと薄笑いを浮かべてガムとか嚙みながら。
日本では、ボクたちガイコク人留学生は、ガストアルバイター、帰国前提のガイコク人労働者。用が済んだら、さっさと帰ってほしいのだ。日本人にとってアドバンテージがあるとすれば、ボクたちを安く使えるとこかな。
実は、そのバイトが今日から三日間休みになったんだ。厨房のハイキダクトってとこに油が固まっててボヤサワギになって、プロのお掃除屋さんが来て厨房中を洗浄することになってる。
ところで、あの台風の晩ってみんなどうしてた?逃げる準備とかしてた?逃げるんじゃなくて、脱出?でもなくて避難っていうのかな。ボクは雨漏りの酷い学生寮で、床に置いたコップや洗面器が耳障りにポタポタと鳴る中、ビールケース裏返した勉強机で、人が頑丈な心の金庫開けて物を買いたくなる、消費者心理とか付加価値の付け方とか経済学の勉強をしていた。突然海辺の潮がうねるみたいに床がぐらぐらと揺れて、猫草のようなほつれた藁が飛び出た畳にいろんな物が降ってきたけど、でもボクは頭の中で大丈夫と思ってた。驚いたよ、マーケティングのディスカッションの授業の後、学校のロビーのテレビを見て(これが日本での唯一の情報源。うちには電気を使う機械は一つもないんだ。ボクの省エネ作戦、マネーのだけど)。しばらくの間、ボクは身体が硬直してしまって、水道水入りのペットボトルを握ったまま動くこともできなかった(こんなとんでもないことが起こっていたなんて、あの時のボクの頭、人差し指でどう突いても何一つ出ては来なかったよ)。
今度の地震、津波が来なかったからほんと良かったけど、もしビッグウェーブに襲われていたとしたら……。ゲンパツまた壊れて、ホウシャノウが溢れたりしたら、日本の国土はどうなる?安心、安全なお米も作ること出来なくなるかもしれない。日本人、空のお茶碗に卵かけて食べるのか?日本のフクシマ、あんなに苦しんだ。今も苦しみ続けてる。なのに、日本ゲンパツやめない。それ、おかしいよ。どうして、おかしいって、みんな言わないのかな。言ったとしても、日本のえりゃーさんは『ソンタク、ソンタク……』って妙なお念仏しか聞こえない、イヤホンでも耳の穴に入れて腕組みしてうたた寝してて、その真の声が心に響かないのかもしれないね。
ボクの日本語の単語帳で、天啓かなって言葉があるんだ。〝ナサケハヒトノタメナラズ〟っていうコトワザ、知ってる?日本のアニメ、あのアンパンマンが顔を千切って仲間に分け与えるように、じぶんの心を削って人に差し出せば、いつか自らのハートを同じように分かち与えようとしてくれる人もきっと現れる。この日本人の先祖が残した教えにボクは心底感銘を覚えたんだ。日本のオトナたち、躍起になって子どもが英語ペラペラ喋れるようにしようとする。MOTTAINAIよ。日本語喋れる、それ素晴らしいこと。日本語のネイティブスピーカーであること、英語では表現出来ない日本独自の文化、もっと胸をうんと張って誇ってほしい。だって、ボクが災害ボランティアに志願したのは、浮いた三日間に他のバイトを入れずにバスに乗ってヒサイチに行こうと決めたのは、この日本に伝わる言葉を信じたからだもの。この国で困ってる人助けたら、ブラジルのママィンももしかして助かるんじゃないかって祈り。死ぬくらい苦しい時、悲しみから逃れられない時、つらくてつらくてどうしようもない時、ボクは神様と人を信じる。きっと、ボクのこの掌をぎゅっと握りしめてくれるって、たとえガイコク人であったとしても…。
ボクが苦難を強いられている疲弊したヒサイチに足を運んでさせてもらったボランティアは、キウイ作ってる農家の人を助けることだった。ヴォヴォとヴォヴォー二人だけでやってるファームだ。彼らには三人のクリアンサがいる。クリアンサのクリアンサもいっぱいいる。でも、誰も手出さない。作物を育てるの、オテントサマだけが頼り。いつも自然のご機嫌にビクビクしながら、自分のクリアンサ育てるみたいに息つく暇もなく、年がら年中稼穡に明け暮れるのはとてもたいへん。でもハツカネズミみたく、主人からお決まりの餌を与えられて、ゲージの網の中、回し車一心に駆けるように、じぶんの居所や時間を拘束されて、その成果に見合ったお給料しか貰えないのも同じようにとてもたいへんなこと。
ボクは、ヴォヴォとヴォヴォーといっしょに腰かがめて、何かが破裂したみたいにファーム中に飛び散っているキウイの実を一つ一つ拾って行った。せっかく実った作物なのに、自然の命の残骸を目の当たりにしてとても辛かったけれど、お隣のヴォヴォーがいつも歌をうたっていて、不思議とあの声を聞いていると高まった気持ちが落ち着いた。どこかで耳にした曲のような気もするけど、日本でなのか故郷のブラジルでなのか覚えがない。あっという間にって表現でいいのかな、四角いブルーのカゴがダメになってしまったキウイですぐに埋まってゆく。もう売ったとしてもお金にならないからみんな捨てるしかない。でもこのキウイがたとえ人間であっても同じこと。社会という不確かなある集団の中でお金に換算できるものを一つも持っていなければ、つまりセイサンセイというツールを持ち得ない弱者は、その社会の枠から爪弾きされてしまう。貨幣という価値に支えられてこの命があるとするなら、生きるってとても哀しいことだ。
ヴォヴォ、苦い薬無理して飲み込んだみたいな顔で言う。
「毎年な、うちのキウイをそりゃあ楽しみにしてくれとる人がおるんだ。手塩に掛けてよ、ここまで育てて、あと一歩って時やに……。小屋も潰れてまって、棚作りのパイプや肥料やもう道具っちゅう道具はみんなあかへん。やり直そうにも、年金だけじゃできんやん。……どうやって食っていったらええんかいな。おいたちだけじゃねえ。この辺の田んぼ、みーんなヒビ入って、穴開いとる。用水路も壊れとるし、あぜ道もなー。これから、どうしたらええやん。金、どっから持って来るんけ。住むに住めなくなっとる家もようけあるんやに。天の神さんてな、おいたちに首でも括れって言うんかいな」。
ボクたちの置かれているこの自然はほんと恵みの園、もいだばかりの苺みたいな匂いのするあのグアバみたいに、たわわに実ったあらゆる幸で人の心をくすぐる。Masあのアクタガワ『ラショウモン』でてくるヒハギといっしょ、人間から希望も生き甲斐も財産も、ありとあらゆるものを容赦なく剝ぎ取ってもいく。『お前たちがシカタがないとこの地球を蝕むのなら、わたしがサイガイをもたらそうとそれはシカタのないことなのだ』と言わんばかりに。身ぐるみ剝がされてしまった人間、冷たい現実の裸氷に閉じ込められてなす術もなく震えているだけ。自然の摂理の前には、人の持っている力などあまりにも無力だ。まるで〝あかだ〟や〝くつわ〟に総入れ歯で齧りつくようなもの、てんで歯が立たない。
Masゼロじゃない。だってこうして今現に生きているんだもの。鼓動をバクバク拍動させながら、ボクたちのこの身体は一刻一刻を真剣に生きようとしている。心はたとえ諦めたとしても、最期まで血も肉も細胞内のミトコンドリアに至るまで決して白旗を上げはしない。命ある限り、それは無じゃない。何かがある。その何かのために人は生きているんだ。だからその途方もないすべての人の生きる何かを寄せ集めて、自然とタッグ・オブ・ウォーを決め込む。押したり、引いたり、ボクたち人間には勝ち目など永遠に来ないかもしれないけど。だってボクたちは、この地球に依存しなければ生きられない、太陽系の一惑星のほんの間借り人に過ぎないのだから。
ボクの生きる道にもきっとあるだろう、ママィンにもパパイにも、そして自分にも胸を張れる何かは、今のところまだ良く分かってはいない。求めるだけでボクの一生は終わってゆくのかもしれない。でも二週間後のボランティアバス第二便に乗ってまたヒサイチには行くつもりだ。バイト今度は休みじゃないけど、ずる休みしたらお金貰えなくて、お腹もグーグーともんくを言うだろうけど、でも、また来る。眉と眉を跳ね橋みたいに寄せて困っている人の気持ち、獣道にひとりぼっちで取り残されたような心細さ、そのヒサイシャの辛さや非責者だらけの世間から捨てられたような孤独感が良く分かるんだ。ボクだから、日本に居るけれど、陸の孤島みたいに孤立してしまっている孤奴苦なガイコク人の一人だから…。
六 ポリ袋でお湯ポチャ、悪魔カレーうどん
……もう限界、もう入らない、これでもかっていうほど肺がパンクしちゃうくらい息を吸っても、まだ足りない。息が苦しいよ。誰か、助けて……。眼球の奥に、光った安全ピンがチラチラする。鋭い銀色の針の先が、アタシを何度も突き刺してくる。……やめて、…やめて、こないでおねがい、堪忍して、おねがい許して。…気持ちが悪い。胃液みたいな酸っぱい唾きが口の中に充満してえずきそうになる。でも、この眼が見ているものって、これってほんとに真実を映してるの。…信じられない。だって巨大で、どっしりとしていて、頑丈で、絶対に大丈夫だったものが残らず破壊されている。なぜ、カラスでも天辺に留まってうるさく鳴いている時以外ほとんど見上げることもない、こんな電柱が眼の前に倒れているの。家の屋根はまるで足で踏ん付けたみたいに崩れてしまっているし、車なんてボディーが上下逆さま、これって現実なの、信じられない。誰かはっきりと噓だと言って。……こわいよ、世の中の大丈夫が大丈夫でなくなったら、一体何を信じたらいいの。……お母さん、たすけて。怖くて不安と不安がぐちゃぐちゃに詰まった頭の中がドクドク鳴ってる。胸が締め付けられそうに苦しくて、まるで小さな自分が閉じ込められてるみたいに心臓がバクバクバクバク拍動してる……。
…あ、アタシ、何でここにいるの?アタシ(・・・)。どうやって?来た、のかしら。……デンシャ。そうよね。ごっ、ゴム手袋、はめてた?菌が‼キンが、キンが、キンが、キンが……、どう(・・)しよう(・・・)。〝手に〟〝ジカに〟キン(・・)!キンが、キンが、キンが、キンが……、きっ、切符は?…でも、改札が通れたってことは……。っそ、そう、そう、ヒサイチ(・・・・)。『アタシはヒサイチに来た』来た!来た!来た!来れたんだからアタシ。ちゃんと〝電車〟に乗れたんだ!
