特異点修復者シリーズ (刑事編)端緒 #5
5: 生体移動デバイス 虹色竜
「私はあの日、自分の特異点内部世界で侵入者を確保し、その男を連れ帰る為、移動用デバイスの中に彼を監禁しおえた状況でした。」
「君の移動デバイスは虹色竜だったな。確かコックピットは胸部にあった筈だ。人間一人を監禁出来るスペースはデバイスのどこにあるのかな?」
虹色竜、、名前通りの移動デバイスなら、ローは生体移動デバイスを使っていることになる。
生体移動デバイスは特異点内部のみから調達されるもので、こちらの世界では最高度のバイオテクノロジーを駆使しても生成不可能なギアだとされる。
その名の由来は、ローに逮捕された侵入者達が、見る角度によって玉虫色に体表色を変化させるこの翼のある竜を「虹色をした龍」と呼んだ為だ。
噂でしか聞いた事のない生体デバイスを、自分の身近な人間が使っていた事に、護は少し衝撃を受けていた。
ローが時折、口にする「虹」が、まさか生体移動デバイスの事だったとは護には思いもよらない事実だった。
「コックピットには人が二人入れますが、そこに他人を入れるつもりはありません。まして相手は、私から言わせれば犯罪者です。男はデバイスの腹部の空きスペースに監禁しました。つまり虹色竜の腹の中です。飲み込ませるんです。いつも私はそうしています。その事が何か問題でも?」
夾雑物を本部に連行した後はどうするんだ。その竜に吐き出させるのか?それとも糞と一緒にひりだすのか?と護は真剣に考えた。
「いや何もない。ただ単純に疑問がわいたから聞いてみただけだ。生体移動デバイスは、私にしても珍しい存在だからね。調べたくてもグレーテルが構築した格納庫の警備は特殊過ぎて、私でさえ見学するのが厄介なんだ。だから虹色竜の実物は見たことがない。知っているのはデータ上の知識のみ、それに私とてリペイヤー総ての移動デバイスの内部構造を事細かく把握しているわけではない。グレーテルなら別だがね。失敬した、続けてくれたまえ。」
逆に言えばヘンデルは、多岐にわたるリペイヤー達の移動デバイスの内部構造を、大まかであれば「総て」把握しているという事だった。
「虹の腹を撫でてやり帰還しようとした時、どこからか叫び声が聞こえました。私にはそれが非常に異質なものである事がすぐに判りました。特異点内部では、様々な事が起こりますが、所詮は全て予定調和内の出来事です。ですからそうではない異質な出来事は、すぐに察知がつきます。現にあの時、私の特異点内部世界では道ばたの石ころ一つまで、その悲鳴に共鳴するかのように細かく振動していました。まさに世界がブレたという感じです。でも私にはその正体が掴めませんでした。声が聞こえたおおよその方向だけは見当がついたのですが、、。虹の中に戻った時、ひょっとして先ほどの声の正体が判るのではないかと思ってマップを開いたら、特異点内部の形状が変化した地域を発見したんです。それは自分が見当を付けていたあの悲鳴が起こった方向と一致していました。」
「それで、その方向に調査に向かったんだな。」
「ええ、一瞬、捕らえた男を連れて帰るのが先かと悩んだのですが、悲鳴の正体を探るのが先決だと判断したのです。」
「君のデバイスに搭載してあるマップのことだが、それは虹色竜の意志というか感覚器の現れと捉えていいのかな?報告書にはそうは書かれていなかったが、私とグレーテルにとっては、その部分が大切なんだよ。それに、さっき言葉を濁したが、私には虹色竜の原型が、この星というか、この世界のものではないように思えるんだ。あれは完全に異世界のモノだ。その事に付いてグレーテルはこの私にでさえ、一切言及しないがね。だから私は尚更、怪しいと思っている。今のところ特異点が生み出すプロダクトは、全てこの星のものから着想を得ているようだが、アレは違う。」
この時、ローは複雑な表情を見せたが、虹色竜の所属世界についての自分の思いには、あえて触れずに証言を続けた。
文脈的に解釈すれば、ヘンデルは、虹色竜ではなく虹色竜に搭載されているマップについて質問しているに過ぎない。
