プロローグ1/2
「まーちゃん、いい……?」
「大丈夫だよ、あずさ」
私の言葉を合図に、ベッドの上であずさは私を抱きしめた。そしてしばらくの間、彼女は黙って私を抱きしめ続けた。
私は何も抵抗はせず、されるがままに彼女の心を受け入れる。
すすり泣く声は聞こえてこない。彼女が私の胸に顔をうずめているせいで、彼女の表情を伺うこともできない。それでも、今の彼女がぶつけようのない悲しみを抱いていることだけは間違いない。
こんな風に、あずさが何も言わずに私の胸に飛び込んでくるようになったのは、いったいいつからだっただろう?
……いや、そんなこと、改めて問うまでもない。それは大切なあの人が亡くなったあの日にあることは明らかだ。
2年前のあの日、私たちは大切な人を失った。彼女、羽岡あおいは、私にとっては大好きな幼馴染で、あずさにとってはかけがえのない家族で、そんな彼女はまるで、私たちを常に照らし出してくれる太陽の様な存在だったんだ。
そんな彼女がロイエの任務中に死亡したという報を受けたのは、その日の午後のことであった。空が今にも泣き出しそうなほどの厚い雲に覆われていたことだけは、私は今でも鮮明に覚えている。
あおいが死んだと分かった時、私は、世界からあらゆる色が失われていくような感覚を抱いた。そして次の瞬間には、全ての感情が消え失せ、私はまるで人形のようにその場に佇んでいることしかできなくなってしまった。
強い風が吹けばそのまま吹き飛ばされてしまうのではないかと思えるほどに、この身体は支えを失い、私は無様にも膝から崩れ落ちそうになる。それほどまでに、彼女の死は計り知れない傷を私に負わせたのだ。
それでも、私はまだ倒れるわけにはいかなかった。
なぜなら、心に傷を負ったのは私だけではなかったからだ。当然ながら、私よりも家族であるあずさの方が、心に負ったダメージは遥かに大きかったのだ。
たった一人の肉親が死んだと分かった瞬間のあずさの反応は筆舌に尽くしがたいものがあった。母親の代わりだった大切な姉を失ったのだからそれも当然だ。
彼女は喉が潰れんばかりに叫び、身体が枯れてしまうのではないかと思えるほどの大粒の涙を流した。
私自身もその時はボロボロで、今にも意識を失いそうなほどではあったが、そんなあずさを私は黙って見ていることはできなかった。
私程度に彼女の身体の震えを止めることができるとは思わない。私なんかに彼女の止めどなく溢れる哀しみを塞きとめることができるとは思わない。それでも、私は目の前の幼馴染を放っておくことなんてできなかったんだ。
そもそもなぜ、あおいは命を落としてしまったのか? その原因は、20年前に人類の前に姿を現したある生物にあった。
やつらはある日突如として地球に飛来し、何も語らず、ただ無差別に何の罪もない多くの人間を殺害した。水銀状のスライムのような身体を持つやつらは、皮膚や穴という穴から入り込み、人間を内側から食い殺した。また普段は液体状のやつらは、身体を固体化させることもできた。硬化させ、鉄パイプのようになった自身の腕で、やつらは次々と人間を原型を留めないほどぐちゃぐちゃにしていってしまったのだ。
宇宙から飛来した殺戮生物は、その後「ether<エーテル>」という名称が与えられた。人類は、エーテルに対抗するべくやつらに関するあらゆる研究を進めた。だが、やつらのあまりの強さに人類は成すすべもなく、やつらが現れてから数年で、なんと人類は1/5以下にまで減らされてしまったのだった。
このままでは、人類はエーテルに絶滅させられてしまう。生き残った多くの人間が絶望を抱いた。しかしそんな時、ついに人類は唯一エーテルに対抗することができる‘ある力’を発見したのだ。
それは、それまでほとんどの人間がオカルトと称し、忌避してきたはずの「魔術」と呼ばれる代物だった。
日の目を浴びこととなった現代に生きる魔術師たちは、敢然とエーテルに立ち向かい、初めてやつらを殺すことに成功したのだ。