アタシはソトの世界にちゃんと立ってる。ポータブルテレビを見てるんじゃない。布団を被って腹這いにもなってない。だってほら頰に空気の流れを感じるもの。お母さんが、お風呂でアタシが黴菌と戦っているうちに、ごくたまに干してくれるお布団のあのお日さまの匂いがする。そうよ、電車が途中で不通になって、でもアタシ右と左の足をイチ、ニって一生懸命線路を歩いて、今だってちゃんとタイヤの跡だらけの泥の道を歩いてる、これは幻覚なんかじゃないわ。だけど、これってひょっとしてゴミの並木道?道路のサイドに、社会人見学で一度だけ行った事のある、あの清掃工場で処理されてた粗大ゴミの数層倍はあるゴミが積み上がっている。どれもこれも生活をするのに必要なものばかり。きっと泣いてるよ、空っぽになった家が、……淋しいよ、切ないよって。……家が、いえ、イエ(・・)、…が、ガスの元栓??風呂場の窓の鍵って?じゃあゲンカンは?……???どう(・・)しよう(・・・)。お父さんとお母さんは、アタシが風呂場で身体や髪に付着した黴菌を洗い流しているうちに、仕事に行ってしまって、イエを出たのはアタシが最後だった。菌がなかなか捕れなくて、三時間も掛かった。……三時間も、三時間も、…三時間も……掛かった。確かに就業規則じゃ仕事が始まるのは九時からだったけど、でも現場に行くには午前六時には家を出ないととても間に合わなかった。バスに乗っても、地下鉄に乗っても、スマートフォンは仕事関係のメールだらけで相も変わらず画面とにらめっこ。〝にらめっこしましょ、わらうとまけよ、あっぷっぷ〟って、アタシ笑っちゃった。家に持って帰った仕事、パソコンとにらめっこしてて『エモテット』にやられちゃった。添付ファイルを開封したのが運の尽き。アタシはウイルスが大嫌い。そうよ、悪いのはキンよ。キンはアタシから仕事を奪った。キンはアタシを絞首刑にした。You're all talk. ハタラキカタ改革なんて、フェイク、マユツバよ。仕事ゼンゼン減らないのに、カイシャのパソコンだけ一方的にシャットダウンして、イエでパソコンいじらなかったら、仕事どうすんのよ!カイシャ(・・・・)にさえいなかったらそれ働いてないっていうの。蛇口の壊れた水道の水みたいに、ICTっていう情報通信技術は、世界中どこもかしこもジャージャー流れ放題なのに、カイシャって言う檻でパソコン叩いてる時しかロウドウではないなんて、それ見た目だけでしょ。今時、どこでだっていつだって情報を自由に汲んでガブガブ飲むことができるのよ。飲み過ぎで情報に当たっておかしくなっちゃうくらいに。働くって、デザインだけ良くて着心地の悪い服みたいに、社会からの見てくれだけ良ければそれでOKなの。中身の心はいつも報われなくて泣いてるんだよ。……泣いてる、…泣いている、……きっと泣いてるよ、空っぽになった家が、……淋しいよ、切ないよって。……家が、いえ、イエ(・・)、…が、ガスの元栓??風呂場の窓の鍵って?ゲンカンで、ゲンカンを、ゲンカン……、どう(・・)しよう(・・・)。お父さんとお母さんは、アタシが風呂場で身体や髪に付着した黴菌を洗い流しているうちに、仕事に行ってしまって、イエを出たのはアタシが最後だった。……たすけて、お母さん。何が詰まっているか分からない頭の中がドクドク言ってる。…ぞくぞくして手が震えるよ。……ごめんなさい、ゆるして、堪忍して、…リュックが冷たいだけなの、凍ってるんだもの。
……アタシ、決死の覚悟で来た。一年をまるで特売の羊羹を切るように適当に四つにぶつ切りにして、半ば強制的に一様に味わわされて、それをいかにも上品な和菓子を頂いたかのように有り難がって食べなきゃ日本人じゃないみたいなあのキセツカンとか○○ならではのフウブツシとかが大嫌い。でも、秋だけはちょっと歯触りがコリコリして酸っぱい黒粒の感触がたまらない、国産のエメラルド色のキウイが食べられるからアタシは好き。大学を卒業して就職してからも、なかなか貯金が出来なくて、週一のプチ断食で浮いたお金を十年間もコツコツと貯めて、それなりに小金は貯まったけど、人生は、ぐう、ちょき、ぱあ。不意に受けた社会的制裁ですべてがパーになってしまった。断食だけは、グッドだったけど。食べないと、身体も心もへたっちゃって、外を出歩いたり、物を買いたいと思わなくなるからお金は貯まる。でも、今じゃすべてがパー。食費や生活費はお父さんとお母さんが援助してくれるけど、心療内科のカウンセリングとか投薬とかなんだかんだで日毎に預金の残高は切り崩されて無くなってゆく。その僅かな貯蓄の残骸を必死にかき集めてアタシはキウイの木のオーナーになった。一ヶ月に一度か二度通って話を聴いてもらう臨床心理士の先生に、自分の行動パターンのカードを増やせば、その分気持ちも分散されるから、たった一つの負のカードに拘っていつまでも苛まれることはなくなるって言われたから。でも、アタシはその一枚のカードに心底救われた。ユメカワ村のキウイ農園のおじいさんとおばあさんの心にはキンがいない。キンだらけの世の中に、人の心を食い荒らす病原体に感染していない。だから、こわくない。面と向かって顔を見られても平気、アタシもおじぎをするみたいに下ばっかり見ていないで眼を上げて思ったことを思ったまま口にすることができる。その大事な大事な二人が苦しんでるのがほっとけなかった。だから、助けに来た。
なのに、なぜ、どうして、こうなるの。日はとっくに暮れてしまって、空にはもう星粒が光ってて、お水の入ったペットボトルがコップに入れたLEDのミニライトに照らされてて、ガスバーナーの上ではお鍋の湯がぐらぐらと沸いていて、で、なんでアタシはどんぶり山にいるの?
……アタシじゃない、これはきっとキンの仕業よ。非常持ち出し袋をわざと玄関になんか置いておいて。冷凍庫にあった、うどんとカマンベールチーズとエノキをおじいさんとおばあさんに食べさせたかった。きっとお腹が空いてると思って。だけど、もう二人とも寝ちゃってた。きっとキンのせいよ。キンを捕るのにアタシは日に十回は風呂に入らないと生きてられないのよ。死ぬくらい苦しいのよ。いいえ秋だわ、悪いのは秋に決まってる。アキノヒハツルベオトシって、誰なのよ。あんた、じろじろ見ないでよ。ブラジル人だって。ジョンだって。ジョンはトラボルタでしょ。あんたみたいな眼ってアーモンドアイとかっていうんでしょ。おじいさんを助けに来た、ボランティアだって?助けに来たのは、このアタシよ。そうよ、助けてほしいのはこのアタシなのよ。なによ、その眼。この鞄に付けてるのはヘルプマークっていうの。見た目は健康そう(・・・・)でも、そうじゃないの、助けてほしいのよ。なのに、なんでアタシが料理をするの?
アタシ、おじいさんちの隣の人とボランティアの男の人たちに連れられて、どうしてこんなラーメンの丼をひっくり返したみたいな丘について来ちゃったんだろう。でも、なんでアタシが料理をするの?
アタシは女で、非常持ち出し袋の中には防災用品とか食べ物が入ってて、お腹が空いてたおじいさんとおばあさんはとっくに寝てしまっていて、隣にいた男の人たちはイロウカイをするって、でも別に縄で引っ張られた訳でもないのにのこのここんなどんぶり山に付いて来ちゃって、で、なんでアタシ(・・・)が料理をするの?
一つ所に男と女がいたら、女は作る人で、男はあくまで食べるだけってそんな古色蒼然としたヘリクツ、それってイヴとアダムがエデンの園で盗み食いしたりんごが〝善悪の知識の木〟っていう木に実ってたキノウセイヒョウジショクヒンだったからとかっていうの。だから、それを齧ったために人間は突然に眼が見えるようになって、なんでもかんでも見た目を重視して短絡的になってしまったの。Workだって、カイシャにいればOnだけど、イエでならどんなに働いてもOff扱い。その家でだって、女であればやることなすことすべてがOnなのに、男であれば家でOffでもそれは当然。いつまでたっても、イクメンをやってます感が抜けやしない。世間のあらゆる事は、地球を割ったみたいにGoodかBadに真っ二つに選り分けて、無理やりそこに押し込める。口を開けば、女なら、男だから。その見てくれの性や概念に求めるものって、要求するものって何なの。それが知識なの。二つの眼で、たった二つにしか見分けられないなんてほんとニンゲン臭い。臭うのはきっと腐ってるからよ。ひょっとして菌でも混入していたのかしら、キンダンの実って。そのキンが世界中に蔓延してるから、なんでもかんでも見た目なのよ。そうよ、悪いのはキンよ。キンはアタシから仕事を奪った。キンはアタシを絞首刑にした。なによその眼。この鞄に付けてるのはヘルプマークっていうの。見た目は健康そう(・・・・)でも、そうじゃないの、助けてほしいのよ。なのに、なんでアタシが料理をするの?
いいわ、この鍋に、そうだお母さんが貰って来たスーパーのレシピに災害食の作り方があったじゃない。非常持ち出し袋の中のポリ袋にうどんとカマンベールチーズとエノキを入れて、ボランティアの男の人が持ってたカレー粉も入れて袋を閉じたらぐちゅぐちゅと揉んで、お鍋に引っ付かないように割り箸でも底に敷いてドボンと入れちゃえばいいのよ。完璧じゃない。やったあー!やった、やった、……やった…かな、…やったよね、やったよ、やって…ない……、どう(・・)しよう(・・・)。もしも、もしも上手く出来ていなかったら、まずいって言われたら。……お母さん、たすけて。なんで、どうしてやることなすことアタシはダメでOffだらけで、男は、会社は、社会はOnなの。そうよ、悪いのはキンよ。キンはアタシから仕事を奪った。キンはアタシを絞首刑にした。なによその眼。この鞄に付けてるのはヘルプマークっていうの。見た目は健康そう(・・・・)でも、そうじゃないの、助けてほしいのよ。なのに、なんでアタシが料理をするの?