「正式な場面でそう表現した事は一度もありません、マップはマップです。私は不必要な混乱は好みません。が、事実はドクターが指摘されたとおりです。私はいつもこのデバイスを一つの生命体と捉え、私が虹に乗り込むという事は、その生命体と一時的に融合することだと捉えています。ですからマップにその叫び声が映し出されたと言うことは、虹自らもこの異変を感じ取ったというメッセージを私に伝えた事になります。それはきわめて重要なことだと私は理解したのです。それに、、、」
「それに、なんだね。」
「普通、特異点内部での予定調和からはみ出す行動は、大きな異変を引き起こしかねないものです。多くのリペイヤー達は体験的にそれを理解していて、与えられた任務以外の事を、特異点内部では行おうとはしません。ですがこの時は、当のデバイス自体がその心配を打ち消してくれたんです。」
「ほう、それはどういう意味だね。」
「私は、、、虹色竜は、他の無機質なデバイスとは異なり、特異点そのものの意志の反映としての存在だと思っています。これは本音です。そのデバイスが、叫び声のあった方向に向かうというなら、その結果は必ず予定調和に近い部分に収まるはずだと。」
「・・どうだ藍沢君、君は私たちの今の会話についてこれるかね。」
査問会でのやりとりではなかった。
ヘンデルは護を二人の会話に巻き込もうとしていた。
もっともその真の狙いが、どこにあるかまでは護には判らなかったが。
「予定調和という感覚は、なんとなく理解できます。特異点内部の世界が、そこに入り込んだリペイヤーの意志を反映して形作られるなら、その世界にリペイヤーが想像できないような突拍子もないことは起こらない。どんな突拍子もないことが起ころうが、それは大きく見ると想定内の出来事でしかない。勿論、夾雑物の存在は別ですが、、、そう言った事を、レズリーが、いやロー先輩が予定調和と言われたんなら、それはそうだと思います。しかしこの予定調和が誰の為のものか、という疑問は残ります。」
そう応えながら護はジッグラトでの出来事、特にサクリファイス王女の件は、完全に予定調和外のハプニングだったと考えていた。
「、、、ロー先輩の言われた生体デバイスの件については、正直、私の理解を超えます。それでは、まるで生体デバイスが特異点の代弁者であると聞こえますし、そうであるならドクターヘンデルの前で失礼なもの言いになりますが、特異点の研究は、もっと容易なものになるのではないかと。」
「うむ、そうだろうな。レズリーもそう単純に捉えられる事を懸念して、自分のデバイスに付いての正直な評価を公式では控えているようだ。たった一つの化石で、過去の事が総て分かる訳じゃないのと同じように、物事はそれ程簡単ではないからね。しかし、他でレズリーは難しいことを言ってるわけじゃない。レズリーが聞いたという不思議な叫び声の正体を調べる為の探検に出かけても、レズリーは自分が迷子にならいないですむという安心感を移動デバイスから得ていた。なぜならレズリーの移動デバイスは、特異点の意志と同等ではないにしても、その一端である事には間違いないからだ。それが君のメイドイングリム兄弟のマーコスLM500との違いだ。自分自身が建てた家の中では、それがどんなに大きな屋敷でも迷子にはなりようがないという事だな。・・さあ、それからを続けてくれるかな、レズリー。」
「虹は、私が今まで見たことがない空の景色に向かって飛び続けました。うまく言えないんですが、空間自体がどんどん縮まって行って、空気そのものが入れ替わっていく感じがしました。つまり進めば進むほど私の特異点内部世界が無くなっていく感じがして、これは相当危険だなと。」
「けれど、君は先ほどの理由で、探索を中止しなかった。」
「ええ、でも私のデバイスが多くのリペイヤー達と同じ様な無機質なモノだったら、私は怖くなって途中で引き返したと思います。特異点内部世界が消失するという事は、自分の存在が消えて無くなるということと同じですから、、この感覚だけは味わった者ではないと判らないと思います。」
「それでも君は虹色竜を信頼して、叫び声の正体を知るために飛び続けた。」
「ええ、そしていつの間にか、私の内部世界が果てる境界に到着し、そこを突き抜けていました。私の眼下には藍沢リペイヤーの特異点内部世界が広がっていたのです。今、思うとそれを可能にしたのは、正に移動デバイス自体の力ではなかったかと、、。私一人で、他人の特異点内部世界に侵入できるなんてとても思えませんから。」
