うつくしいということ
フィクションです。
うつくしいということ
ぼくは母のことを世界で一番愛している。
だれよりも愛している。
ぼくの母はとても美しい人だ。
この世のものとは思えないほどに整った顔。
だれもが綺麗だと褒め称える。
みんながみんな、ぼくの母に見惚れて褒め称えて、あの男を羨ましがる。
あの男──父と言う名の莫迦な男──だ。
「ねぇ、お母様、お母様のそばにはぼくがいるからね」
そして、いつかこんなところから連れ出してみせるね。
言葉にできないぼくの言葉を母は聞き取ってくれているのだろうか。
母の微笑みはとても美しい。天のすべての祝福を濃縮させたように幸福を感じさせる。
母はお姫様のような生活をさせられている。生まれたときから。
生まれたときから母は美しかった。赤子が美しいなんて信じられないだろうけれども、親の欲目を抜きにしてもそこらの有象無象の赤子よりも抜きん出て愛らしい赤子だったそうだ。
母の親は商家でお金はそこそこあった。母のために豪華な屋敷を建てて、母のために使用人を雇い、母のために豪華な物で溢れさせ、母のために皆が動いた。
母は蝶よ花よと育てられた。文字通り、お箸よりも重いものは持たせてもらえず、高級でセンスの良いドレスを着せられ、足元は母を一番美しく魅せるピンヒールを履かされた。
いつも人に囲まれて、お世話されて、母は自分の足で走ったこともない。
幼少期から今までずっとそういう生活を送らせられて、しかも健康には気を遣われて専属の医師までついているために風邪ひとつさせてもらえない。
母は薄らぼんやりと微笑んでいるだけで日々が過ぎる。
忌々しくも父と言う名の男は幸運にも母と結婚できたのは、この町で一番偉かったからだ。一番の金持ちで一番の権力を持ちそこそこのルックスの父は薔薇の形をした繊細な宝石のような母を愚かにも妻にした。
そして母をそれまで以上に真綿で囲った。
もっともっと高価で素晴らしいドレスとヒールを着せ、母の目につく物、母が使う物、すべてを一級品で揃え、使用人の質も上級にした。王族でさえこんな生活をしていないのではないかと思うくらいに母は生活すべてを管理され傅かれ世話をされた。
すべては母の美貌を保つために。
母は美しい。この世の何よりも美しい。その美しさは何者をも侵すことができないと思わせるほどに美しい。
美しい母を美しいままでいさせるためにあの男は母を徹底的に管理した。
母はあの男との間にふたりの子を成した。
ぼくとぼくの姉だ。
姉はあの男と同じように母を崇拝している。
あの男と同じように母を美しいままでいさせるためになんでもする奴隷だ。
外から見れば、王族よりも優雅で裕福な生活を送っているように見える母だが、ぼくだけは知っている。
母はこの生活を惰性で続けているだけなのだと。
母はときどき周囲になにも言わずになにかをしようとする。たとえば、お茶を入れたり、お料理をしたり、お掃除をしたり、お洗濯をしたり、ひとりで散歩をしたり、など。それはいつもすぐに人に見つかり、やめさせられてしまう。そのときの母の表情は哀しげだ。
なにかをしたいと思っている母。
なにもさせたくない父と姉とぼく以外の人。
母はなにもさせてもらえない。
ただそこにあるだけ。
そこに存在しているだけが唯一ゆるされていることだ。
背筋を伸ばして美しい姿のまま椅子に座っているだけ。
それともう一つ、自身の子どもと触れ合うこと。
ぼくはそれを利用して母にひと時の自由を魅せる。
母に甘えるフリをして母になにかさせてあげる。
母から上手くピンヒールを奪い、素足で庭をふたりで駆け回ったり、わがままを言ってお茶を汲みあったり、お料理をし合って食べさせあったり、わざと散らかして母とお掃除をしたり、泥まみれで母に抱きつき汚した服をお洗濯したり、など。色々色々やってみた。
ぼくがなにかをわざとやらかすと、母は困ったように微笑みながらとても嬉しそうにする。
これはぼくと母の秘密事だ。
使用人はいい顔をしないし、もしも姉か父に知られたらぼくは母に会わせてもらえない。
ぼくが大きくなったらいつか連れ出してあげるよ、ぼくの愛する美しいお母様。
母の美しさは少しくらいなにかしたって壊れる物でもなんでもないことを、ぼく以外は理解しようとしない。
母がしたいように家事をしてもいいと思うし、もしかしたら母は外に出て働いたり旅に出たいのかもしれない。着飾りたくないのかもしれない。使用人に監視されない場所で自堕落に過ごしたいのかもしれない。一点の曇りもないガラスの高級品よりも捨て値で売られる壊れやすく壊してもいい安物のほうが好きなのかもしれない。
母はどんなことをしたって美しいだろうし、美しさはそんなことでは失われないし、美しさを保つ意味はない。
それなのになにもさせてもらえないのはとても哀しくてつらくてもどかしくてたのしくなくてつまらないものなのではないだろうか。
ぼくの母は美しい。美しいけれども、美しい母は必要ではない。美しくなくたっていい。母が母なりに楽しく生きてくれるのがぼくにとっての一番だ。
残念ながら、そう考えるのはぼくだけのようだ。
父は世界一美しい母を手にしている事実に自尊心を満たしている。
姉は美しい母が好きでその美しさを際立たせることにしか関心がない。
母を一目見たことのある町の人は、母のことを町の宝物だと誇る。
母はしゃべらない。しゃべれない。しゃべることをゆるされていない。
母の親は、母の声がそこまで美しくない平凡なものだと知ると母が人前で話すことを控えるように言った。
父は母の外見さえあれば良いと考えて、声を出すことを禁じた。
母はほとんど無知のままに育てあげられた。母がなにかをしなくてはならないときは周囲の人間がすべて代替で行えば良い。
しかし文字は知っているので母はよく本を読む。ただし父や使用人が用意した母に似合う本に限られていたが。
不必要な情報は母には伝えられない。
しかし母は聡明だ。美しさだけではなく頭脳まで天はお与えになった。
母は母の日常が異常なことを知っている。どこで知ったのかはわからないが、よく理解しているようだ。
外の世界が厳しいところでも、お屋敷の中よりは窮屈でないことを、母は知っている。
母の中身を知っているのはぼくだけだ。母の感情があるのを知っているのはぼくだけだ。
ずっと母のお世話をしているにもかかわらず母の気持ちを知ろうともしない使用人より、ぼくは確実に知っている。
母は本当にこの町のお姫様だ。
檻の中のお姫様。
人形よりも人形らしいお人形。
さえずることのできない籠の中の鳥。
ぼくが連れ出してあげるよ、自由の空の下に。
いつか、きっと。
「ねえ、お母様」
その美しい微笑みは天より贈られた祝福だ。
おわり。