アタシはいつもお父さんとお母さんが仕事に出掛けた後、まるでゴキブリみたいにコソコソと冷蔵庫や床下の収納庫を漁って、そこにある物をそのまま摑んで食べてるのに。昼と夜が逆さまで、この自分がこわくて、会社がこわくて、世間がこわくて、それでも生きてるこの世界がこわくて、社会っていう固定観念の巣窟から見たらこのアタシは変に映るかもしれないけど、でも、これが精いっぱいのアタシなの。
……お母さん、たすけて。お母さんって、アタシにとって何なの?Onなの?それともOffなの?なんで人間は考える人なのに、想像力がこんなにも欠落してるの。人の心の中には、キウイの種みたいな粒々の気持ちがいっぱい詰まってるんだから。スイッチじゃないのよ。生きているって、ちゃんとちゃんとあったかい血が流れてるんだから。アタシは電気なんかじゃない!……で、デンキ(・・・)、…が、ガスの元栓??風呂場の窓の鍵って?ゲンカンで、ゲンカンを、ゲンカン……、どう(・・)しよう(・・・)。……お母さん、たすけて。何が詰まっているか分からない頭の中がドクドク鳴ってる。なによ、じろじろ見ないでよ!アタシはアタシなんだから。アタシは電気なんかじゃない。アタシ原発なんて大嫌い。誰でもいいから、誰か答えて。アタシって社会にとってOnなの、それともOffなの、そもそもそのスイッチってこのアタシにも付いてるのかしら。生まれた瞬間から事切れる最期の一瞬まで、役に立たなきゃ生きてる意味がないみたいなこの世界で、口先だけのタヨウセイの影にはびこるその恥じらいのボタンが……。
七 "If—" 最後の藁
…頭が痒い。髪もベタつく。これで五日目だ、風呂に入っていないのは。仮設の入浴施設は、避難所が開設されてから十日後に設置されたが、なにしろ混む。殊に夕暮れ時など、荒れ果てた自宅の片付けから寝に返ってくる被災者でごった返していて、一時間待ちなどザラだ。身体を清潔に洗えるシャワーもなく、髪や垢の浮いた湯船の湯を直接汲んで身体を洗うのもなんだか躊躇われて、ついつい足が遠のいてしまう。
山池が出水し、手裏剣山は通常の登山道が水に浸かって通行止めとなってしまったため、竹林の脇の密生した樹々の枝が網の目のように絡んだ藪の原を搔き分けて登ってゆく。鼻先が斜面に付くほどのかなりの急登だ。太く張り出した木の根や岩を足掛かりにしてひたすら上へと目指す。見渡す限り辺りは滝壺の水飛沫ほどの細かい雨の粒子で薄ぼんやりと霞み、樹木は湿り気を帯びて、葉緑素の抜けた秋口のあの焚き火の跡のような香ばしいにおいを放ち、雨粒の溜まった頭皮や皮膚にこびり付いた垢や脂や汗の臭いがより一層強く嗅がれる。……息がつかえる。支援物資で貰った、雨合羽の中に着たセーターがきつ過ぎて、鼻から吸い込んだ空気が、気管支から肺にうまく降りて行ってくれない。まるでロングの着圧ソックスでも頭から被って半身を締め付けられているかのようだ。サイズの合わない運動靴の中の靴下もぐっしょりと濡れて、鉛を引きずって歩いているみたいに足運びが重い。身体がふらつかないように、太腿と尻の筋肉で重心のバランスを取りながら顎を持ち上げると、眼の上で山上から雪崩れて来た岩石がパックリと割れ、そこへ幹をチェンソーで切断したかのような巨木が挟まり、周囲は威圧するような高い樹木に塞がれて満足に光も入らないからか山の持つその恐ろしさが身に染みる。様相をがらりと変えてしまったこの山の顔もいつかあの訪れた者すべての心に安らぎを与えていた穏やかな笑顔を取り戻す事が出来るだろうか。生活の基盤を失い、生きてゆく事に一かけらの希みすら持てず、失意の底にある被災者たちの一刻も早い生活再建への願いも込めて登拝する。この縄梯子に足を掛けて急峻な岩場を昇って行くような険阻な藪山を登り詰めれば、その遥か先の沢伝いには山小屋Iが見えてくるはずだ。頭上のあの巨石がゴロつくガレ場をなんとか昇り切ることが出来れば、岩間にまぎれている危険な浮石さえ踏んだりしなければ目的地に到達する事は出来る。不安に駆られるのは、多分この壁を歩いているような勾配のきつい角度のせいだ。だが、この道行きに狂いはない。登山地図に赤ペンを引いた磁北線を基点として、コンパスの針で割り出したその矢印の先には必ず山小屋Iはある。このままここを上がれば、そのうちどこからか沢水のせせらぎだって聴こえてくるんだ。その耳朶に触れる清らかな水音を辿っていけば、そこには沢べりに建つあの焼けた素焼きの瓦を敷き詰めた大きな三角屋根の山小屋Iが視線の先に見えてくるはずだ……。
「なにー、心配して来てくれたん、おおきん。あんた、ほんまわたしがポックリいってまったって思っとったやろ。だんない、だんない、お化けとちゃうちゃう、見ての通りやに。足だって、ちゃーんと付いとるにい」。
あたかも無人小屋のように人の気配の感じられないひっそりとした山小屋のその玄関脇にある、角材とベニヤ板で組んだどことなくラーメンの屋台風の受付に現れた手裏剣ばあさんは、厚手の綿入りのロング丈のキルトの巻きスカートの裾を指でつまんで、ジーパンを穿いた足元をのぞかせる。
「もともとな、電気っちゅうもんは使っとらんし、煮炊きはプロパンガスやもんで、食料の備蓄もあるにい、せやもんで露命を繫ぐことはできるん。うちはな、冬場もやるんやに、当分は営業なんてできやんやん。小屋番のバイトの子もなあ、自宅が半壊してまって避難所暮らしをしとるにい、やけどわたし一人くらいならな、なんとか生きとれる。ほんでも、さすがにおうじょうこいたに。九死に一生とはこのこった。八十一年生きとっても、こんなえらい思いしたのはなあ」。
手裏剣ばあさんは、唇をハの字に曲げて息をつく。
「死んじまった爺やんが、ケッタに乗っちゃあ山登りに出掛けて行くのが好きでなあ、そいが縁でこの山小屋の以前の持ち主が亡くなったあと貰い受けたんだにい、こんなたまげたのは初めてやさかい。小屋の真ん前の沢がな、うちの大事な水源でもあるんやけど、あの台風のドラム缶をひっくり返したみたいな雨でな、もう荒れに荒れてな、そこへ持って来てこんだあ地震だに。大きな岩がごろんごろん流れてきてえ、火打ち石みたいにぶつかっちゃあ火を噴いてさあ、こりゃあいよいよお陀仏かなって思たんや。まあ、ええんやけどな。せや、これ以上生きとったって、老人は浮かばれないやん。今のニッポンじゃ、うちら老兵は、とかく金食い虫みたいにやり玉にあげられるからなあ」。
手裏剣ばあさんは、小鼻をぷっくりと膨らませて大きな息の塊を吐く。
地元のローカルテレビ番組の、六十五歳以上で配偶者を伴わずに独居で暮らしている人に焦点を当てた〝ひとりは素敵!〟に、山小屋を一人で何役も熟しながら経営する女性として取り上げられた事もあるくらいだから、元来バイタリティーは旺盛なんだろうけれど、あれほどの災禍に見舞われながらも外見的には瘦せても衰えてもおらず栄養状態も良好、言葉運びも矍鑠としていて、日常生活における基本の動作は今のところ問題なく出来そうだから、緊急的な支援の手は必要なさそうだ。しかし、間一髪だったのは間違いない。崩壊し荒れ狂う土砂の海が、この山小屋Iの手前でたまたま二股に逸れてくれたから奇跡的にも損壊を免れたが、そうでなかったらどうなっていたのか。
「だいたいさ、山の手入れがなってないんだにい。この辺の山の肌、婆やんの面の皮みたいに、パッサパサやん。雨とかジャンジャン降ったらもうわやや。そんなもん、おまえ、どしゃー崩れてまうわな。なんたってな、水を溜めとくことができやんやん。ぐるりの山の木を見てみいさ。ぼうぼうだに。金にならへん、この辺の木はな。だーれも手なんか出さへん。木がびっしり生えとりゃ、土は干からびてまう。ほんじゃあ、金になったらどうかっていやあ、切るだけ切っといて坊主の頭みたいにツルッツルやん。山をさあ、ちゃんと治めんとなあ、天変地異には堪えられへんやに、お上は、何考えとるんけーな」。
林業改革だかなんだか政府は成長戦略と称して、地道に生きている国民を蔑ろにして大企業にばかり道を拓いて、大規模な伐採とその販売を民間事業者に委託しながら、その壊してしまった自然の樹木の循環など放りっぱなしにして、それは短期的にはお金が儲かるかもしれないが、そのツケを払わされるのはいつも大多数のふつうに生活している人だ。しかし、そのふつうの生活も、突発的に何かが発生すれば脆くも崩れ去る。日本は自然災害の吹き溜まりのごとくに災害大国であるにもかかわらず、日頃から経済効率を優先させて非常時に対する対策(その場しのぎではなく、根本的な)など碌に講じておかないから、公共の避難所は未だに旧態依然としていて、災害時に身を守るためにせっかく避難してもまるで筵に所狭しと並べられた天日干しの干物のごとく見知らぬ他人と硬い床での雑魚寝を余儀なくされて、そのプライバシーの欠片すらない不自由で周囲に何かと気を遣う生活に馴染めずに一部が損壊した自宅で避難生活を送る人も相当数存在する。それらの在宅避難者、とりわけ高齢者宅を中心に僕は被災者たちの健康状態や困っている事などを聴き取り、それを災害ボランティアセンターへと繫げて彼らの生活を支援していくのを主な仕事としているのだが、何よりもまずどんな些細な事であろうと率直にその心の声に耳を傾けること、傾聴も重要な仕事の一つだ。
僕もだけれど、辛い気持ちというのは人に聴いてもらうと、直面している困難そのものは消える事はないけれど、心が水にふわっと浮かぶみたいに気持ちが少しは軽くなって、駆け足で逃げ出したくなるような現実にも、その苦しんでいる自分を自分なりに受け入れる事も出来るようになったりする(自分自身を肯定するのは、他人のそれより遥かに難しいけれど)。
「あんな、ちょっと兄やん」。
手裏剣ばあさんは、背丈が自分の倍はある眼の前の一郎を見上げて、赤福を二つ並べたような福々しい頰にぽつんと載った小鼻をピクピクさせる。
「あっ、あの、や、やっぱり臭ったりとか、します?」
一郎は申し訳なさそうにして背をこごめ、半身にぴったり張り付いたセーターの下に着たシャツの襟元をつまんで、自分の体臭のにおいを嗅いでみる。
「くさいにい。かなりクサいやん。…フコウのかざがする。兄やんなあ、悩みがようけあるんとちゃう?」
「…いや、あの」。
「いっつもな、相談料はな、時間は無制限でな、税込み三百万円、噓やん、三百円現ナマでもらうんやけど、この老いぼれを心配してこんなん山奥までよう来てくれたことやし、出血大サービスでタダで見たる」。
