慈悲とは
「……」
よく研がれた短剣-ダガーを2、3本常に持ち歩く銀髪、紫色の瞳で色白な肌をした人形のように可憐な少女、ルナは困惑していた。先程出会った老爺、嘘は吐いていない。つまり本当に【何も殺さずに居られたら帰れる】ということなのか。
-だがそれは厳しい。厳しすぎる。ルナには鬼畜とも言える難易度だ。
ただ去り際に言った老爺の言葉が、不思議と頭から離れない。
「慈悲の心を持ちなさい、異世界から来たお嬢さん」
-慈悲?
聞いたこともなかった。
生まれてから、記憶に残っている初めて見た景色は殺風景な打ちっぱなしの壁にいる青髪の少年が自分に今自分が持っているダガーをくれたときだ。幼少期から刃物、出血、殺人と言ったものを見てきたルナにはそれが普通で、暗殺者を育てる大きな施設が家だった。命を奪う『暗殺者』には慈悲なんてない。慈悲なんていらない。そんなものがあれば殺すのを躊躇ってしまうから。
「…誰も何も殺さずに居ろ、つまり…『殺すな』」
やはりきつい。鬼畜。鬼。悪魔。平和そうに見える世界を、恨めしく思う。
そんな思いでしばらく歩き続けると木々が減りやがて美しい街並みが姿を現した。
「ただいまトマトが14ゴールド!あと2分で元の価格に戻すよー!!」
「今朝採れたての森キノコですー!!」
「3年熟成したハムが今なら半額だよー!」
市場なのだろう。街並みからは人が大声で品物の名称と、その価格を言って客に買ってもらえるようにしている。ルナには、それがとても珍しく見えた。-物珍しい様子で見続けてはいけない。
「あの」
「ん?どうしたんだい?」
適当に近くにいた野菜売りの女の人に声をかけた。
「…慈悲って、何…ですか?」
「え?」
いきなりそんなことを聞かれると思っていなかったのか、そう聞かれた女の人は少し戸惑ったようにそう言った。
「…そうねぇ、簡単に言うと思いやり、ね!」
「思い、やり……」
-わからない。
初めて聞いた言葉だ。恐らく、人を殺すことではない。
「………」
「まぁ、お嬢さんもそのうちわかるわ!さっきね、クラウさんがあなたのことを話してくれたの」
クラウ-あの老爺の名前だろう。
勝手に自分のことを話されるなんて『暗殺者』にとって失職同然、名前、顔を知られたらおしまいだ。だが-ここは違う。私という『暗殺者』をただの異世界転移者として見てくれている。そう思うと、どこか気が楽になった。
「…その人って、どこに住んでますか?」
慣れない敬語を、歳上の『暗殺者』が使っていた記憶を頼りに使う。多少イントネーションが変だろうが意味が伝われば関係ない。
「クラウさんならあの丘の方に住んでるよ」
女の人は遥か遠くに小さく見える丘の方を指さした。ここからの距離は約6kmと言ったところだろうか。だが問題ない。その程度の距離なら半日あれば十分走破できる。ルナは野菜売の女の人に礼を言うとすぐさまその丘の方向へ駆け出した。
「…」
慈悲、思いやり、慈悲。慈悲なんて、今まで知らなかった。思いやりなんて言葉は、聞いたことすらなかった。慈悲、思いやり、慈悲。慈悲、思いやり、慈悲。そんな言葉のエンドレスリピートが脳内で再生される。気持ち悪くなり、走りながら首を横にブンブンと振った。
クラウの家まで残りあと4.3km。日没までには-余裕で間に合う。
ルナはまだ高いところにいる太陽を見てそう確信すると更に速度を上げた。
「………」
残り3.1km。日時計より約14時半。日没までは恐らくあと4時間ほどだろう。無尽蔵の体力は持っていて損をしたことがない。自分のそんな体力を少し誇りに思いながら、走り続けた。
「…ついた」
日没まで多分残り3時間とちょっと。ルナは息切れひとつせず丘の上の小さな家の前に立っていた。
-さて、ここからが問題だ。
他人の家に入るのは、どうすればいいのだろうか。扉を破壊すれば-あんな老爺は下手をすれば死ぬだろうか。ルナはできる限り力を弱くして、その扉を叩いた。
ゴンッ、ゴンッ。
案外重たい音が響いた。
「はいはい、誰かな…」
「…」
「おぉ、お嬢さんじゃないか、今度はどうしたんだい?」
老爺-クラウはルナの姿を見るとすぐに笑顔になった。何故ルナを見て笑顔になるのか訳がわからない。
「ルナ………元の世界に帰りたい。でも、慈悲…思いやりが、わからない。クラウ…教えて」
「ルナというのか、いいぞ、こんな爺の所まで来てくれてありがとうなルナちゃん。慈悲っていうのはなぁ、思いやりのことでなぁ、思いやりは簡単に言うと人に優しくすることだ」
-優しく。
優しいという言葉は知っていた。
「そうすれば、いいの?」
「ああ、誰にでも優しく、そしてその心を持ちなさい」
クラウは暖かい笑顔で、ルナにそう言った。
「うん、ありがとうクラウ。それじゃあ…」
ルナがそう言い踵を返すと「待て」とクラウがルナを呼び止めた。
「何…ルナの用はもう済んだよ……?」
「いや、ルナちゃん…帰る場所は?宿は取れたのかえ?」
「…宿なんて、ルナにはそんなの必要ない」
それだけ言うとルナは今度こそ突風とともにその姿を消した。
「…不思議な子じゃのう、異世界にはあれが普通なのじゃろうか………」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…………」
ここまで来ればクラウは追いつけない。ルナはそう確信して、ようやく歩いた。いくら無尽蔵の体力を持っていたとしても筋力がそれに追いついていなければ流石に疲れる。日没寸前で既に街並みが見えた。自分でも驚くぐらい早く戻ってきた。さて、ここからどうしようか-