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苦くて甘くてちょうどいい

 誰もいない席を、僕は見つめた。目の前に置かれたココアはとっくに冷めてしまっていて、最後の一滴を飲むと、底にココアの粉が残っていたのか苦くて顔を歪めてしまった。

 腕時計にちらりと目をやると、針は丁度17時を指そうとしていた。まだ家には帰れない。僕は聞いた話を覚えているうちに書き出そうと、鞄からメモ帳と鉛筆を取り出した。僕が知っている話とは随分と違っていて混乱したが、書き出していくと点と点が結び合って線になっていくのが分かった。僕は母の話しか聞いたことがなかった。父から母の話を聞いたのはいつだったか、今となっては思い出すことも出来ない。僕は一体父の何を見てきたのだろうか。

 「お疲れ様です。ココア、一杯サービスいたしますよ」

 父がアルバイトだと言ったこの人は、ここのマスタ―だ。最近の父は仲が良かった人のことも思い出すことができない。だから僕のことも……

 「そろそろ帰るので結構です。毎回長時間居座ってしまって申し訳ないです」

 僕が謝ると、マスターは優しい笑顔を僕に向け、何も言わずに店の奥へと消えていった。僕は本当のアルバイトである青年を呼び、会計をして店をでた。

 今の時刻は18時前。僕の妻が晩御飯を作っているところだろう。喫茶店から僕の家は10分ある。僕はその道のりを噛み締めるように歩きながら、母の温もりを思い出していた。10分の道を寄り道したり少し立ち止まったりしながら20分かけて歩き、家の前にたどり着いた。扉を開けると、妻の美恵よしえが小走りでやってきた。

 「おかえりなさい。お義父さん、帰ってきたよ。私のこと、まだ若いころのお義母さんだと思ってるみたいだけど……」

 「悪いな。この時期になると毎年物忘れっていうか現実逃避というか……それが酷くなるからさ。寒くなったら、また思い出すと思うんだけど」

 僕の母は、14年前の秋に亡くなった。金木犀の香りが強くなってきた頃だった。数年前から、父は秋から冬にかけて母が死んだことを、瞬間的に忘れてしまう。

 「私ね、耐えられないのよ……お義父さん、忘れている方が元気なの。思い出したら、心が空っぽみたいになっちゃって、とても辛そうなのよ」

 「だから同居は止そうと言ったんだ。僕の仕事はどこでも出来るから僕だけがここに住むって」

 「同居が嫌なわけじゃないの。ただ、差が激しくって……健太郎は慣れたって言ってたけど」

 妻は今すぐにでも泣きそうだった。今年で14になった健太郎は部活で忙しくしているから、父とあまり長くは過ごさない。まるで昔の僕を見ている様だと思い、少し頬が緩んだ。妻は「なに笑ってるのよ」と小言を言いながらリビングに入って料理を作り始めた。僕はソファーに座り、喫茶店で書いたメモ帳を広げる。

 「お義父さんから話は聞けたの?」

 「まあな。じゃないと脚本書けないし」

 「二人の話を書くって本気だったのね。完成しそう?」

 「どうだろう。無理になるかも」

 妻は「えー」と言いながら野菜をリズムよく刻む。トントントン、トントントン……それは母のリズムとよく似ていた。座っているソファーの窓から金木犀の木が風に吹かれて揺れているのが見える。母と父が好きだった木。入退院を繰り返した母が、最初に家に帰って来たときに植えたものだ。

 「これが育つまで死ねないわね」「早く孫の顔が見たいわ」これが母の口癖だった。

 しかし、母の夢は叶わぬまま。その次の年に、健太郎が生まれ、あのキツイ香りを撒き散らしながら金木犀は初めて花を咲かせた。その年の父さんは、健太郎の顔見て涙を流しながら微笑み、咲いた金木犀に「よく来たな」と優しい声で話しかけていた。それなのに、何故数年前から母さんを忘れてしまったのか。僕は、母さんが亡くなった事が根本的な原因ではない気がするのだ。