「いや、しかし…」(なんなんだ、これってひょっとして人生相談?ってやつか。第一これでは逆傾聴であべこべだ)。
「うざうざみみっちいこと言うとったらかん。立ち話もなんや、茶菓子代わりに漬物でも切ってくるにい」。
手裏剣ばあさんは、一郎の返事も聞かずに、くるりと背を向けて奥の厨房らしき所へと行ってしまう。
流木だろうか、裂け目や虫に食われた穴なども開いている太さの歪な玄関のドアハンドルを引いて、トイレや手書きの値札の並んだ売店の棚を横目に歩を進めると、左右に開けた休憩や食事などができる場になっている。光の反射の乏しい板敷のそこは、天然の木の風合いが漂う、艶のある茶褐色の節だらけの無垢材で組み立てられていて、顎を上げると勾配になった天井には樹齢を重ねた太い梁と桁が縦横に張り巡らされ、そこから吊り下げられた三角フラスコ形のガラスのシェードランプは、幾つもの横長の座卓テーブルを折り畳んで立て掛けた、がらんとしたこの空間を温かな灯で包み込むように照らしている。
ダルマストーブで湯気を上げる薬缶の湯をぐいと摑んで、手裏剣ばあさんはインスタントのコーヒーの粉をティースプーンに山盛り入れたマグに注ぐとクルクルと搔き混ぜ、ストーブガードの丸テーブル越しに向いに座る一郎に手渡しする。
一郎は恐縮して中腰になって礼を言い、その拍子に厚手のクリーム色のカップからコーヒーが零れそうになって慌てていると、
「わたしがな、退かしたる」。
不意に手裏剣ばあさんが口にしたその言葉が腑に落ちないように、一郎は小首を傾げて上目遣いに相手を見る。
「あんな、悩みってのはな、ほんま生きる道に、いっつのまあにか不法投棄されてしもた、厄介なゴミみたいなもんやで。せや、毎日生きとりゃ、そんなもん、おまえ、心ん中ようけゴミーほられてまうにい。やからな、やらしいなんて遠慮しとったらあかん。悩みっちゅうのはな、不思議とな、人に言うてまうと吹っ切れるんか知らん、のうなるもんやに。せやさかいに、言うたってみい、わたしが全部引き受けたる。ほんなもん、ポーンとな、どこぞにほかったるで」。
一郎は、何と答えたら良いのかと逡巡していると、
「わたしみたいに、ようけ歳からげるとなあ、そんなもん、おまえ、次の日なんかあるかどうか分からへんやん。ほんでもな、朝来たらな、インスタントのコーヒーこさえて食っパンきばってトースターつっこんでさ、焦がしたパンにぎょうさんピーナッツ付けたって食べたるんやて、夜布団着て思うん。どんなかなん目に遭うても、どもならんことようけあっても、身体がえらてもな、ほんま明日っていう知らん未来に、希み繫ぐっちゅうの、またきばって生きたったるっていっつも天の神さんに吠えたるんや。ほら、生きてくのは容易くはないんして、往生こくことばっかりやで、一日二十四時間ちゅうんは。ほんでもな、ほんでもお陽さん上がれば、よいしょって布団はねて起きるん。かなんなあ、生きてくちゅうんは『ほんでも』ばっかりやさかいに。せやで、自分で自分にデモしたるんや。口っちゅうんは、三度のご飯さ食べるためだけに付いとるんとちゃう。自分の心のすまっこにちっこい字で書いたること、堂々とよその人に言うためにあるんや。ほんでさな、喋っとるうちに、なんか知らん、三面鏡に映っとる自分見とるみたいに、自分っちゅうもんがパチッと見えてくる。せや、兄やんの〝ほんでも〟はなんなん?言うたらやらしいなんて気持ち溜めとったらあかんに。心ん中が詰まって便秘になってまうでな」。
手裏剣ばあさんは両手にマグを抱えて熱そうにふうふうしながらコーヒーを啜ると、カップを膝に置いて、答を促すかのように向かいに座る一郎の眼を見る。
石油ストーブの小窓からもれる黄金色の炎は、採光の乏しい室内にほのぼのとしたぬくもりを与え、対流する熱が伝わってテーブルの天板はほんのりと温かく、眠たくなるようなぬくぬくとした空気には、灯油のにおいや、後ろの壁に置かれた、楔止めの本箱の中の日に焼けた本のにおい、それに微かにトイレの芳香剤のにおいもして、一郎は中綿がぺちゃんこの坐骨が当たるほど薄い座布団を敷いたこの角型のスツールに座っていると、なんだか小学校の教室にいるみたいな、自分自身までもが幼くなってしまったような錯覚に陥る。だからなのかもしれない、何のてらいもなく子どもみたいに自分の心の内をすべて明かしてしまおうとするなんて。小学生だった頃、一郎は学校から帰ると、一番に牛乳をゴクゴクと飲んで、こっそりテーブルに用意された夕ご飯のおかずを摘みながら、台所でいつも何かしている母さんの大きなお尻に向かって、自分の見た事や聞いた事をそれがまるで世界の重大事ででもあるかのように喋るのが、日課というより小さな自分に課せられた任務みたいだった。母さんに牛乳臭い息で何でも無邪気に言うことができたあの頃の一郎だったら想像も付かないほど、現在の彼に課された任務は、その使命は過酷だ。
『命を守る行動を』と神妙な面持ちで告げる、あのテレビのニュースキャスターの顔を見ながらも依然として避難するどころかまだ食卓に着いてムシャムシャご飯を食べていられるくらいにどこか特別警報慣れしてしまったような昨今だが、今より三週間前の台風十九号による大量の雨で地盤が水分を含んでかなり緩んでいたところへ、再び襲った今回の台風二十号は中心気圧が猛烈に下がって急激に発達、局地的豪雨は総雨量七〇〇ミリを超え、その最中にあの巨大な地震が発生して大規模な土砂崩れが起こり、河道がくねくねと蛇のごとくにこの夢川村を蛇行する報川も水の勢いが増して、地震により堤防左岸に亀裂が生じたため三〇メートルに渡り決壊、その川の様子を見に行って、氾濫した水にのまれて一人が死亡、土砂崩れに巻き込まれて三名が行方不明、全壊した家屋五十一棟、半壊(一部損壊を含め)約四五十棟、床上・床下浸水は七割を上回り、この村の壊滅的な現状を回復させようにも住民の高齢化でとても手が回らず、壊れてしまった家屋のがれきの撤去、床下に潜っての泥のかき出しや、使用不能の家財道具等の運び出し、土砂や泥水を被って果実が台無しになってしまったキウイ農家への支援など、ボランティアの善意の力が喉から手が出るほど欲しいのだが、ここは大々的に報道されている被災地でもなく、メディアへの露出などほとんどない寡黙な小村であり来てが全く足りていない。先の見えない今後の暮らしへの不安や焦り、応急修理さえままならない自宅を補修または再建していくための金銭的な重い負担、また赤の他人と起居を共にしなければならない避難所での精神的な気苦労など、その日を追って暗く鬱積していく村人の心労やストレスは時に暴言となって噴出する。その節度を欠いた感情剝き出しの荒々しい言動を一身に受けているのは、松阪市社会福祉協議会地域福祉課主事として働いている一郎だ。また自らの身を削って献身的に尽くそうとしてくださる、ボランティアのその一人一人の大切な命を預かっているのも彼なのである。災害発生からの日が浅く過酷な状況におかれた被災地に逸早く駆けつけて懸命にボランティア活動をしている息子や娘や孫、親や祖父母などの身を案じて、彼らの家族からは日に何本も電話が掛かってくる。『余震が続いているが、息子は無事でいるのか』『雨の降りが激しいが、娘は崩れたがれきで怪我でもしてるんじゃないのか』『父は持病があって、感染症にでもなったらと心配で』『じいちゃん、かぜひいてない?ごはん、ちゃんとたべてる?』
一郎は、電話口で頭を何度も下げつつ一様に言う。
「安心してください。危ない作業は、私が責任をもって絶対にさせませんから」と。
本当にそうなのか。実際にはがれきの撤去で足を滑らせて転んだり、幸いにして骨折こそないものの、怪我や打撲など茶飯事だ。風邪や腹痛で体調不良を訴える人もいるし、脱水や筋肉痛や、精神的に落ち込んでしまって情緒不安定に陥る事だってある。だが、誰一人として〝何か〟があっては済まされない。想定外など絶対に許されないのだ。また、被災者の望む支援とボランティアが希望する支援は食い違いが生ずる事も多く、それらをマッチングするのは、双方を上手く繫いで橋渡ししていくのは容易なことではない。
一郎は、湿気たマッチに火を灯すように、疲弊した心身を更に限界まで擦り減らして対応する。ひょっとしたら、被災地に明るい灯など点く事はないのかもしれない。誰もが喜べる復興なんて本当に果たせるのか。一度壊れてしまったものを、割れたグラスの破片を拾い集めて接着剤でくっ付けるかのように繫ぎ合わせたとしても、歪なグラスの縁で唇を切ってしまうごとくに却って心が傷ついてしまうだけでかつてと同様の暮らしに戻れるかは分からない。新しく作り替えたとして、それに馴染めるのかどうか。使い勝手の悪い新品のグラスのようにせっかく投資してもすべてが無駄に終わってしまうかもしれないのだ。
「…あの、今更過去が戻るわけもない、時は不可逆なんだって頭では分かってるんですけど、なんかこれまで出来てたことが、すべてみんな出来なくなってみると、かつての自分が無性に羨ましくなってくるっていうか、それってすんごい事だったんだなって……」。
「…せやな。日常言うんは、神さんのプレゼントかもしれへん。生活がこけてしもて、その辺ほかっといたそれ、わやになってからげたった紐といて、ああこげん宝自分持っとったんかなあて、後悔先に立たずやな」。
手裏剣婆さんは、かがんでストーブの芯のつまみを左右にいじりつつ、
「あんな、神さんは、もう一つ大事なプレゼントをくれとらっせる。なんなんか分かるにい?」
一郎は、ストーブガードの丸テーブルの上の大鉢に盛り合わせた、黄色いたくあんやこんにゃくの酢醤油漬け、干し椎茸の粕漬けや八つ頭の茎のぬか漬けなどを、まるでそこに答があるかのように、下目遣いに見る。
「こん命や。なんで生まれて来たんかも分からへんに、ほんでもとりあえず生きとれてドンとこん命を置いてったんや。ええことはほんのちょぼっとで、まあえらいことがぎょーさん詰まっとるプレゼントやけんけどなあ。せやで、えらいなあ思たら休むんや。人生っちゅうんは、そんなもん、おまえ、たまにはほっと息抜いて、茶飲んでおやつでも摘んだらなやっとれん。月の~砂漠を~、は~る~ば~ると~って、あのぎゃーこくのカンカン照りの砂漠歩いとるラクダってのーんびりしとるように見えるやん。ほんでも、どんどんどんどん荷物をおいねると、最期は重た過ぎて背骨が折れてな、行き倒れになってまう。兄やんもなあ、せや、よその人よりまずは自分やに。自分をな、大事にしたらな。自分を粗末に扱う人間に、人様の痛みなんて分かりゃせん」。