「まあ、それをどう考えるかは君の自由なんだがね、その点に付いて、私たちは別の角度で考えている。実は今日、君に来て貰ったのも、その辺りが大きいんだよ。」
「ちょっと待って下さい!俺もロー先輩が言われるように、特異点に完全対応するようなリペイヤーの内部世界へ、易々と入り込めるような人間は、例えリペイヤーであっても存在しないと思います。」
この私的な査問会の焦点が、レズリーローの特異点内部間の移動にあるのだと考えた護は、思わず口を挟んでしまう。
ヘンデルは優しい表情を浮かべながら護を見て、無言でその反発を押さえ込んだ。
ローが、気を回して話の続きを再開した。
「虹色竜の真下に、リペイヤー達が普段、ジッグラトと呼んでいる建築物があり、マップは叫び声がそこから発せられたのだと言っているようでした。ジッグラトの壁には、つい最近崩落したような部分があって、私はそれに興味を覚え、地上に降り立ってみようと思いました。」
「君はその時、自分がいる世界が、他のリペイヤーの内部世界であることを知りながら、その世界に直接足を踏み入れようとしたわけだ。」
「ええ、内部世界が他のリペイヤーの侵入を拒む性質があるなら、その影響はとっくの昔に現れている筈だと考えましたから。それがないなら危険はないと判断しました。」
「君には変化がないと思えても、実は藍沢リペイヤーの内部世界は君の世界に塗り替えられつつあったのかも知れないぞ。なにしろ藍沢君は、その時意識を失っていた訳だからな。」
それを聞いてローの顔色が変わった。
やはり特異点内部世界は強力なリペイヤー同士では共有出来ないのではないか?それとも?、、少なくともヘンデル達は両方の可能性を捨ててはおらず、ローの行為は期せずして、そんな彼らの考察材料の一つとなっていたのかも知れない。
「続きを、、私の世界はどう見えたんですか?」
護は二人の会話に許可も得ず、再び口を挟んだ。
もしかしたらレズリーは、護の左手に関するなにかを、その時に見ているかも知れない。
レズリーやヘンデルには、何気ない護の特異点内部世界の描写であっても、護には違う意味を持つ場合がある。
護の質問に対する自分の発言の許可を求めるような視線を送ったレズリーに、ヘンデルは頷いて見せた。
「私は虹を操作して、壁面の崩落部分をなぞるようにゆっくりと下降していきました。崩落の開始場所と思われる部分は、奥に深くえぐり取られていて爆薬か何かが炸裂した様子でした。」
「君は、報告書にその断面の部分と、地面に落ちた壁の材質の様子が異なっていて驚いたと書いていたね。その辺りをもう少し詳しく教えてくれないか。」
「爆弾が炸裂したのだろうと思われる箇所は、非常に堅い巨岩が割れるような感じで破壊されていたのですが、下に落ちた筈のその破片は砂のようでした。藍沢リペイヤーはその爆発に巻き込まれて落下した訳ですが、もし、巨岩がそのままの状態で下に落ちたのなら、彼は相当なダメージをおった筈です。しかし彼は砂流とも呼べる壁面の崩落のおかげで軽傷ですんだのだと思います。爆発前は非常に硬い岩、爆発後は砂岩のようなものに変化したとしか言いようがありません。」
「君は、その変化をどう推理してる。」
「ジッグラトの壁の崩落というか爆破は、藍沢リペイヤーの内部世界に侵入した人間がしかけたものだという事を証明していると思います。藍沢リペイヤーが関与した事なら、巨岩はもっとそれらしく巨岩として爆破され、大きな石くれとなって下に落下したはずです。内部世界はリペイヤーによって形作られますが、なんでもかんでもリペイヤーに都合良く変化するわけではありません。内部世界にまったく干渉力を持たない人間が、何らかの現実的な破壊エネルギーをジッグラトにぶつけたら、ジッグラトは本来、それが作られた材質というか、方法論に基づいて破壊されると、、、。」
「土に戻るゴーレムの死に様だね。君も、特異点世界ハイパーナノロボット形成論者なのか?」
既に答えを知っている教師が、生徒に質問するようにヘンデルが楽しそうに聞く。
