六年前
「ミルヤミ」
穏やかな声がたしなめるようにミルヤミを呼んだ。ミルヤミはさっと手を後ろに隠す。
荒んだ瞳でミルヤミは、口喧しい兄を見上げた。
「ミルヤミ。そのリンゴはどうした?」
小さな掌が真っ赤なリンゴを持っているのをエルネスティは見逃さなかった。ミルヤミは平然とエルネスティを見上げている。黄昏よりも夜に近い、紫色の瞳は揺らぐこともなくまっすぐに少年を見ていた。
「表通りの店のおじさんがくれた」
「嘘つくな、ミルヤミ。前にも露店のオレンジを盗んで、殺されそうになるくらい殴られたのを忘れたわけじゃないだろ。一緒に謝ってやるから、返しに行くぞ。まだ食べてないだろ」
「なんで?」
つやつやとしたリンゴを大事そうに撫でながら、じっとエルネスティから目を逸らさない。飢えた瞳が爛々としている。傷ひとつないリンゴを持つ手は泥で汚れ、棒のような脚には痣が浮かぶ。身に纏った衣もぼろぼろだった。
「ぼく、もうずっと食べてない。泥水じゃ腹もふくれない。このままじゃ死んじゃうから、なにか食べないといけない。ぼくが死んだら兄ちゃんが悲しむ。だから、なにか食べないといけない。ちがう?」
反射的に違うと答えた。ミルヤミの姿は痛ましかった。エルネスティだって、なにか食べさせてやりたいと思っていた。けれど、それは簡単なことではない。エルネスティの身なりもミルヤミに負けず劣らずひどいものだった。
「お前が死ぬのは悲しいよ、それは正しい。けどな、人から物を盗んじゃいけないんだ。それは悪いことなんだよ」
ミルヤミはまったくわからないといった顔で首を傾げている。エルネスティはしゃがんでミルヤミと視線を合わせた。それから小さなミルヤミにもわかるよう言葉を選びながら悟らせようとした。
「ミルヤミだって、他の人から自分の物を盗られたら嫌だろう? 自分が他人にされて嫌なことは、人にしちゃいけないんだ」
「でもあいつらはぼくのこといつもきたねえって言うし、ゴミみたいに蹴飛ばしたりする。そのくせぼくも同じように蹴ってやったらめちゃくちゃに怒るよ。自分だって蹴られるのは嫌なんだ。兄ちゃんだって、めちゃくちゃに殴られてる。なんで?」
「あいつらだって、悪いことをしてるんだよ。怒ってくれる人もいない、かわいそうな人なんだ。だからあいつらは、死んでから冥府でユンナ様にいっぱい怒られるんだよ。ユンナ様は怒ると怖いから、僕もミルヤミも、生きている間は悪いことをしちゃいけないんだ」
「そうだそうだ」
野太い声にぎょっとする。大男が二人を見下ろしていた。衛兵かと身構えて、エルネスティはミルヤミを身体の後ろに隠した。しかし衛兵にしては、大男はこぎれいな身なりをしている。
「そう脅えるな、何も捕まえて食うわけじゃなし。お前ら、親は?」
大男の顔色を窺った。厳つい男だが、怒ってはいないらしい。エルネスティは首を横に振った。
「二年前に、母が死んだので。父はいません」
「ふうん。お前、名前は? いくつだ?」
「エルネスティ。年は十五。この子はミルヤミ、ちょうど十歳」
「エルネスティ、ミルヤミ。読み書きはできるか」
「一応、一通りは。ミルヤミも」
ミルヤミがエルネスティの服の裾を掴んだ。その手を握ってやれば爪を立てられた。痛いよ、と小声で叱った。
「怖がるな、怖がるな。なあ、うちに子どもがいるんだが、どうだ、遊び相手になってくれんか? 箱入り息子で外のことを何も知らんから、外のことを教えてやってくれれば嬉しいんだが」
「え……」
エルネスティは目を丸くする。大男はニヤリと笑った。
「もちろんただでとは言わん。綺麗な服も、食べるものも、住むところも用意してやる」
「ど、どうしてですか」
ミルヤミの手をしっかり握って、エルネスティは一歩下がった。見ず知らずの薄汚い子どもを、誰が好んで我が子に近付けるだろうか。それが普通でないことは、これまで散々虐げられてきたエルネスティにもわかった。