手裏剣ばあさんは、話の箸休めとばかりに、鉢からぶつぶつと刻んだ黄色いたくあんを摘んでポリポリと齧る。
「あんな、ぎゃーこく語で、ぎぶあんどていくっちゅうのあるやん。あれ、ええ言葉や。なんぞ拵えたら、よその人にお裾分けするんが、人情っちゅうもんやけど、やり過ぎたら自分の食べる物がのうなってまう。貰ってばっかりおったら、つい食べ過ぎてお相撲さんみたいにそらおでぶさんやに。せやで、ほどほどがええ。兄やんも、まず自分が生きていられるだけはちゃんと食べるんや。ほんでさな、それから人に施す。せや、そんなもん、おまえ、ガス欠で車が走れっか、生身の人間やて同じやに」。
手裏剣ばあさんは、ふと思いついたように幾つものランプが下がった天井を見上げて、
「上でな、ちょっとでええに寝やんせ。ちいと数分でも、寝えせんでも横になっとるだけでほらちゃうにい。ようけ繁盛しとる時は、ちっこい猫の兄弟がお乳吸うとるみたいに、一組の布団さ数人で丸まって寝るんして、今はお客さんおらんで、手足をどえらい伸ばて寝れるやん」。
一郎は手裏剣ばあさんの折角の好意を有り難く思いながらも仕事中に流石に布団に潜って眠る訳にもいかず、さりとて心配してくれるその気持ちを無にするのも申し訳なく、ほんのしばらくだけでもと、吹き抜けの上下二段に区切られた客室に上がって畳敷きの床に何組か畳まれた布団の一組に背中を預けて足を伸ばし、久々に懐かしくて本箱から借りてきてしまった、登山客の忘れ物らしい四隅がよれて装丁の褪せた中学校の英語の教科書のページを繰る。…すると、はらりと紙片が落ちる。四つ折りの便箋らしきそれを開けてみると、実用箋を裏にしてその無地のレターには、薄い鉛筆書きの英文とその下に訳したと思われる文が端正な字で認められている。
〝 IF-Joseph Rudyard Kipling
………………………………………………………
or watch the things you gave your life to broken,
and stoop and build 'em up with worn-out tools;
If you can make one heap of all your winnings
and risk it on one turn of pitch-and-toss,
and lose, and start again at your beginnings
and never breathe a word about your loss;
If you can force your heart and nerve and sinew
to serve your turn long after they are gone,
and so hold on when there is nothing in you
except the Will which says to them: "Hold on!"
If you can talk with crowds and keep your virtue,
or walk with kings -- nor lose the common touch,
If neither foes nor loving friends can hurt you,
If all men count with you, but none too much;
If you can fill the unforgiving minute
with sixty seconds' worth of distance run --
Yours is the Earth and everything that's in it,
and -- which is more -- you'll be a Man, my son! 〟
……君が、君なりに頑張って来た暮らしが無残にもバラバラになってしまったのを目の当たりにしても、挫けずにまた黙々と君なりの手立てでもう一度地に伏して泥だらけになりながらも新たな暮らしを築き上げるのならば、
もしも、君が世間で勝ち取ってきたあらゆる糧を、うっかり軽い気持ちで手を出したコイン投げで一時的に失ってしまっても、めげずにもう一度人生に打って出るのなら、
もしも、仲間が去ってしまった後もずっと、それでも〝ガンバレ!〟って心の中で自分を奮い立たせる以外何一つ自分の中に残されてはいない時でさえ、なおも踏ん張って、全身全霊で、君に与えられたその役目を果たせるのなら、
もしも、君がどんな人と話しても、それに流されないなら、
もしも、たとえ王様とだって友だちみたいにへりくだることなく馬鹿話でもしながら散歩できるのなら、
もしも、君が心を開いた友ばかりでなく、反対する者の意見にも公平に耳を傾けるだけの度量を持ち合わせるのなら、
もしも、不快感を与えずに、君がみんなの友だちであり続けられるのなら、
もしも、君がその我慢ならない一分を、心のウォーミングアップとばかり席を立って外に出て、ほんの六十秒ジョギングをしただけでやり過ごせてしまうくらい寛大な精神の持ち主なら、
せがれよ、この世は、残念ながら楽しいことばかりではないけれど、だからこそ君がいるんだ。すべては君の助けを求めている。人が人としてお互いを助け合える、それが我々の地球なんだ。
……どこかで寝息が聞こえる。無防備にも口を半開きにして、幾分詰まった鼻を鳴らしながら。避難所じゃ毎晩他人のいびきに辟易してたのに、僕も相当なものだ。……疲れてるんだな、被災者も僕も世の中のあらゆる人が。なんだか寝転んだ猫が砂場でお腹を出してゴロンゴロンしてるみたいに、だんだんこの自分が緩んでくる。……ゴロゴロ、ぐるぐる、グルングルン……猫が、いや自分が、周囲がクルクルと回る。その回転の速度がどんどん速くなってくる。いいや、走っているんだ。僕は太くて立派な木の周りを一生懸命走ってる。わき目も振らずに自分の後ろ足だけを目掛けて無我夢中で走って行く。走って、走って、走って、走って……、僕の身体はなぜか次第に溶けてゆきとろとろのバターになってしまう。黄金色のそれに指を突っ込んで舐めてみると頰っぺたがとろけそうに旨い。僕は早速こんがりと焼けたパンケーキにそれをたっぷりと塗ってナイフとフォークで三角に切り分けて食べていく。分厚いそれを一口切っては食べ、また切っては食べ、みるみるパンケーキはなくなっていくけど、ちっともお腹が膨らまない。…でも、変だな。じぶんを切ってじぶんで食べてるなんて、じぶんがなくなってしまう。そもそも、その切っているじぶんと、切られているじぶんと、食べているじぶんが同時にあるってことは、ここにいるじぶんってほんとのじぶんなんだろうか。ってことは、君って、その君は本当の君なのか。僕がいて君がいてこの地球で僕たちはふつうに生きているけれど、そのふつうがふつうでなくなったら、お互い困った時に、僕たちはほんとに人として、自分のことのように、相手の心に寄り添って互いに助け合いどんな苦難をも乗り越えていくことができるんだろうか……。
八 廃墟の上に月上りきぬ
暗がりにバーナーの青い炎に照らされて、キウイ女の顔がうすぼんやりと浮かんでいる。キウイ女は、危なっかしい手付きでまるで危険物でも扱うかのように、眼の前の沸騰した鍋に食材を入れたビニール袋を恐る恐るどぼんと落とす。OD缶のシングルバーナーの五徳の上でぷっくりと膨らんだそれはぐつぐつと煮えていく。
恐らく男物のだぶだぶの上下の二重線入りのジャージ姿で非常持ち出し袋を背負い、たすき掛けの水玉模様の大きながま口を臀部にのっけるように下げて、キウイ農園の前で呆然と立ち竦んでいた彼女をその挙措に一抹の不安を覚えた米作や石丸さんが暮れ方にこのまま放ってもおけずに一緒に誘ってここまでキウイ女を連れて来たのだ(名前も住所も自分の身の上について何一つ語ろうとはせず、ここではひとまず仮名でキウイ女と称することにする)。
石丸さんが華子さんを連れては散歩をする時いつもここで一息入れるという、通称どんぶり山(ビジュアル的に、こんもりとしたその姿がまさにどんぶり飯そのもので、お米一粒が育つのにもどれほどの労苦と愛情が必要であるかを知り尽くしている村民の口の端からは自然とメシと言う語彙だけはこぼれ落ちていった)と言っても標高は一〇メートルほどの小高い丘なのであるが、顔を見知った者同士の慰労や親睦も兼ねて、石丸さん夫婦を囲んでの細やかな宴をそこで開くことになったのだ。
変わり果てた夢川村の現状は夜の闇に紛れてあるのは頭上に散らばる星々の輝きだけだ。
本来ならばボランティアの活動は一日限りで、皆またバスに乗ってはそれぞれの地元へと帰るのだが、ジョンはキウイの果樹園のご夫妻をほっとけなかったらしくご自宅に泊めてもらってもう二、三日はこちらで頑張るらしい。米作も、元よりそのつもりで野宿の準備などは万端、十日間はこちらでのボランティア活動に勤しむようである(酒造りにおける洗米後の秒単位での吸水歩合の目安や仕舞仕事での手を入れるタイミング、もろみの最適温度など、それらを事細かく書いたレシピを従業員に一様渡してはあるが、この仕込みの時期にこれ以上蔵を空けるのは蔵元杜氏としては失格である)。
「…変わってる。これ和食か?」
ジョンは、石丸さん宅から拝借したお鍋の中でぷかぷかと浮かんでいるビニール袋を覗き込んで、同じく鍋に鼻が付きそうなほどそれを凝視しているキウイ女にいかにも興味津々に言う。
「ここは日本なんだから。だったら、そこで作るなら何でも、ラーメンでもカレーでもハンバーガーでも肉まん・餡まん・中華まん、サンドイッチだってスパゲティだって日本のご飯よ」。
キウイ女はぷいと口を尖らす。
「そうか。ボク、キムチ好き、ラーメンにのっけると、和食旨い」。
キウイ女は眼の端でちらりとジョンの顔を見る。
「…あんた、にほん好きなの」。
「ニッポンの文化は好き。でも、ニッポン、ガイコク人好きなのかな」。
「日本って、外国でもそうなのかな。多分普通の人が好きなんだよ」。
「…フツウ。何か繫がらないのか?」