「そんな表現がいいのか、私には判りませんが、そう理解しないと特異点内部世界の説明が難しくなります。超高度に発達した科学は魔法と同じだと、いつかドクター自身も仰っていたと思います。それにみんな口には出しませんが、おおかたのリペイヤー達が、自分たちの内部世界がハイパーテクノロジーによるナノロボットで形成されているのだと思っています。特異点は無限の数の箱庭世界を内包する事の出来る巨大な空間だとも。」
既に正解を知っている教師に、その答えを返す馬鹿馬鹿しさを愛した優等生レズリー。
護は再びヘンデルとレズリーの男女関係の噂を思い出した。
いや男女ではなくホモセクシュアルなのか。
「特異点は、巨大かつ、同時に極小だ。と言うよりも(点)に過ぎない。つまり大きさという概念から外れた所にある。それはどう説明する?そして、君の言う(みんな)の事だが、ノアの箱船が地球上の総ての生命サンプルを積んだように、特異点はリペイヤーに示すあの精神感応機能を応用して地球上の総ての人間の心を積もうとしている、その為に特異点はやってきたんだ、。そう信じているリペイヤーもいるらしいな。そんな彼らは、あまりナノロボット等の合理的解釈を信じていないようだ。つまり特異点は、もっと神聖で超越的な存在だと。」
ヘンデルは楽しげにローの言葉を混ぜ返す。
「さあ先を続けてくれたまえ、藍沢君はそんなヨタ話はもう沢山だという顔をしてるぞ。」
「・・藍沢リペイヤーは、ジッグラトの麓で砂に埋もれて意識を失っていました。彼は血だらけだったので私はかなり動揺しました。特異点内部で仲間の救出活動などをした事がなかったからです。しかしすぐに気がついたのですが、それは相手がリペイヤーだと思うからであって、普段、私たちは特異点に無断侵入してくる人間を掴まえ連行しているのです。その際、こちらが傷を負わせた相手もたくさんいます。つまりそう考えればいいのだと。」
「それで君は藍沢特異点から離脱する際に、藍沢ルートを使わず、逆進しながら自分の世界にわざわざもどったのか。」
「自分の特異点進入路から他人の特異点の内部に入り、出る時は他人のものを使うという事が実際に可能なのかとても心配でしたし、そんな事をしたら私のデバイスは藍沢世界では完全に迷子になるだろうと思ってもいました。それに虹は元来た道を戻るという前提で、この私を導いたのだと考えましたから。」
「・・・うむ、君の懸念はわかる。だがいずれリペイヤーの内、誰かが、その突き抜けをやる事になるだろう。現に、藍沢リペイヤーはデバイスを乗り継いだとはいえ、自分の入り口から入って、他人の出口からこちらに戻ってきているのだからね。」
「それが、そんなに大切なことなんですか?レズリーは俺を助けてくれました。それが重要なんだと思います。少なくとも俺にはそうです。」
自分の名前が出た護は、またもや思わず口を挟んでしまう。
ゲッコのアドバイスもレズリーの忠告もほとんど効果を失っている。
つまり護は、普通のリペイヤーなら決してやらないことをやって自分を救ってくれたレズリーに、彼自身が思っている以上に、強い恩義を感じていたのだった。
「特異点が作られた本当の目的は、未だに解明出来ていない。ただその移動原理や機能から見て、時空を遠く隔てた世界同士を繋ぐ通路のような側面を持っていたのは確かだろうと思う。通路なら、誰もが行って帰ってこれなければ意味がない。単純な一方通行では困るわけだ。それに異世界同士を繋ぐのはいいが、訪問先がかならず訪問者が生存するに適した環境であるとは限らないわけだろう?同じように他の異世界の住人が逆にこの通路を使うときも同じ問題が起きる。まさか、いくら超絶的なテクノロジーを駆使したとしても、訪問先の一つの既存世界の環境を、丸ごと全部自分の都合の良いように一瞬にして変えるなんて事は不可能だ。出来たとして、それは完全な侵略行為であるしな。そこで君たちが使っている移動デバイスと同調内部世界の考え方が出てくる。移動デバイスは特異点内部専用だが、それのもっと大がかりなものを作って、通路に接続された新世界に出向けばいい。巨大移動デバイス内くらいは、その使用者に合わせて環境を整えることは出来る、、、そう考えれば特異点内部世界について色々な事が腑に落ちるだろう。今回の出来事はそういった事を考えていく上で非常に重要な出来事だったんだよ。」
