むかしばなし
ああ、そのホットコーヒーは私が頼んだんだ。バイト君よ、ここのコーヒーは変わらないね。マスターに今日も美味しかったと伝えといておくれ。君は何を頼んだんだい?へえ、ココア?上に乗っているのはクリームかな。君も甘いものが好きなんだね。
さあどこまで話したかな……「出会って結婚するまで?」なんだ、まだ序盤じゃないか。そう、私たちは見合いをした一か月後には一緒に暮らしていた。見慣れない家に名前しか知らない妻。そこだけ切り取ると奇妙に感じないかい?
新しい家に越して来た日、妻はもうその家に住んでいた。私が持ってきた家具を一緒に運んだり、食事用の机がなかったから小さい私の机と妻の机で、即席のちゃぶ台を作ったりしたんだ。そこで初めて妻の料理を食べた。懐かしい味がしてね。私は薄味が好みだったから、おもわず「うまい」と口に出してしまった。すると「薄味が好みだと聞きましたので」って……私は彼女のことを何も知らなかったというのに、彼女は知ってくれていた。それが妙に嬉しかった。そのまま食事を続けていると、突然彼女から「文彦さんとお呼びしてもいいでしょうか」って聞かれてね。私は頷くことしかしなかったのに、満面の笑みを浮かべて「ありがとうございます。私の事は何とでも呼んでください」と言われたのに、結局恥ずかしくて名前を呼んだのは数えるぐらいしかなかった。本当に、私と妻の性格は正反対だったんじゃないかな……
そうそう、私は仕事をしていたから家に帰るのがいつも遅かったんだ。それなのに18の娘は寝ずに私の帰りを待っていた。それがとても愛おしく感じてね。出会ってから1年ぐらい経ったときだったかな、妻の事を愛していると気づいてきたのは。それなのに「愛している」の一言が中々言えなくてね。妻は感情を言葉で伝えるのが上手かったのだが、それ以上に私の感情を読み取ってくれる能力もあって、私は年の離れた彼女に随分と甘えていたのだと思うよ。だからかな、私は妻にはずっと好きな人がいるのだと思っていたんだ。その愛情を私に注いでいるのだと。そうだとしたら、相手側も、もちろん彼女も、とても辛いことだとは思わないかい?好きな人がいるのにその人と離れなくてはいけない悲しさ、虚しさ、寂しさは私もよく分かっているつもりだったからね。だから料理をつくっている時に聞いてみたのだよ。ほら、妻は後ろを向いているからどんな顔をしているか分からないから聞きやすいだろう。「君は誰かに恋をした事があるのか」と聞くと、料理の手を止めないまま「ありません」って即答されてしまった。まさかと思ったけどそれ以上何も言えなかった。そのまま飯の時間になっていつものように食べていたら、妻から「私は恋をした事がありません。だから貴方を愛そうと思います。いつ愛せるかは分かりませんが努力は致します」って言われて心底驚いたね。勿論、当たり前の事だよ。私は家に金を落す事しかできない。それで私は彼女の心を満たせてあげられていると思い込んでいたんだ。勘違いも甚だしい。私が落ち込んでいると妻は気づいたんだろう、「文彦さんは無口ですが愛を感じます。貴方と結婚できて良かった」って太陽のように笑うんだ。本当によくできた子だよ。私には勿体ない。それから、妻と話すことも増えてね。近所を散歩したり、一緒に料理を作ったこともあった。私達はどちらも舞台を見ることが好きでね、よく行ったものだ……彼女となら、何をするにも楽しかった。
それから2年後、私達には子供が生まれた。さっき言っていた息子の誕生だ。それはそれは嬉しくてね。彼が生まれたとき、初めて妻と一緒に泣いたんだ。春の暖かい空気の中、生まれてきた男の子。名前は妻が考えてくれて春生にしたんだよ。おいおい、何泣いているんだ。大丈夫か?
私には守るものが増えた。だから前以上に仕事に没頭した。今の世の中みたいに子育ては男性もする、みたいな世ではなかったから。私は前より帰る時間が遅くなった。家に帰っても子供の面倒は見てやれなかった。それでも妻は弱音一つ吐かずに春生を育ててくれた。それなのに私は家族の為に働いていたのが、どんどん自分の為になっていたんだ。だから神様から罰が下ったんだろう。妻が35歳の時、病で倒れてしまったんだよ。
私の涙腺もだいぶ弱ってきたね。話を少し中断してもいいかな……