「ある一定の基準があって、そのライン上にある者同士は繫がれる。でも、そのふつう(・・・)から落ちこぼれてしまったらもう終わり。誰も助けてなんかくれない」。
「…ヘルプ、求めている人は、世の中にいっぱいいっぱいいるよ、星の数ほど。あったかいハートを」。
ジョンは自分の発した言葉をそのまま見ているように、キウイ女の提げたがま口にぶら下がった、赤地に白抜きで描かれたハートの上にプラスの記号をあしらったピストグラムを見る。
「ああ、これ。これはね、自分自身との戦いなの。心をプラスする。不安なんか吹き飛ばせ、負けるな、勇気を持てって、おまじないみたいに外に出る時はこれを身に付けてね、自分にそう言い聞かせるの。じゃないと怖くて外へなんか出られない」。
「オマジナイ。マジヤ?」
「…そう、おまじない。でも、もし星の数ほど、あったかいハートがあったら、ふつうっていう冷酷なラインも、鉛筆書きみたいに消しゴムでゴシゴシ消しちゃえるのかな……」。
キウイ女は漆黒の闇に煙る鍋の湯気を見上げて呟くように言う。
石丸さんや米作、笛吹と一郎、それに避難所で孤立してしまっていた桂長門を少しでも癒やされればと一郎が誘い、彼らはどんぶり山にたった一本植わったツガの巨木の下で、かつて一徹小学校で使われていたあの下駄箱の前の渡り廊下を鉄脚で組んだベンチに紅一点の華子さんを中にして座り、食事の用意が整うまでの間、蔵元杜氏の米作が酒蔵から持参した酒を酌み交わしつつ、その酒の味についてなんだかんだと言い合っている(オジサンたち、口を動かす暇があるのなら、ちっとは手を動かしてキウイ女を手伝ったらどうなのか)。
「俺、日本酒は普段はあんまり飲まないもんで(うちでは飲み物といえば、白湯か水道水が不文律なのだが)。まあ、酒ったらこんなもんじゃ。あっ、でもdancyuなんかには、甘くて酸っぱいのが今風のトレンドの日本酒だって書いてあったかな。ってことは、飲んだことないけど、流行りのタピオカドリンクにレモンを絞ったみたいな味が売れ線ってこと?」
笛吹は股間をもぞもぞとさせつつ言う(実は前夜のげりぴーで尻を拭った葉っぱはウルシであそこが完全にかぶれてしまい、むず痒くてむず痒くて、もう人前でなければ血が出るほど指でかきむしりたいのだ)。
一木一郎は、酒を注いだ紙コップを目の高さに上げて、
「僕は、夜遅く帰った時なんか冷凍の唐揚げをチンしてウイスキーをサイダーで割ったやつをよく飲むんですけど、唐揚げには合うんじゃないかな」。
「ねえ、そう、あんた、そうあんたのこと。あんたどう思う?」
石丸さんは桂長門に水を向ける。が、桂には言っていることが分からない。
「あじ、あじ、あじ」。
笛吹は上の歯と下の歯をゆっくりと上下させながら語を発し、自分の紙コップを人差し指でつつく。
桂は眼を見開いてうんうんと肯き、半分ほど減ったその紙コップの中身と石丸さんをキョロキョロと見比べて、眉を八の字にして首を傾げる。
「…だろ。あんたもそう思うだろ」。
石丸さんはふむふむと肯いてかってに納得している。
「あんた、酒質設計ってちゃんとやってる?」
赤い眼をした石丸さんは米作をギロリと睨む(眼が据わっている)。
「…腹割って言うけど、ヘック、短歌と俳句の違いって、あんた分かる?俳句は短いんだ。でもさ、そこにすべてのものが凝縮されている。酒もね、その一滴に、それが醸す余韻にすべてのストーリーが詰まってるんだ、ギュッとね。あんたの酒は、もれちゃってる。甘みも酸も中途半端。大事なところに穴ぼこが開いてる。ちっとも風流じゃない。花鳥風月がないんだよ。あのね、酒は人間なんだ。和醸良酒、まずはチームワークよ。そこから出発して、穴ぼこの開いてない、盃を重ねるうちに心が満たされるような、酒を醸す。分かる?ッヘク。あんたの酒、あん時貰って餡パンと一緒に飲んだ時は確かに旨かったよ。別に餡パンが特別な物だったわけじゃなくて、しめっぽい話してたし、疲労感もあったかな。そんな情緒でもなければ、たとえば、ヘック、ケヴィン・ベーコンが冷蔵庫に見当たらなかったら、ベーコンエッグはどうなるのか。朝食の皿というハリウッドで、残された卵は、孤高にも主人の腹を満たすような一人舞台を張れるのかって、えっ、あんた分かる?あんたの造った酒について言ってるんだよ」。
石丸さんは睡眠不足が祟っているのかだいぶ酔いが回っているようだ。米作は浮かない顔で石丸さんの話を聞いている(顔面や身体中は打撲による内出血やむくみでパンパンに腫れ上がってはいるが、うずたかく積み上がったあの災害ゴミの下敷きになりながらもあの時笛吹が咄嗟に折れた物干し竿を差し込み、それと廃材で隙間を拵えて引きずり出してくれたお蔭でどうにか命拾いをしたのだ)。その命の恩人でもある笛吹は一体何杯お代わりをするのかまた酒瓶に手を伸ばし、一郎は石丸さんの酔話に文字通りのはてな?顔、桂はキョロキョロとその皆の顔色を窺っている。華子さんは、立ったり座ったり漂ってくるカレーの匂いが気になって気になって落ち着かない。
「あの、料理できたよ。セルフみんなご飯取るに来る」。
パルド系の褐色の肌をしたジョンは、お水のペットボトルを懐中電灯で照らしたランタンの明かりに、うずらの卵みたいなクリクリした眼を光らせてまるで遠くの人に話すような良く通る大きな声で言う。
「お、おいしそう、じゃない、ですか」。
「これは、ボリュームがまた」。
「……う、旨そう」(昨夜のあの超下痢で胃腸の具合が悪く石丸さんから頂いた餡パンを一口食べたきり今日一日水一杯飲むことなく過ごしたため最早飢餓状態なのだ)。
「………」(まるで垂涎という言葉を眼で見るように、唇から垂れた涎を拭うように上を向けた手のひらで口元をスルリと撫ぜる)。
「・・・」。
「…ヘック、おうおう、ッック」。
米作が新聞紙を折って拵えた器にビニール袋を被せた即席のどんぶりに、キウイ女がゴム手袋を装着して、茹で上がったそれを鍋から引き上げて空けると、急場の非常食にしては背徳的な、うどんの上のカレー山が噴火して、チーズの溶岩がなだれ落ちたみたいな、えらく体力が付きそうな物体(一品)が出来上がった。
彼らはあたかもひとりキャンプをしているみたいにして、地べたに胡坐をかいたり、ベンチに正座したり、ツガの木にもたれて、または夜空を仰いで立ち食いとそれぞれが居心地の良い場所を見つけて黙々と胃袋を満たし冷え切った身体もポカポカと温まると、一堂は懐中電灯に照らされた光るペットボトルの灯の周りに車座になって座り、米作が持って来たナッツ類など摘みつつ、お開きまでの束の間、お互いにほど良い満腹感と肉体的な疲れからか特にこれといって何をするでもなく、すでに帳を下ろした空の名前も知らない無数の星座やチカチカと運行する飛行機の点滅などに眼をやりながら、夜のその暗さが心を解き放つのか、気の置けぬ旧知の友のように各人の思いに耳を傾け、そしてとりとめもなくその話のタスキを繫いでゆく。
「…ぼくは、ボランティアに参加する度に決まって心に浮かぶ歌があるんですよ。『空にのみ規律残りて日の沈み、廃墟の上に月上りきぬ』って歌を。自然はこの地上をめちゃめちゃに破壊してしまっても、そ知らぬ顔して、絶対に自分の時を曲げたりはしない。夜になれば必ず月は顔を出す。なんか自然に圧倒されてしまうというか、人間の無力さ突き付けられてるみたいで」。
米作は、膝頭に顎を載せて上目遣いに夜空を仰ぎながら言う。
笛吹は、ナッツをボリボリと嚙み砕きつつ、
「流れる水に身を任せるみたいに、自然の時に逆らわずにやり過ごすしかしょうがないのかな。太宰のあの人間失格で最期に残した言葉は『ただ、一さいは過ぎて行きます』だもの」。
キウイ女は桂と肩を並べて、その右手を取り彼の手のひらに二人の会話の断片を拾って指文字を認める。桂のナップサックに吊り下げられたヘルプマークの意味を知る彼女にとっては、たとえ初対面であってもその困難が自分事として放ってはおけないのだ。
ジョンは笛吹の言葉を復唱するように呟く。
「…ただ、いっさいはすぎてゆきます」。
石丸さんは、おうし座の赤っぽく輝くアルデバランと並んだ月を見上げて、
「…自然なんだよ、酒造りもさ。人生といっしょで波があるんだ。ざぶーん、ざぶーんって潮の満ち干みたいに。でも、そこが酒なのよ。機械じゃないんだ。計算されたアルゴリ、アルペジオ、いやアルちゅうのAIでもなくてさ、感情もあったかい血も流れてる人間の手が拵えてるのがミソ蔵よ。月のうさぎのみぞ知る、秘儀だね」。
一郎は、体育座りの両脛を抱きしめるようにして、
「幼稚園にも上がらないチビだった頃は、あの月には自分の命まで神様に捧げてしまったうさぎが住んでいるんだって本気で思ってた。でも、本当の神様だったら、最初から良心を試すなんてそんなあこぎなことほんとにするのかな。まあ、あれはうさぎじゃなくて、黒い玄武岩だって今じゃ分かってるんだけど」。
「…でも、あのお月さまに、うさぎが住んでるって、何の知識も持たずに信じれた方がロマンがあっていいな。この世に、分からないことってもっとあっていいと思う。とことん追求して、その先は、その先はって物事を明らかにして、世の中がずんずん進んで行けば行くほど、心は置いてきぼりにされて、ゆっくりと生きられなくなっちゃうもの」。
キウイ女は哀しい笑顔を浮かべているかのような月の影を瞳に宿してぽつりと言う。
その彼女の視線の先を追うように、桂は親指と人差し指をくっ付けて、上か下へと三日月を表すように開いてすぼめると、左の手のひらに載せた右手をすっと横に滑らす、まるで真っ新で美しい大地を表すように。
…と、微かに地が揺れる。微弱なさざ波のような揺れが……。
一人だけまだうどんを食べていた華子さんは、不意に顔を上げて、カレーまみれの口から低い声を発する。小さすぎて聞き取れないほどの声だがどうやら歌を歌っているようだ。
「エーヴィー、シャラララー、エヴィ、ウォウウォー……」。
過去も現在も未来も人としての時間軸などとうに失ってしまった華子さんの、しかし記憶の欠片は心のどこかに存在していて、揺れに対するある種の恐怖が偶然その記憶の断片を蘇らせたのかもしれない。
Every Sha-la-la-la
Every Wo-o-wo-o
Still shines
Every shing-a-ling-a-ling
That they're startin' to sing's
So fine.