ヘンデルは出来の悪い生徒に、高度な内容を理解させようとする熱心な教師のように、それだけの事をゆっくりと喋った。
「では、そろそろ藍沢君への質問に移る頃合いなのだが、その前に最後にレズリー、君に一つ質問だ。」
「はい」
「君は、自分の世界で聞いた叫び声の正体を知るために行動を起こした。結果は思いもよらず藍沢リペイヤーの救出に結びついた訳だが、その叫び声の正体はなんだったと思う。」
「あの声は、確かにジッグラトから聞こえたと思います。そして恐らくは違う世界の、、、つまり特異点本来の時空ゲート機能でたどり着ける別の世界のものかと、、、一瞬だけ、ほんの一瞬、特異点の本来の機能が回復したのではないかと。そう推測する根拠はありません。ただ、私の感覚がそうなのではないかと、、。」
「・・・・・判った。では藍沢君にうつろうか。」
「ジッグラトの上部で侵入者を発見し、男を捕獲する為に俺、いや私は階段を駆け上がって行きました。頂上近くで男を掴まえたのですが、もみ合いの乱闘になりました。私は不覚にも銃を奪われた上、階段の踊り場から突き落とされました。ですが転落する直前になんとか壁面の凹凸にしがみつくことが出来ました。いや偶然、しがみつこうとした腕が岩の間に挟まった感じです。侵入者はそんな私を見て加虐的な気持ちになったのか自分が逃走用に持参したという時限爆弾を私の頭上位置にある踊り場の手すりに置いて逃亡したのです。爆発の時刻まで予告されました。騙されているのかも知れないと考えたのですが、、実際はこう言った結果になっています。爆発と私が自ら凹凸を掴んでいた手を離したのは殆ど同時だったように思います。それから後の事は、本部で手当を受け意識を取り戻すまで、何も覚えて居ません。」
「君はどこかの時点で悲鳴を上げなかったかね。例えば頭上で爆発が起こった瞬間だとか。」
「総ての事が興奮状態の中で行われましたから自分の行動については記憶が曖昧なのです、ですが叫び声や悲鳴を上げたという事はないと思います。」
「藍沢君、君は学生時代、フルコンタクト空手の頂点を極めた男だと聞いている。それに、君たちの言い方では、ああ、なんと言ったか、夾雑物か、君の夾雑物の排除率はリペイヤーの中でもずば抜けている。そんな君が自分自身の特異点内部世界の戦いにそうやすやすと負けるものなのかな?」
ヘンデルはまっすぐに護の目を覗き込んでくる。
そしてこの会話は神の目と耳を持つと言われているグレーテルもどこかで聞いているのだ。
嘘が通用するとは思えなかった。
思えなかったが、なぜか護には、自分の左手の事と、ジッグラト内にいたあの女の事は口に出してはいけないという確固たる思いがあった。
それはゲッコが言った「特異点に関する切り札を握ったらそれをうまく利用しろ」とういうような入れ知恵のせいではなく、もっと心の奥から沸いてくる真実への直感に通じる確信だった。
報告書を書いている時点でも、そういった気持ちはあったが、どうした事か、ヘンデルを目の前にしている今この時の方が、その思いがより強くなっていた。
「胴着を着、正式な場所で戦うのと、あのような場所で戦うのでは、いくら空手を身につけていてもその結果は変わってきます。武術の鍛錬をした事がないやくざ者でも、命のやりとりなら有段者を軽くしのぐ場合もあります。」
それも嘘だった。
本物の武術の鍛錬を積んだ者はやくざ者には絶対に負けない。
負けるときは慢心がそうさせるのだ。
ましてや護が選んだ武道はフルコンタクトの実践空手で、挙げ句の果てに護は試合で人を打ち殺している。
あの男と、ああいった形で出会わなければ、自分が拿捕に失敗したとは今でも護は思っていない。
「いいかね藍沢君、私はこの聴取を行う前に、グレーテルもここでの話を聞いていると君たちに伝えた。たしかそうだったね。」
「はい、仰るとおりです。」
「そのグレーテルに誓って、君の話に虚偽はないと言えるかね?」
「その答えなら、総てを見通す神のようなドクターグレーテルが、既にご存じだと思います。」
「・・・なるほど。立派な答えだ。」
レズリー・ローが凄まじい目で護を睨み付けていた。