 「そういえば」

 妻が何かを思い出し、手をエプロンの端で拭きながら僕の隣にやってきた。料理はほとんど出来上がったみたいだ。

 「今日はね、お義父さんが久しぶりに家を空けでしょ。だから部屋の掃除をしたの。そうしたらね、お義父さんのベッドの下に未開封の手紙があったのよ」

 妻はエプロンのポケットから手紙を取り出し、僕に渡した。確かに未開封で糊でしっかりと封がしてある。鋏をとって中を見ようとすると、妻が「待って!」と声を荒げた。

 「何読もうとしてるのよ。これはお義父さんのなんだから読んじゃ駄目よ」

 「でも大切な手紙かもしれないし……」

 「分かってないわね、大切なものって分かっているから読んじゃ駄目なの。それに……」

 妻は僕から手紙を奪い、手紙を吸い込むように大きく鼻で息を吸った。

 「ほら、微かに金木犀の匂いがする。これはお義母さんからの手紙よ。手紙交換してたんでしょ?」

 僕も手紙を匂ってみる。確かに金木犀の香りがした。手紙を少し振ってみるとカサカサと音と共に、もう一つ金属音がした。花弁の他に何か入っているようだ。

 「本当だ。これは母さんからの手紙かもしれないな。それに他にも……」

 「貴方も気が付いた?そうなの、この手紙何か色々入っているのよ」

 僕たちは不思議そうに手紙を眺める。父さんにこの手紙を渡すとどういう反応をするのだろうか。喜んでくれるだろうか、それとも、また悲しい顔になるのだろうか。僕はもう一度手紙を匂った。

 「二人とも、さっきから紙なんて匂ってどうしたの?」

 振り向くと健太郎が怪訝な顔で立っていた。

 「あら帰ってたの。もうご飯にするから手を洗ってらっしゃい」

 健太郎は「へーい」と間抜けな声をだしながらお弁当箱を妻に渡した。妻は台所へ、健太郎は洗った手を服で拭きながら僕の隣にやって来て、おもむろに手紙を手に取った。

 「ばあちゃんのじゃん。どこにあったの?」

 驚いた。健太郎はあの二人が手紙交換をしてたなんて知らないはずなのに。

 「何で知ってるんだ……」

 健太郎はキョトンとした顔で、「じいちゃんが言ってた」と言った。

 「お前、父さんと話すことなんてあったのか」

 「当たり前じゃん。じいちゃんの記憶が曖昧な時はよく話し相手になってるよ。二人の昔ばなし面白いんだー」

 「手紙のこと、どこまで知ってるんだ?」

 「えーと、これがばあちゃんから貰った最後の手紙だってことと、じいちゃんがこれを探してたってことだけ。においのする手紙がないーないーって言いながら」

 「封がされてある理由は聞いたのか」

 「うん、最後のだから読みたくないんだってー。読まなかったら、ばあちゃんはずっとじいちゃんの中で生き続けるんだってさ―じいちゃんさ、ばあちゃんのこと大好きだったんだね。会いたかったなー」

 笑いながら話す健太郎の話を、妻は台所で洗い物をしながら聞いていて、僕は健太郎の顔をみることができなかった。なんだ……こいつは全く僕みたいじゃない。僕より、断然大人だ。

 「あとね、もう一つ探し物があるって言ってた。お父さんたち、宝箱知らない?凄い豪華な飾りがついてるやつ。その中に他の手紙も入ってるそうなんだけどさ、ばあちゃんが隠しちゃったんだって。それを見つけないとって言ってた」

 僕は喫茶店での話を思い出した。最後に鍵を失くしたといっていたが、本当は宝箱全体のことを言っていたのだと、気が付いた。しかし、何故鍵を失くしたといっていたのだろうか。考え込んでいると、健太郎が窓の外を指さした。

 「僕はね、あの木の下に埋まっているんだと思うんだ。手紙に入っているのはじいちゃんの鍵。これはばあちゃんが隠し持っていたんだと思う。そして、ばあちゃんの鍵は宝箱の中」

 健太郎は僕の顔をジッと見つめた。「何が言いたいの分かるよね?」という顔だ。

 「宝箱を開けるには手紙を開けなくちゃいけないってことか……」

 「そういうこと。じいちゃんは何も知らないから教えてあげなくちゃ。お父さん、手伝ってくれる?」

 悩んだ。

 父さんの記憶を刺激するのはどう転ぶか全く分からない。それはとてもリスクが高いことだ。しかし、このまま何も出来ずにいるのは、なんだかとても……

 「分かった。明日、金木犀の下を掘ってみよう。何も出てこないかも知れないが、やるだけやってみよう」

 僕は大きく頷き、健太郎の頭をクシャクシャと撫でた。

 「ありがとうな、健太郎。お前のお陰でようやく僕らは前に進める」

 奇しくも、明日は母さんの15周忌だ。この日の父さんはいつも塞ぎ込んでいた。ようやく、父さんにかけられた呪いを解く日がやってきたのかもしれない。僕は明日の期待を込めて、もう一度手紙の金木犀の香りをお腹一杯に吸い込んだ。「僕も嗅ぐ」と健太郎も匂い、「じいちゃんの匂いがする」と優しく笑った。

これにて完結です。

秋に書き始めたのに、もうすっかり梅雨の時期になってしまいました。

しかし、終わらすことができてよかったと、心底ホッとしております。

一応「完結」ですが、この家族の話には少し続きというか「まとめ」があります。

書く力が残っていたら書きたいです。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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