シャラララの一粒一粒が、
ウォウウォウの一粒一粒が、
昨日と同じように今日もピカピカ光っている。
彼も彼女もどんな時だってシンガ・リンガ・リンって口ずさめば、
きっと元気になれる。
All my best memories
Come back clearly to me
Some can even make me cry.
Just like before
It's yesterday once more.
楽しかった思い出たちが、
鏡を見ているみたいにくっきりと蘇る。
でも、苦かった想いもいっぱいあって泣いてしまうこともあるわ。
昔もそうだったのかな。
過去がもう一度あったら、わたしは……。
華子さんは、ふっと我に返ったように口を閉ざすと、どんぶりに眼を落とし、またうどんをもぐもぐと食べながら、その唾液で湿った割り箸をぎゅっと握りしめて眼の上の月夜の空を衝くように掲げた。
九 生きる糧はボランティア
新年が明けて二日、二〇二〇年の幕開けに冷たかった元日の寒気も幾分かは温んで、おろしたてのノートの一ページのごとく雲で覆われた白い空には沈黙の三点リーダみたいに鳥影がポツポツと散らばっている。丁番もない、僅か二十世帯ほどが暮らしている、総人口五十人にも満たない小さな単独の町である一本木町の、その田んぼに囲まれた国道一五五号線沿いにぽつんとあるドラッグを折れて小路を道なりに行くと、東西に伸びた漆喰壁に高腰の焼杉板を張り巡らした、赤錆びた看板を掲げた瓦葺きの木造蔵が、隣家の垣根のその平屋より上背のあるカイヅカイブキの枝越しに見えてくる。緑濃い苔色の大きな杉玉がぶら下がった門口の、麻無地に一本木酒造と染め抜かれた長暖簾を潜ると、仕込み蔵のタンクから立ち昇る、南国のトロピカルフルーツのような、飯台にひろげた熱々のご飯に寿司酢を垂らして酢飯を作っているような香りが鼻孔をくすぐる。木曽川水系の伏流水のまろみと米の味が染みた滋味に富んだ優しい匂いだ。ヤブタと呼ばれる自動の搾り機に吸い取られたもろみが圧搾されて滔々と流れてくるタンクからその今季初の酒を汲んで猪口に注ぐと、ほんのり緑色を帯びていて朝露みたいな角のない丸みがある。本来ならばその出来上がった酒の品質を保つためには搾り機を冷蔵室に入れたいところだがそこまで投資する金は一本木酒造にはない。去年の暮れにあのボランティア活動をした事が縁で、石丸さんとは、お隣さんからのお裾分けのお裾分けで廃棄するキウイを輪切りにして干したドライフルーツが送られて来たり、こちらから華子さんに甘酒でもと酒粕を送ったりと細やか交流が始まり、その石丸さんの口利きで地元の方に酒米『神の穂』を分けて頂く機会を得て、今期は従来の本醸造酒とは別に純米造りでアルコール度数も以前よりぐっと下げて原酒で十五度程度に抑えた酒造りに挑戦することが出来た。酵母はきょうかい酵母KT901号にして仕込んだから、酸度も格段に上がり低アルコールでも酒質はキュッと締まってコクのある旨い酒ができるはずだ。酸味を利かせば熱燗で飲んでも、よりお米の旨みを濃く感じて、食事と共に味わえばさらに格別の旨さだ(鶏のつくねと野菜ときしめんなんかの水炊きをつつきながら、ちびりちびりと飲んだら、その絶妙さに舌もポンポンと鼓を打ったりして)。
ところが、そんな目論見とは裏腹に、初しぼりの酒のにおいを猪口に鼻先を近づけてくんくん嗅いだり、キャラメルを舐めるみたいにして口中に含んで唾液と絡めたり、じっとその色味を吟味したりと各々新酒を利いた蔵人たちは皆浮かぬ顔をしている。
「まあ、出来たては、どれもこんなもんですよ。しばらく、そうだな一年でも二年でも寝かせとけばそのうちに味はのってきますって。サツマイモだって、貯蔵するうちにデンプンがブドウ糖や果糖へと変化して甘い味になるんだ。バナナもね。甘エビだって獲れたてのは甘くない。時間を掛けてアミノ酸が分解されてゆくと甘くなる。でも加熱すると、パッサパサになっちゃって、甘みもなくなっちゃう。あれはやっぱ生でなくっちゃね」。
笛吹は、一般的に日本酒は単年で飲むもので、熟成させるほど旨みが増すワインとは消費形態が異なることなど碌に知りもしない癖にいかにも物知り顔に言う。人間は仕事を得ると、こうまで変わるのかと眼を疑うほど、以前より丸々と五キロも太って最近では中年太りを気にして、テレビの通販を見ては酵素だ黒酢だダンベルだと何にでも手を出してしまい、米作に諫められたりもするが、老母のなけなしの年金を当てにした、あのいつ瓦解してもおかしくはない生活を捨てて、米作を頼って一大決心で家を出てきた彼の決断も、その命の恩人でもある笛吹を正社員という好待遇で迎え入れた米作の英断も、毎日酒米を洗っては秒単位で水に漬けるという洗米と浸漬の工程を地道に繰り返して懸命に働いている笛吹のあの姿を見れば正解であったといえる。
米作は、左の手のひらに右手の親指を下からツンツンと当てている桂長門の顔を額に皺を寄せて覗き込むと、
「…えっと、なに?」
桂は、二つの言葉を大きく口を開けて口話で表す。「・・」。「・・」。
「えっ、う?」(桂は首を真横に振る)。
「ふ?」(桂は肯く)。
「えっ、なに?」
横合いから笛吹が「ふきって、言ってるんじゃ」と口を挟むと、
桂は肯いて親指と人差し指で作った〇をぐんと突き出す。
「フキ、ああひょっとしてふき味噌」。
桂は、顎をがくんと下げて、人差し指と中指をくっ付けて表したそのお箸を、左手に載った架空のお椀と口の間で行ったり来たりさせる。
「フキ味噌と食べる、ああ、酒のあてか。いいかもしれないね」。
桂は口を真一文字に結んで深く肯く。
桂が手話や口語や身振り手振りで臆することなく自分の気持ちを伝えようとするのは、ここでは彼は弱者ではなくみんなから必要とされる人だからだ。誰一人頼れる身寄りとてなく、母親の代からのクリーニング屋を今後も手直しをして続けるべきか、いっそこれを機に店を畳んでしまうのか、だとしてこの先五十一歳でどうやって新たな仕事を見つけて一人で食べていくのか、地元の社会福祉協議会に何度も足を運んで相談に乗ってもらううちに、その窮状が一木から米作へと伝わり、それなら酒蔵で働かないかと米作は彼を正社員として採用した。耳が聞こえないというハンディをカバーするために、人の何倍も眼を酷使して、他人の眼や口の動きや身体の動作をつぶさに観察してその状況を把握し、非言語のコミュニケーションを必死で獲得していく桂のひたむきさには誰もが頭が下がる思いで、彼が来てからの方が明らかに酒蔵が綺麗になった(家業のクリーニング店をやりくりしていた頃は、衣類の受け渡しを円滑にするためにいつも整理整頓を心掛けていたので、身の回りをきちんと整えることは桂にとっては処世訓みたいなもので、その彼の姿勢に習ってか皆がこまめに掃除をするようになったのだ)。
「…フキ味噌か。俺、むかし山で採ってきたふきのとうを油で炒めて味噌と砂糖絡めて、おふくろに天然ものの黒ウニだって出したら、流石にこんな苦いウニは偽物だ、魚屋に文句言ってこいって、大騒ぎになって。あの腐った物と毒以外は何でも食うおふくろでさえ見抜くんだから、あれは苦いんだよなあ」。
笛吹が溜息交じりに言うと、もともと新酒のできが今一つで沈んでいた蔵のその場の空気までもがなんだかふき味噌を舐めたみたいに苦くなってくる。マイナスの感情は得てして病原菌のように伝播しやすいのだ。
空の猪口をまるで生み立ての卵のように大事そうに両手に持って皆の雲行きを窺っていたジョンは、もともと大きな鼻の穴をぷっくりと膨らませて、
「ただ、いっさいはすぎてゆきます、だよね。いっさいは、すぎてゆく。だったら、いいこと、わるいこと、できたことも、できなかったことも、たのしみも、かなしみも、そのばにじっとすわってはいない。いずれは、おしりがいたくなって、どこかにいっちゃう。ジになったら、たいへんだもの」。
ジョンのたどたどしい日本語に耳を傾けていた蔵人たちはお腹の皮をヒクヒクさせながら眼を見合わせて噴き出す。言われてみれば、確かにこの世に時がある以上、それがどんな事だって一分前とは違ってくる。ジョンは、皆の半分にも満たない年齢だけれど、仕事もよく失敗するけれど、縁の下の力持ち的な存在で、ジョンがいてくれると自然と誰もが心の棘が取れて何事も丸く収めることが出来るのだ。母国ブラジルで病に臥せる母親への仕送りで、ついに学費の納入も儘ならなくなり、栄養不足で脱毛が激しく坊主頭に産毛のような毛を生やして一本木酒造の門前にうずくまっていたあのかつての憔悴しきったジョンは今やそこにはない。
米作も、笛吹も、桂も季節雇用で働いている二人の従業員も、仮眠を取りながらの酒造りで寝不足ぎみの充血した眼に涙を浮かべながら、ジョンの顔が真剣そのものであるだけに、なんだか可笑しくて久しぶりに腹の底から思いっきり笑った。
色褪せた紐を垂らした、油染みが点々と付着した角型カバーの下にちらちらと灯った流しの蛍光灯の薄明りに、影を帯びた米作の横顔が浮かぶ。
ひっそりと、排水口のゴミ受けの菊割れゴムの隙間から覗いているゴキブリぐらいしかいない、市井の大半は脳内のオレキシンが蛇口をキュッと閉めて体内時計によるメラトニン中毒でコロリと寝静まった深夜、卓上の回る調味料置きの脇に置かれた古ぼけたポケットラジオからはキンキンと耳障りな音が響く。どうやら、どこぞの蔵元杜氏へのインタビュー、それも海外展開など幅広く手掛ける日本酒業界の風雲児らしい。米作は、食器棚やキッチンワゴンや分別ごみ箱やお隣から貰った土付きの野菜がごっそり入った段ボールなどに迫るように囲まれた、四角い食卓テーブルに着いて、互いに向かい合うように開いた二面の写真立てをじっと見つめている。一つは、バンクシーが描いた、ベンチに寝そべるホームレスがまるでサンタクロースのようにトナカイに引かれて天空へと昇ってゆく壁画。もう一方には、皇后さまが詠まれた〝災ひより立ち上がらむとする人に若きらの力希望もたらす〟という御歌。どれも、去年の暮れと今年の初めに、新聞の切り抜きマニアの笛吹から貰った新聞の記事だ。
