プロローグ
葉巻をくゆらせる前に本体を軽くあぶる輩もいる。
第二次世界大戦前の葉巻はゴムでコーティングされていて、炙ってゴムを溶かさないと味が損なわれていたが、今はゴムが使われていないからその必要はない。
必要がないことを知っているが、初心者に向けてさりげないパフォーマンスのためにあぶる者も一部いる。ただ二コチンを摂取するための道具としてその存在が許されているタバコとは違い、燻らせるという行為に大きな嗜好性がある葉巻という性質上、まぁ、それも一つの楽しみと捉えられなくもない。
ギロチンカッターで吸い口をサクッと切り落とす。祖父の影響で吸い始めた葉巻だが、あのころは葉巻の風味に圧倒されて、なるたけ切り口を大きくして風味をなめらかにしないと吸えたものではなかったが、慣れてくると奥ゆかしさに気づき始めたのか、それとも吸いすぎて舌の感度が鈍っただけなのか、大分キツい味の魅力が分かってきた。先端にかすかに丸みが残るくらいに少しだけ切り落として、マッチで丁寧に火を点火する。
せまい切り口からダムが放水を開始したようになだれ込んでくる煙のサージを舌で受け止め、そのキューッとした風味が舌伝いに脳髄にあまねく染みわたる得もいわれぬ感覚が、スマートブレイン社の歯車の頂点として君臨するヨーグン・ラスムセンの一日の仕事の終わりを伝える晩鐘となっている。
その肥沃な赤土から生まれたキューバ産の芳醇な煙をしばらく口の中で転がして、ゆっくりと回転椅子を回し、終始うしろに控えていたスマートブレイン社の高層ビルディング最上階から望めるイズモの全貌を見渡した。
後ろを振り返れば彼が望むままにその姿をさらす情景であるのに、つい数十分前まで秘書や役員がひっきりなしに行き交う社長室でかかりっきりであったヨーグンにとっては、むしろこの景色は新鮮であり、純粋だろう。
建物から望める景色自体はこの会社が日本のイズモに進出して以来たいして変化はしていない。とくにイズモは都心から離れていることもあり、比較的落ち着いた雰囲気の中でヨーロッパにはないタイプの日本独特の民家が立ち並ぶ。もう夜だが、明かりがついている建物がもう半分も残っていないというのはいささか寂しいものがある。
上を見上げれば上空150メートル地点で高層ビルディングが海中で上を向きつづける太刀魚のようにふわふわ浮いている。むかし水族館があったころ、そんな魚を見た覚えがある。海中で重力に逆らいながら上下関係なく泳ぎまわれる権利を享受していながら、人間のように縦向きで居続ける不自由な魚。そして上空に浮かぶ縦長のガラス張りの建物を見ると、なんとなくその魚を連想してしまう。そんなことを考えていたら建物が下の方からゆっくり消えたり、はたまたぼうっと現れて、ゆっくりと広場に着陸してみたり...。
さらに上を見上げれば、街の明かりが少ないおかげでよく見える満点の星空のなかに、いくつか一定のリズムで点滅する星が見える。正確には星ではなく、世界各国が建設した巨大な宇宙ステーションそのものだ。国家予算の乏しい国は同盟国と共同でせっせと開発したのち、居住区の所有権を主張し合っていた時期は滑稽であった。無限にある宇宙空間のほんの一区間の取り合い...。その国とは直接の関係がない国の人間にとってはなかなかの酒の肴であった。時間をおいてまた新しいものを作ればいいという結論に、ニュースを見ていた当時小学校に通っていた彼の姪が、各国の首脳よりも少し早くたどり着いたことをよく覚えている。
下に目線を戻し、遠くの方に見える地形に目を向ける、ほんらい山々が連なっているはずの地形に直径300m前後ほどのきれいなクレーターの数々が近くにある山と対比され、よけい深くえぐられているように見える。17年前の第四次世界大戦のどさくさに紛れて"旅立ち"に属する過激派テロ組織が、このイズモの土地にそびえ立つスマートブレイン社めがけて爆縮式真空爆弾を放ったときの名残だ。
そう、人類が達成してしまった偉業の大きさのわりに、景色自体はそこまで変化していないと彼は思う。物が浮いたりワープしたり、クレーターがあったり、地球以外に人類の居住区があったり...。この程度は誤差の範囲内である。およそ人類がこの発見をする以前に理想の発展像として思い描いていた未来像だ。この程度の文明の発展、とてもいうのだろうか。人類がその存在を発見してしまった当時の専門家の予想とは裏腹に、それほど変化はしていない、人類がこの領域にたどり着こうという気概が失せた結果がこれだ。