その事実に人々は歓喜した。政府はすぐさま魔術師たちを招集し、エーテルを倒す為の部隊を組織した。そして、招集された彼らは自らを「Leue<ロイエ>」と名乗ったのだ。
私たちの幼馴染、羽岡あおいもそんな魔術師の内の1人だった。彼女はロイエに所属し、人類の為に日々戦いに身を投じていた。
彼女はロイエ内でも飛び抜けた魔術を誇っていた。高校生という若さながらも、実力で彼女の右に出る者はいなかったのだ。
そしていつしか、彼女は「人類の希望」と呼ばれるまでの存在になっていたのだ。
私、小鳥遊真昼は、彼女のことが大好きだった。正直に言えば、それは幼馴染としてというより、1人の女としてと言った方が正しいと思う。
戦士として人類の命運を握り、プレッシャーを感じることも多かった彼女を、私は常々なんとか支えてあげたいと思っていたのだ。
なのに……
「まー、ちゃん……」
「な、なに?」
あずさの言葉で私は我に返った。
「ありがとう。もう、大丈夫……」
あずさは大丈夫とは言いながらも、その様子はやはりあまり大丈夫ではなさそうだった。
「無理しなくていいんだよ? 顔色がまだあまり良くないし」
私がそう言うと、セミロングのサイドテールを揺らし、彼女が少し微笑んだ。
「ありがとう。まーちゃんは本当に優しいね。でも本当にもう大丈夫」
そこまで言うならこれ以上こちらからしつこく言う必要もない。私は微笑みを返答とした。
「それにしてもすごいね。まーちゃんを抱きしめるだけで、これだけ元気が出るんだから。さながら、まーちゃんは抱き枕だね」
「それを言うなら、私なんかよりあずさの方がよっぽど抱き心地良いと思うけど」
私はあずさの主に胸元にわざとらしく執拗に視線を送る。私を抱きしめている時にあずさが何を考えているかは分からないけど、少なくとも私は彼女のグラマラスな身体に興奮を覚えないようにするのに必死だったりする。
「もう、まーちゃん視線がいやらしいよぅ」
「失敬な。綺麗なものはいつまでも見ていたいものよ。そうね、例えば絵画とかで美術品の愛好家が裸婦像を嗜好するようなものね」
「そ、そういうのと一緒にされてもなぁ……まったく、まーちゃんは相変わらずだねぇ」
非難めいた言葉とは裏腹に、あずさの口調は穏やかだ。あずさはベッドから立ち上がると、少し乱れた服を直しながら私に言った。
「さて、今日はわたしが腕によりをかけて晩ご飯を作っちゃうよ。まーちゃん、食べたいものある?」
「あずさの作るものならなんでもいいよ」
「うーん、それも嬉しいけど、もう少し具体的に」
「ならもういっそのことあずさを食べたい」
「え……?」
私がそんなことを言うと、あずさは僅かに顔を赤くさせて身体を抱きかかえるような仕草をした。その様子が堪らなく可愛いかった。
彼女はいちいち言動が可愛いので、女としての魅力に圧倒的な差をつけられているようでなんだか悔しくなってしまう。いや、最初から勝負する気などないが。
「冗談だって。今更あずさをそんな目で見たりしないって」
「そ、そうだよね! ごめんごめん、ちょっと勝手に変な想像しちゃって……」
あははと笑うあずさ。でもやっぱり顔の赤みは取れていないように思えた。
私の要らぬ言動のせいで妙な空気になりかけたが、私は別にあずさによからぬ下心を抱いているわけじゃない。彼女は大切な幼馴染だ。彼女に嫌われるようなことをするつもりは毛頭なかった。
結局私は自分の好物であるクリームコロッケを注文した。私からの注文を受けたあずさは意気揚々と寝室から出て、下の階のキッチンへと向かっていった。ちなみにこの家には今私とあずさしかいない。母親は私を養う為に夜遅くまで働いていてまだ当分残業は終わらないはずだ。
普段私は母親の分までご飯を作るのだが、今日みたいにあずさが来る時は、あずさが私と母親の分までご飯を作ってくれるので非常に助かっている。
私は一度大きく伸びをすると、ベッドから立ち上がった。
寝室は暖房をつけていなかったこともあり、身震いするほど冷え切ってしまっていた。
「さむ……」
私は冷たくなり始めた手に息を吹きかけた。