秋は悲しい
ハンカチをありがとう。ようやく涙が止まったよ。君も目が赤くなっているね、男が泣くなんて情けない気もするが仕方のない事だ。君も結婚しているなら分かるだろう。家に帰っても愛しい人がいない寂しさが……
病院から電話がかかって来たのは、暑い夏の日だった。上司から「早く行ってあげなさい」と言われたんだが、仕事を投げ出すことが私には出来なかった。春生の事も心配していたんだが、妻が懸命に育ててくれたお陰で妻に似たしっかりした子供になっていたから、大丈夫だと思っていたんだ。それに、一年に一回の大きな休みがとれる日は家族3人で旅行にだって出掛けた。私なりの家族サービスだったのだよ。それでも、春生と面と向かって話したことは、妻が倒れるまでなかったんじゃないかな。だから春生にとって私は「家にいる怖いおじさん」ぐらいの感覚だったと思う。全て私が招いたことだ。仕方ないって思えるよ、春生は一つも悪くない。
家に帰ると、隣に住んでいる香住さんと春生がいた。香住さんに「迷惑をかけました」と言って帰ってもらおうと思ったが、怒った顔で「ここに座ってください」ってテーブルの椅子を引かれた。そこから一時間ぐらいだったかな、香住さんから説教を受けたんだ。「幸子さんが倒れたのは貴方のせいだ」「彼女が度々病院に通っていることを知っていたか」「春生くんが私の家に駆けこんできて教えてくれた」「なんですぐに病院に来なかった」「春生くんは泣いていた」他にも色々言われてたと思うが忘れてしまった。彼女が何故こんなにも怒っているのか、私は理解が出来なかった。病院に駆けつけても、私は何もしてやれない。妻はきっと私に向かって「ごめんなさい」を繰り返すはずだ。そんなの言わせたくないだろう。そう香住さんに言おうと思ったが言えなかった。ふと思い出して「病院通いだったんですか」と聞いたら「やっぱり何も知らないんですね」って睨まれたよ。あの時春生が「昔の事だよ、おばさん今日はありがとう。もう帰って」って言わなかったら胸ぐらを掴むところだった。香住さんは我に返ったのか「明日は必ず病院に行ってください。口を出して申し訳ありません」と言い、頭を下げて出て行った。
春生が一息つくと、私のお腹がなった。急いで帰路に着いたから晩御飯がまだだったんだ。「何か食ったのか」春生に聞くと「おばさんがカレー持ってきた」と台所を指差した。見たことのない鍋がコンロに乗っていて、温めて食べると少し辛くて、妻のカレーと全く違った。私が食べているのを見て春生が「お母さんのカレーのが美味しいよね。僕、もう寝るね」と早口で言い、そそくさと自分の部屋に行ってしまった。私と春生しかいない家は初めてだった。照れくさいなと思っていたが、春生もそうだったのかも知れないね。
次の日、香住さんに言われた通り、仕事を早めに終えて病院へ向かった。主治医と少し話をして、妻の病室に通されると、妻は静かに外を眺めていた。後姿を見たとき、こんなに小さかったものかと驚いたよ。私の目線に気付いた妻がこちら見ると、弾けた笑顔を見せて、久しぶりに「文彦さん」と呼んだ。春生が生まれてからは「お父さん」と呼ばれていたから、昔に戻ったみたいでむず痒かった。「昨日は駆けつけてやれなくて、すまん」と謝ると、小さく笑うだけで、何も話さなかった。怒っているんじゃなくて、全てを分かっているからこその沈黙だった。それから妻は春生の事、隣の家の香住さんについて、そして長年体調が優れなかった事をポツリポツリ話し始めた。春生は脚本家になりたいから、よく本を読んでいる。最近では一人で舞台を観に行ったり、小説を投稿したりしているそうだ。香住さんは結婚しておらず、優雅に一人暮らしを満喫している。しかし美人だから言い寄って来る男性が多くて困っている……そんな些細な話を沢山聞いた。それから通院していたことを黙っていたのを謝られた。仕事を黙々とこなす私に余計な心配をかけたくなかったそうだ。「これからは私に心配をさせてくれ。君の我儘を沢山聞きたい」と言ったら、妻は目をパチクリと開けて、蕾が咲くように笑って言った。「それなら、貴方が私の名前を呼ぶのを聞きたいです」って言われたんだ。最初は恥ずかしかったが、二人でいる時は勇気を出して名前で呼んだ。え?今君に向かって呼んでみろ?いやいや、あれは彼女の我儘だ。君には通用しないよ。