82年前、スマートブレイン社の創始者であり、ヨーグン・ラスムセンの曽祖父であるニコライ・ラスムセンが、トマス・エジソンのレガシーであった霊界との交信システム「スピリット・フォン」の確立に成功して以来、
世界は変わった。
まずスマートブレイン社は繁栄の極みを体現した。当時ニコライ・ラスムセンおよび役員は敢えてスピリット・フォンの公開は行わず、歴史、科学、芸術、生命、政治、情報、さまざまな分野に関連する自社の研究所を発足、および巨額な投資という社会的名目で、スピリット・フォンより得た情報を使って既存の文明水準の破壊と再生を繰り返し、各分野の中枢に食い込んでいった。スピリット・フォンは質問したこと以外の回答はしないが、質問した内容は正確な応答としてほぼ必ず帰ってきた。霊界とのコンタクトの成功はインターネットの終焉をも意味していたが、スピリット・フォンが公開されていなかった当時、それはまだ数十年先の話である。
数々の遺跡の発掘、通信技術の発展、それに伴う各国が持つ機密情報および政府を掌握、宇宙開発のプログレス、生命の起源の解明...。スマートブレイン社が株式会社として歴史上類を見ない発展を遂げ、事実上世界の中枢の握る存在となることに、そこまで時間はかからなかった。
しかし、ニコライおよびその役員は、その偉業の意味するところをまったくもって見誤っていた。霊界との交信という、およそ人類が達するはずのなかったシナリオに踏み入ることに成功したほどの英知を有していたにも関わらず、その行く末まで思考が及ばなかったという事態は何とも皮肉なことである。利益に目が眩み、短絡的な欲望に身をまかせた結果、人類の繁栄が無に帰ることを悟る時期を数百年単位で早めてしまった。
スマートブレイン社が有する学者グループによる度重なる研究を敢行した。その結果、霊界とは過去と未来が物理的に存在する5次元空間に該当すると解明し、そしてスピリット・フォンがその次元へのアクセスを可能とするツールであるという事実が判明し、事実上人類は己が結末を知る手段を持った。すなわち、霊界との交信とは高次元に在る神により近い存在の干渉を許すという意味である。我々が紙に自身が想像した事柄を絵や文章で思い通りに描くように。紙に描かれた絵や物語が作者に逆らう事ができないように。高次元に存在する"モノ"の意図に反った行動をとることはできない。
そしてコンタクトを続けるうちに、コンタクトの対象、つまり5次元空間に存在する住人について徐々に明らかになってきた。一般的に霊界に存在する"モノ"といえば幽霊、すなわちすでに死んだ人間の魂が住む場所だと考えられていたが、実際は一つ一つの魂が独立して存在するわけではなく...。
とつぜん社長室のドアが開いた、この時間は会社には彼を含めて数人の用務員しかいないはず。よほどのことがない限り、用務員もこの聖域への入室は許可されていない。すなわちこの時間帯、この部屋に誰にも咎められずに入ることが許される人物はただ一人。彼は回転椅子ごと体を窓から部屋の中に向けて、近づいてくる人物を目で捉えた。
「...そこに座っているのは誰だ。」ライオンのようにたっぷりとした金色の髪を後ろに波立たせ、黒いスーツに身を包んだ190cmをこえる長身から交互に降り下りされるゴンッ、ゴンッ、という一定の足音を繰り出しながら近づいてくる。その体の芯に直接ひびく足音は、スカンディナビア、バルト海の荒くれ集団であった、彼の祖先にあたるバイキングから賜った加護をその身にまとうだけでは飽き足らず、周りにいる邪悪な気配を威嚇し、隅に追いやっているような錯覚さえ覚える。彼の顔に刻まれた一つ一つの皺がこの世のすべての苦悩と対面し、そしてそれに打ち勝った者だと物語っている。そしてその刻まれたこれまでの彼の闘争と苦難の歴史を飲みこむほどの生命力をたたえる、一切の迷いを切り捨てたまっすぐな青い目が、闇の中で回転いすに座る人物を捉える。社長のデスクへゆっくりと、しかし確実に獲物をしとめる自信をにじませながら距離を詰めてくる者こそ、スマートブレイン社の頭脳であり社長である、ヨーグン・ラスムセンその人だ。
「しゃ、社長ッ!!!」
回転椅子に座っていた彼はサッと立ち上がった、手に持っていた葉巻を灰皿にジュッと押し込みながら。まだ吸えたのにもったいないなと一瞬思ったが、本来の部屋の持ち主が思いもよらず帰ってきた今、それどころではではなかった。