「お前らの口喧嘩を聞いていたが、なかなか頭が良さそうだった。有能な人間は生まれに問わず重宝すべきというのが俺のポリシーだからな。未来あるお前らへの投資も兼ねたい」
ミルヤミがエルネスティの手をぎゅっと握った。エルネスティはじっと大男を見上げると、大男は屈んでエルネスティと視線を合わせた。
「名乗るのが遅れたが、俺はトピアス・ハハトという」
「あ……、あの、ハハトさま、?」
ハハトと言えば、このヴァルシネアに広大な農地を持つ大地主だ。権力で言えばヴァルシネア侯爵には及ばないものの、ヴァルシネアで知らぬものはない名だった。特に今の当主は人望はあるが変わり者だという話も聞く。
「お前みたいな子どもにそう呼ばれるのもくすぐったくていけない。トピアスさんでいい」
「いや、でも……、僕ら、当主さまの顔を知りませんし……」
「名乗られたところで騙されてるかもしんねえってか」
トピアスはたっぷりと髭を蓄えた顎に手を当てて思案した。
「じゃ、ひとまずうちの屋敷に案内してやろう。俺が勝手に先を歩くから、嫌と思ったら逃げればいい」
そう言ってトピアスはくるりと背を向け歩き出した。エルネスティは少し悩んだものの、ミルヤミの手を引こうとして、その片腕にまだ大事そうにリンゴを抱えているのに気が付いた。
「あ、あの」
「どうした」
呼び止めたはいいが、エルネスティは気まずくなって目を逸らす。ミルヤミのリンゴを見て「ああ、それで喧嘩してたんだったな」とトピアスは頷いた。
「店主に謝って金を払えばいい。まずそっちに行くか」
ミルヤミの言った露店の店主が大男を見た途端「ハハト様!」と深々と頭を下げたのを見て、エルネスティは大男が大地主で間違いないらしいことを認めざるを得なかった。トピアスの口利きもあって、ミルヤミは露店の店主に許された。
ハハトの屋敷に案内されれば、使用人の女はトピアスをご主人様と敬い、兄妹を訝しげに見た。こんな薄汚い子どもを拾ってきて一体今度は何をさせる気なのだろうと、侮蔑ではなく呆れや好奇心の色が強いのを意外に思いながら、トピアスに導かれるまま大きな部屋に通された。
まあ座れとソファを進められ、恐る恐る腰掛ければふかふかと温かく吸い込まれるような心地にまた驚く。終始仏頂面だったミルヤミも、はしゃぎたいのを懸命に堪えているような顔をしていた。
「まずはここまで来てくれてありがとう、二人とも」
トピアスの主人らしい貫禄に、エルネスティは思わず頭を下げる。ミルヤミはソファの感触に夢中になっている。
「さて。エルネスティ、ミルヤミ。急かすようだが、二人とも、雇われてくれるということでいいか?」
「構いません。けど、ひとつだけ、いいですか」
ミルヤミにトピアスの話を聞くよう注意させながら、エルネスティは言った。言ってみろ、とトピアスは頷く。
「ミルヤミが成人するまでは、僕らを引き離さないでください」
「……ふむ。良いだろう。ただしこちらにも条件がある」
エルネスティは唾を飲んだ。ミルヤミもトピアスの方を見た。
「ミルヤミ。この屋敷内で盗みやその他悪事を働くことを禁止する。エルネスティ。ミルヤミに悪事を働かせないこと。これらが絶対の条件だ。俺は悪意が大嫌いでな。少しでも悪意の臭いを嗅ぎ取れば約束は守れない。いいな?」
エルネスティは頷いた。
ミルヤミに善悪の区別がつかないのはきっと環境のせいだから、食べ物の心配がなくなれば自然と悪事の何たるかもわかるようになるだろう。
それから六年が経った。二人は若いハハト夫人や使用人たちから教養を叩き込まれ、教えられたことすべてを乾いた地面のごとく吸収していった。ミルヤミは一度も悪事を働かず、メイドとしては上々の仕事ぶりを見せている。しかし幼い頃の思考がどうしても振り払えないのだろうか、悪意の香りを振り撒いているらしかった。