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黄昏の夢  作者: 文咲るね
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ミルヤミ

 この帝国の頂点に君臨する。

 それがミルヤミの野望だった。自分のように優秀な人間がただの女中として一生を終えるなど、嘆かわしいことではないか。

 ミルヤミの今いる環境は彼女にとっては悪だったが、ハハト一家には感謝していた。彼らに拾われなければ、恐らく彼女は母親と同じように娼婦となっていただろう。兄はその道を通らせないように必死になっていたけれど、孤児の末路など知れている。

 高級娼婦にでもなって帝国の中心地に行けば、実質的に帝国の頂点に立つチャンスもないではないだろう。自分の美しさも頭の良さも理解していたから、皇帝に気に入られることなど造作もない。が、身分の低さという唯一の欠点を愚か者どもに付け込まれるのは、ミルヤミのプライドに障った。

 ハハトの子どもの家庭教師となった兄とは違い、ミルヤミは一介の女中だった。子どもは嫌いだったからちょうどいい。無知低脳の馬鹿が嫌いだった。


「見てちょうだい、ミルヤミ。故郷の妹がもうすぐ誕生日でね。かわいらしい上等な服でも贈ってやろうと思ってね。どう思う?」


 若き夫人は上機嫌な様子でミルヤミに見せた。旦那と子どもたちと違い、夫人は旦那より歳の近いミルヤミに好意的だった。彼女の妹の面影を探しているような節をミルヤミは感じ取っていた。

 夫人の見せびらかすそれは、一目見てかなり高価な衣であることがわかった。ちょうどミルヤミの瞳のような美しい紫色に染められて、細やかな刺繍が入れられている。

 素朴な田舎娘であろう妹よりも、ミルヤミの方がきっと似合うだろう。


「とても美しいです、奥様」

「そうでしょう、仕立て屋も、今までに作った中でも最上の出来だと言っていたわ。今年は豊作だったでしょう、だから奮発してしまったの。あの子もきっと喜んでくれるわね」

「ええ」


 恭しい手付きで衣を木箱に収めた夫人が「今日は下がっていいわ」というのを聞いて、ミルヤミは与えられた部屋に戻った。


 今夜は確か、月のない夜だったはずだ。


 ハハトの屋敷の使用人は、貴族と比べれば多くない。ハハト家に代々仕えてきたという老夫婦とその娘の中年女とその夫、夫人の乳母、それから兄とミルヤミだ。ミルヤミは外の人間と関わる機会をことごとく絶ってきたから、ミルヤミという少女を知るのはハハト一家とその使用人たちだけだ。

 全員葬り去るのは案外容易いことだった。


 星々の瞬く音の聞こえそうな深い夜。ミルヤミは黒曜石のナイフを手に、素足で主人たちの寝室へと向かった。主人の大きないびきが聞こえる。僅かな星明かりと気配で夫婦の居所を知ると、大男の喉元に躊躇なく黒曜石を突き立てた。いびきが止まり、代わりに汚い音が漏れる。自重と共に深々とナイフを差し込み、引き抜いた。濡れた手を気にすることなく、隣で何も知らずに寝ていた夫人の喉にも同じようにナイフを突き立てる。

 二人の子ども、老夫婦、中年夫婦、乳母も、ミルヤミは次々と粛々と淡々と殺した。

 兄を最後にしたのは意図があってのことだった。

 足音を忍ばせて兄の寝台に腰掛ける。


「お兄様」


 血塗れた手で兄の頬を撫でた。身じろぎして、夕陽のような瞳が眠たげに開く。


「ミルヤミ……? どうかしたのか」


 兄の声はいつでも穏やかだった。いかにも寝起きの様子で兄はミルヤミの手を撫でた。ぬるりと滑る感触。おもむろに手が止まり、兄は己の手の平を見た。薄暗い中でもそれが透明ではないことがわかる。兄の目が見開かれ、手の平とミルヤミの顔を見比べる。