初日はその約束だけをして、帰る事にした。彼女が少し辛そうだったからね。家に帰ると18時前だったが、春生は家に帰っていなかった。友達と遊んでいるのかと思って、その時は深く考えていなかった。しかし、20時を過ぎても帰ってこない。探しに行こうと思ったが、入れ違いになるのも困る。黙って家で待っている時間は1秒すらも長く感じた。結局春生が帰って来たのは21時だった。まだ中学生なのに遅い時間まで家に帰ってこない、一体何をしていたんだ。理由があるなら詳しく話してみろ。そう言って春生に詰め寄ろうと思ったが何も言えなかった。黙って昨日のカレーを温めて、自分と春生の分を机に出すと、春生は机の前で立ったまま座ろうしなかった。「食べてきたのか?それなら風呂に入れ」そう言うと、春生は泣いているのか怒っているのか分からない顔で、私のことを見ていた。「僕はお父さんをお父さんとして見れない。だから帰るのが怖かったんだ。怒ってるなら怒鳴れば良いのに……」言い終わらないうちに春生は風呂場へと向かった。昨日の春生の早口は照れていたのではなく、私と二人きりの空間が怖かったからなのか。それを知って、私は困り果てた。こんな時、妻ならどうするのかというのも考えたが、私が妻と同じことを出来るはずもない。何も出来ず、無力な私は春生の分のカレーも平らげて、春生が晩御飯を食べていないと困るから、おにぎりを作ってやった。
朝起きると、日曜なのに春生はもう家にいなかった。ふと机を見ると、昨日のおにぎりが綺麗に無くなっていた。春生が食べてくれたんだろうか。嬉しくなって、その日は会社が休みだったから、私は病院へと向かった。
妻の病室に着くと、春生が妻と話していた。私は隠れてその様子を伺った。話の内容はよく聞けなかったが、昨日の事を話しているようだった。数分後、春生は妻の病室から出て行った。隠れているつもりだった私は、妻にまんまと見つけられ、「昨日の話、聞きましたよ」といたずらっ子ぽく笑っていた。
妻は、春生は甘えん坊の寂しがり屋で、その上、口下手の消極的なのだと教えてくれた。上手い事私たちの駄目であり、良い所を受け継いでいるのだと思うと面白かった。「貴方が作ったおにぎり、美味しかったって言っていたわ。私も食べてみたいな」と甘えるように言い、「もう一つ我儘良いかしら」と付け加えた。私は妻の我儘をすべて受け入れるつもりでいたから「何でも来い」というと、嬉しそうに笑って、「私とお手紙交換をしませんか?」と提案された。どうも香住さんが、言い寄って来ていた男性と良い感じになったそうだが、その理由の一つが手紙でのやり取りだったそうだ。私は少し躊躇した。私は恥ずかしながら、壊滅的に字が下手なのだよ。困っている私に「字を書くのが好きじゃないのは知っています。でも私、貴方が来る時間はよく寝ているから。手紙だと好きなだけ話せますでしょ」と言われてね。こうなると私は断ることが出来ない。
次の日、会社帰りに病室に行くと、昨日言っていた通りに妻は眠っていて、微かに甘い香りがした。その甘い香りはショートケーキのような甘さではなく、香りがした後に私と一体化するような甘さだった。ベッドの横にある机には、妻からの手紙と白紙の便箋と封筒、そして金木犀の花弁が置いてあって、
「それにお返事書いてくださいね。追伸 金木犀が病室の外に咲いているそうです。文彦さんにもお裾分け……」
というメッセージも書かれてあった。私は少しの間妻の顔を見て、それから家に帰った。内容を教えろだって?だから、妻と私の秘密だと言っているだろう。しつこい奴だ。でも少しだけ教えてやろう。私と春生はどちらも口下手で何も言わないから冷戦状態が続いていた。妻の手紙に「文彦さんが料理を作ってみるのはどうでしょう。胃袋を掴むのです」という茶目っ気ある文が書かれてあってね、私は言われた通りにしたよ。その日は初めて焼きそばを作った。春生は帰ってくるなり私の焼きそばを見て笑ってね。「食べてきたけど、その焼きそば気になる」って言って食べて、「焦げてるよ」なんて言ってもっと笑った。それから二人でご飯を作るようになったんだ。妻は春生に料理も教えていたみたいで、春生の包丁さばきはプロみたいに上手かったよ。
私は毎日会社帰りに手紙を持って妻の病室に向かった。妻は寝ている時が多かったが、手紙で会話するのは新鮮で楽しかった。その手紙のやり取りは妻が退院してからも続いたんだ。その手紙を入れる鍵付きの入れ物を二つ買ったんだが、鍵を無くしてしまってね。読み返したくても読めないんだよ。妻の分の鍵はあるのかねぇ……家に帰って聞かないといけないから、これにて失礼するよ。
長々と老人の話を聞いてくれて有難う。それでは、また……