『…このピンチを奇貨として、逆に言えばチャンスだと思うんですよね。SDGsの観点からもサステナブルな酒造りを志して、脱グローバル、内向きでいいんですよ、これからは。地に根差した生き方、宝は意外と自分の足元に眠っている。それを掘り起こしていくことが、俺たちの使命っていうか、遠くの誰かより、今はほら昔の隣組って関係が大事っていうか、お互いに持ちつ持たれつって互助の精神で近所のみんなで手を取り合って、いやもちろんソーシャルディスタンスの概念は守ったうえで、心と心っていうか……、インタビューの途中ですが午前二時半になりました。NHKラジオセンターにこれまでに入っているニュースです。
先月、在日米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが台風十七号における乱気流にのまれ、右翼のエンジンナセル並びに電子機器系統の配線に落雷、制御不能に陥り舞鶴発電所に墜落し、未だに約三万戸が停電を余儀なくされている京都府では、台風の豪雨による河川の氾濫・決壊で道路や地下鉄が冠水するなど公共交通機関やライフラインへの打撃は今も深刻を極め復旧にはなお数日掛かる見通しで、五千人を上回る人々が現在も避難所に身を寄せており、また避難所での感染リスクを恐れ、車中泊や自宅二階への垂直避難、近隣ホテルや知人宅へ身を寄せる被災者も多く、避難生活を強いられている人は実際には相当数に上るとみられ、一部避難所ではクラスターが発生して閉鎖となり、避難者を収容する施設の確保も難しく……』。
体温計がピロピロと鳴る。36,4℃、米作は削り込まれた補助軸付きの鉛筆をおもむろに執ると、角ばった字がびっしりと書かれた白無地のジャポニカ学習帳を開いて、自らの今日一日の行動、どこへ行ったか、誰と会ったかなどとともに測定した体温を書き記す。世間で喧伝されるあのPCRの正確度は良くて七割、たとえ検査をして陰性だったとしても、日々の生活を正すより他に感染をしていないことを証明する術はない。残念だが県内在住者以外は感染を避けるためにボランティアの活動が許されないのだ。この状況下では致し方ないとしても、今はひたすら自分を律して、いつの日かボランティアの募集の範囲が拡大されるのをじっと待つより他はない。
九月二十一日 今日のぼくの行動
今日も昨日と同じ特に何をしたのでもない一日だった。朝ご飯を食べて、昼ご飯を食べて、夜ご飯を食べて、くり子はパートでいないから、洗濯をしたり、トイレ掃除をしたり、買い物から帰れば異様に手を洗って、うがいをして、マスクを洗って干して、まだ残暑の暑さが残ってるってのに手はガサガサだ。ステイなんとかで、家にイソギンチャクのように張り付いていることを強いられるようになってから、自分の取り回しだけはやるようになったけれど、この自分という者を支えるのに、どれほどの家事労働を必要としているかに(くり子は家の中でも立派な労働者です、しかも無償の完全なボランティアなのであるが)愕然とした。ごく小さな家庭内でもそうなのだから、外の社会でなら一体どれほどの他人の助けの下に自分は生きているのだろうかと、命というもののその重みをつくづく感じた。
いよいよあと十日ほどでまた酒造りが始まる。最後の米を蒸し終わり仕込みを終えた甑倒しからのこの五ヶ月の間ずっと考えてきた。自分はどんな酒を飲んでみたいのか。日本酒界の趨勢は今何を望んでいるのか。ぼくの胸の中にある理想の酒は、実際に名のある酒屋さんの酒庫に置いてもらえるほどの、経済的にも価値のある一品たり得るのか。冷蔵庫もないディスカウントショップの片隅で雑貨と同じに消耗されるだけの酒に堕するのかもしれない。それにこの訳の分からないウイルスに魅入られて停滞している世の中だ。酒蔵の経営に行き詰まれば、自分はおろかくり子も義偉も、年老いた父や母も、せっかくぼくを頼って一緒に働いてくれているみんなをも路頭に迷わせることになる。あのバンクシーの壁画のトナカイに導かれるホームレスは、多分特異な存在ではなく、この同じ時代を生きる者すべてを表しているんじゃないだろうか。特別に大きな災害に遭遇しなくても、生きていれば誰もが日々何かしらの災いを被っている。心の中をもし覗けるとしたら、あまりのキズの多さに自分自身ですらびっくりするかもしれない。行き場を失って路上のベンチで眠る彼は、姿見に映ったぼくたちでもあり、人生には誰しも幾つもの陥穽が待ち受けていることを啓示してくれるのだ。だからこそ、ボランタリーに自ら欲して人に尽くせば、相手もボタンタリーに心からありがとうって言ってくれる。それは、お互いの生きてゆく糧、明日への希望に繫がっていく。最高の心の栄養にもなるんだ。どんな人の心の中にも、苦境に陥ったホームレスは存在し、そしてきっとサンタクロースもいる。人の心って、ほんとコンロでグツグツと煮える味のじんわり染みたおでんみたいに、いろんな気持ちが幾つも幾つもあってそれぞれに味があって、たとえ冷めてしまったとしてもまた心を込めて温っめればもっとうまくなったりするんだ。ぼくはまたその冷たくなってしまった被災者の心がもう一度ぬくもりを取り戻せるように助けに行きたい。行きたいんだ、なのに世間はあのアクリルの衝立でどこもかしこも遮断されて、異様に人と人との接触をまるで罪人のごとく非難されて誰もがそれぞれの殻にこもって、恐怖から、また困窮から心の中まで分断されてしまった。互いに手を取り合うことの出来ない世の中は、痛手だ。これ以上の心の痛みなどあるだろうか。オンライン・ボランティアだって。冗談じゃない、皇后さまだって仰っているじゃないか、若きらの力希望もたらすって。パソコンの画面上で何が言える?何が分かる?ただ脳が頭の中で理解しているだけじゃないか。そうじゃない、生身の力が希望をもたらすんだ。それでもやってみようかと踏ん張れるんだ。人は、そこに人がいてこそ頑張れる。ウイルスはバカだ。人間に寄生しなければ生きられない癖に、ディスタンスを強いられた人間はまともに生きられなくなることを知っているのか。人から人に乗り移ったとしても、無害でいろよ。自分が住んでいる家を破壊するなんて正気の沙汰か。一宿一飯の恩義って知らないのかよ。ぼくは、絶対におまえになんか宿は貸さない。貸してたまるか。ぼくは、ぼくの心が望むことを実行する。百映は一見にしかず、パソコンの画面なんか何回見たって伝わらないんだよ、真実は。触れ合わなきゃ、同じ空気吸って、飯粒飛ばしながらお互いに歯に衣着せぬってな感じでくっちゃべりながら飯食って、生きることに躓いたり、傷ついたり、すべてを放り出して死んでしまいたいと思うことだってあるけど、でもそこに眼の前に人がいるからこそ人間は生きられるんだ。ぼくは絶対に諦めない。withなんとかなんて糞くらえだ。人間は必ずおまえを凌駕する。跳び箱みたいにポンと飛び越えて、新たな世界に誰一人躓くことなく着地するのだ。おまえがこの世にやって来たために、渇水して剝き出しになった川床のごみのように、もともとあった世間の粗が露わとなってしまったけど、でもそれを諦めずに一つ一つ拾い上げて改善していけば、いつかは世界はおまえなんかいなかった時より、もっと人が人として真に活かされる、誰もが明日を信じて今日も生きてて良かったって、自分のことも他人のことも同じように大切に思い合えるそんな世の中にしてゆくことも出来るはずだ。ぼくはそのまだ見ぬ未知の世界を信じて、今はこの自分に出来ることを愚直に積み重ねていくしかない。
米作はグラスに注いだ冷たい牛乳をゴクリと飲み干すと、卓上にこぼれ落ちるほどに置かれた、現地に持参するであろう防塵マスクや革手袋やヘッドランプ等様々な装備を一つ一つ手に取って大型のザックに詰めてゆく。どれも今は不要なものばかりかもしれない、取り立てて急いでやることでもない。でも、要るか要らないかなんて、人の心の問題だ。牛乳だらけの青髭の米作が、床にも就かずに赤い眼をしてやっていることを笑えるだろうか。米作は、最後に被災地日記をザックのポケットに入れると、換気で少しだけ開けた台所の小窓を見つめる。次第に刻々と明けていく空に、その移り行く暁の空の色に、期せずして開かれてしまったパンドラの箱のその片隅にきっとあるだろう小さな希望を託しながら……。
ここまで付き合って読んで下さって本当にありがとうございました。もし一人でも最後まで眼を通してもらえたなら、もうそれで充分です。誰もがふつうに生きていられることが、最高の宝物なのだと気付かされた一年だったのではないでしょうか。2019年までのふつうと2021年からのふつうは大分違ってくると思います。それはご飯茶碗にまずぐるぐると搔き混ぜた納豆を入れて、そこにご飯をよそって食べるくらいの、過去の自分が首を傾げるほどの違いになるのかもしれません。変わっていくふつうと、残しておきたいふつうと、でも自分の中の大事なふつうは、人と違っても、明らかに大多数とは違っても、どんなに苦しくても守っていきたい。世間のふつうから爪弾きされて、死ぬくらい辛くてもそれでも自分のことを大切に想って、ご飯をちゃんと食べて、ちゃんと寝て、自分を最期まで責任を持って見守っていくことが生きてゆくことなのかもしれません。私も、人生の綱渡りでふつうからは転落してしまっていますが、ほんでも、ほんでもって手裏剣ばあさんみたいに強くはないけど、朝になったら昨日のご飯をチンして、誰からも評価してもらえないと分かっていながら小説への夢や希望が捨てられなくて、こうしてなんとか小説を投稿する事が出来ました。
心の中で、冬の大三角のような大きな三角を作って、ありがとうございました。