「...お前は...。」暗がりに目が慣れてきたのであろう。彼が誰であるのかをほぼ完全に認識した。
「用務員のキクチか。」
「は、はい。あれ、どうして私の名を?」
「最近また新しく用務員を雇ったとマツザキから聞いてね、まったく、社員の数に対して用務員ばかり増えているな、汚す者がいないのに掃除人ばかり雇うというのもどうしたものだろうな。」
「いやいや、社長のその寛大なお考えがあってこそで、私はこうして生きがいにありついているのです!はい!」
「...そうか、まぁ、これが一昔前だとそうはいかなかったがな、私ではなく時代の流れに感謝することだ。...ところで、部屋から私のルシタニアスのいい香りがするのだが、なにか心当たりはあるかね?」
「え、ルシ...? あぁ!葉巻のことですね、その、えっと~、ちょっと...そうです!!明日の社長の贅沢なひと時にですね、えぇ、水を差すような不届きな葉巻が混ざっていたらコリャ一大事だと思いまして、そこでちょっと確認してたところでして、へへへ...はい。」
「...ふむ、そうか」
部屋の空気が変わった、張りつめていた緊張はなくなったが、社長が話を切り上げようとしている雰囲気だ。私に興味がなくなってきている雰囲気、問答無用でクビを宣告されそうな流れだ。
「あ、いや、待ってください社長!弁償します、葉巻は弁償しますから。あともう社長室には入らないですから。どうかクビだけは!ここから半径30km圏内で”雇用”を実施しているのはこの企業だけなのは社長もご存じのはずです!どうかクビだけは勘弁してください!!」
「しかし、別に"雇用"にこだわる必要はないのではないかね?君の友人にもいるのだろう?”発展”のメンバーになったり、"旅立ち"に加入している者も。最近では"ピンク色"なるグループが若者を中心に人気らしいじゃないか」
「いや、”発展”や”ピンク色”はともかく”旅立ち”には入りたくないんです。なんていうか...その...
もう少しここにいたいんです。社長もそうじゃないんですか?」
「私はこの会社を作った一族の一員であるという責任があるからね、従業員が一人でもいる限り、他のグループに加入するわけにはいかないんだよ」
「そ、そうなんですか...いや、とにかく、お願いします。今回の件はなかったことにして、もう一度チャンスを下さい!どうか、この通り!!」
ピラミッドの壁画に描かれている、ファラオに貢物を与える召使のようなポーズで菊池はひれ伏した。
「...わかった、まぁ、この時代に私の会社に生きがいを見つけてくれているということは、個人的には喜ばしいことだ。さぁ、私のルシタニアスが一本どこかに消えたことを改めて実感する前に、さっさと退室しなさい」
「あ、ありがとうございます!!」
深く頭を下げて、そそくさと部屋から退室する。あ、灰皿の葉巻をそのままにして出て行ってしまった。しかも一本じゃなくて二本...まぁ、社長がさっさと行けって言ったから、しょうがない。
エレベーターを使って50階から一気に1階までノンストップで降りる。途中だれもエレベーターに乗ることはなく、気持ちが良かった。昼間の会社ではありえない用務員だけが味わえる感覚だ。
「お~、やっと帰ってきたンかぁ」
青いつなぎを着た老いぼれのジイさんがしゃがれた声で言った
「な、言ったとおりだろ。社長って見た目はめちゃおっかねぇンだけど、結構優しいとこがあンのよぉ。俺も14年前にこの会社に入った時にゃぁよぉ...」
松崎のオートストーリー機能が発動した。聞いてもないのに永遠と話を続ける。
「あ~そうだったんスかぁ、へぇ~、そりゃぁすごいッスわぁ」
かくいう俺も最近になってオートリスニング機能を導入した。全ての話を真面目に聞いていたらとても仕事が終わらない。ここの用務員たるもの、最初にしておかなければならない脳内設備投資である。
...こんなジジいと一緒に仕事をするのも釈然としないが、それでも”旅立ち”や他のグループに加入するより断然こっちの方がいい。
そんなことを考えながら、キクチ、24歳、男、独身はバケツの水にモップを浸して床を拭き始めた。
つづく。
なるべく定期的に書いて行きますのでよろしくお願いします。(一ヶ月に一話くらい)
また、こんな話も盛り込んで欲しいというリクエストがあれば、コメントを下さるとうれしいです。