「ミルヤミ。どうしたんだ、大丈夫か」

「ええ、お兄様。私の血じゃないから安心して」

「やっぱり、血、なのか……! 誰の血だ?」

「私の質問に正直に答えてくれれば教えてあげる」


 ミルヤミは兄の唇にそっと指を当て、黙らせた。


「ひとつだけよ。あのね、お兄様は私と違って外の人とたくさん関わりがあったでしょう。私の話を外の人にしたことはある?」

「……一体何をした、ミルヤミ。何を考えている?」


 ミルヤミの白い腕を兄は掴んだ。血の気の引いた兄の顔になぜか胸がすいた。


「今質問しているのは私よ、お兄様。私、あなたを脅したくないのよ」


 兄の首筋へ、ミルヤミは空いた手でどす黒く濡れたナイフをあてがった。兄の表情がくしゃりと泣きそうに歪む。憂慮する声は懇願するようでもあった。


「まさか、誰かを殺してきたなんて言わないよな、ミルヤミ?」


 ミルヤミは溜息を吐いた。


「お兄様、今質問しているのは私だって言っているでしょう。外の人に私のことを話したことはあるの?」

「聞かれたことがないから話したこともない!」


 兄は掴んでいたミルヤミの腕を捻った。小さく悲鳴を上げ、ミルヤミは闇雲にナイフを振り回す。隙を突いて寝台から転がり落ちた兄はミルヤミからナイフを取り上げて、ミルヤミの手の届かないところに投げた。窓の下、星明かりに黒曜石が仄赤い光を反射する。追いかけようとしたミルヤミの腕を掴んで、兄はミルヤミを壁に押し付けた。


「その血の説明をしろ、ミルヤミ」


 存外冷静に兄は口を開いた。瞳が静かに燃えていた。握られた手首が痛かったが、恐怖は感じなかった。


「お兄様の予想通り、殺したのよ。ご主人様も奥様も、子どもたちも、使用人たちも全員。この屋敷で生きているのは私とお兄様だけよ」

「……嘘だろう?」


 絶句する兄にミルヤミは微笑んだ。滑稽だった。わなわなと震える唇。揺らぐ瞳。分かりやすく動揺を表していた。


「一体どうして。トピアスさんにもヴェルヴィさんにも、よくしてもらっただろう」

「そうね、彼らに恨みはないわ。むしろ感謝している。ただ邪魔だっただけ」

「邪魔?」


 ミルヤミの手を押さえる力が弱まっていた。


「ええ。私が幸せになるためには、この環境が邪魔なの。もちろんお兄様もね」


 ミルヤミは兄の腕を振り解いた。簡単に拘束は解け、ミルヤミは走る。ナイフを掴んだ。兄がハッとする呼吸が聞こえた。


「ミルヤミ……ッ」


 勢いのまま、兄の胸へぶつかる。切っ先が骨にぶつかる感覚があった。捩じるようにナイフを押し込めば、黒々とした刃は兄の身体へ深く沈んだ。小さく声が漏れる。まるで縋りつくように、兄の腕がミルヤミの背に回された。強く抱擁されたかのようだった。昔を思い出す温かさ。熱い息の合間にごぽりと吐き出された血が、ミルヤミの肩を濡らす。ごめん、と呟かれた。


「幸せにしてやれなくて。こんなことさせて。ごめん、ミルヤミ」

「お兄様にはどうしようもなかったことだもの。謝ることはないわ」


 ミルヤミの嘆きは己の身分だった。娼婦の娘に生まれたことは兄の非ではない。

 それを慰めと受け取ったのか、兄は小さく笑った。とめどなく溢れる兄の血が、身体を伝っていくのが不快だった。


「ミルヤミ。僕の妹。とてもそんな資格はないのかもしれないけど。僕は、君を愛しているよ」

「でも、私はぼくだった頃から、あなたのことが大嫌いだったわ。エルネスティ」


 兄の身体を突き飛ばすようにして、ナイフを抜く。浅い呼吸が薄れて、消えた。

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