第捌話:実る訳のない初恋
──大神優には、気を付ける事。
それは咲希の中では決定事項であり、大神は一番に警戒していなければならない相手だと言う事は、昨日の喜助との会話でハッキリしている。
なので、咲希的には、隣の席にいる大神となるべく関わらない様にし、出来る限り会話も最小限にするつもりだった。
そう、するつもり「だった」のだ。過去形。つまり、現状は正反対。
大神は、朝から、これでもかと言う程、咲希に話しかけてきたのだ。
大神は確かに警戒するべき相手なのだが、彼が妖怪であると言う事が確定している訳ではない。匂いフェチな只の人間かも知れないのだ。
なので、あからさまに無視する訳にもいかず、咲希は困惑すると共に物凄い心労を感じていた。
昼休みに、友人とお弁当を食べている最中、はぁ、と思わず重いため息を吐いてしまう程には疲弊していた。
「ちょっと、空気が湿っぽくなるから止めろ」
一緒に昼食を摂っていた愛莉に、あからさまに嫌そうに顔を歪められる。彼女は相変わらず遠慮がない。
「何々、恋煩い?」
対して、もう一人お昼を共にしていた友人の紀香は、興味津々と言う風に身を乗り出しながら食い付いてきた。
恋煩い。本当にそうだったら、どんなに良かっただろうか。命の危機に晒されていない辺りが素晴らしい。
咲希は現実逃避をする様に、どこか遠くを見つめた。
「恋煩いか……そんな青春っぽい事、した事ないな……」
「え、初恋もまだとか、そう言うパターン!?」
紀香は今にも吹き出しそうにぷるぷると震えながら、口元を押さえた。明らかに馬鹿にしている。
愛莉が小さく「しょぼっ」と呟いたのも、咲希は聞き逃さなかった。
ムッとした咲希は、睨み付ける様に愛莉を見て、ビシッと箸の先を突き付けた。
「失礼な。初恋は経験済みです!」
「「ほほーう?」」
二人が同時にニヤリと笑う。咲希は何となく嫌な予感がした。
こう言う時の嫌な予感と言うものは、大変残念な事に大体が的中するものだ。
咲希は引きつった笑みを浮かべて、突き出した箸をそろりそろりと引っ込める。
「初恋は経験済み、ねぇ?」
「それは初耳ですなぁ」
一様にニヤニヤ笑いを浮かべた二人は、無駄に息がピッタリだ。
これはマズイ。そう感じた咲希は、視線をどこかへさ迷わせつつ、強引に話題を変えようと試みる。
「あ、そう言えばさー」
「うふふふふ、逃げられるとお思いかなー?」
「さぁーて、洗いざらい吐いてもらおうかー?」
無理だった。
謎の迫力を湛えて微笑む彼女たちに、勝てる気が全くしない。笑顔の圧力って怖い。
咲希は諦めのため息を吐いて、卵焼きに箸を突き刺した。
「聞いても、面白くも何ともないよ」
話す分には別に構わないのだが、面白味はもちろんのこと、山もオチも無い。
聞いても仕方ない事なんだけどな、と思いながら咲希は卵焼きを口の中へと突っ込んだ。
「大丈夫、咲希の初恋ってところが既に面白いから!」
たこさんウインナーを箸でつまみ上げ、愛莉はニッコリと笑って見せる。純粋な悪意しか感じられない笑みだ。たこさんウインナーとはミスマッチ過ぎる。
「愛莉さん、それはどう言う意味かな?」
「咲希の恋愛、ぷークスクスって意味だな!」
「わぁっ、最低!」
笑顔で悪意を振り撒く愛莉に、咲希もあえて笑顔を返した。端から見ると、かなり寒い光景だ。二人の間で笑っている紀香が、また怖い。
苛立ちから、おかずの肉じゃがのジャガイモにドスッと無駄に勢い良く箸を突き刺してしまった。ちなみに、言うまでもなくこの肉じゃがは、昨日の夕飯を取っておいたものだ。
「つまんなくて良いから、早く話して!」
咲希の放つイライラオーラなど意に介さず、紀香はウキウキした様子で身を乗り出す。
ジャガイモを口の中へ突っ込み、むぐむぐと咀嚼し終えると、咲希は思い切り息を吐いた。
「……小さい頃、家に一人でいると、一緒に遊んでくれる子がいたの」
まだ、咲希が小学校生にもなっていない頃の事だ。
幸子だけでなく、毅もその頃は外へ働きに出ており、昼間は家に咲希と多恵だけになる事が多かった。
しかし、彼女だってずっと咲希の相手をしている訳にはいかない。家事があるし、それ以外にも、町内会なんかで家を空けたりする。
そんな時、咲希は広い家に一人きりだ。他の子供は、同じ地区に住んではいても、咲希一人で遊びに行ける程近くに住んではいない。
誰もいない居間で、ぼんやりと外の景色を眺める。小さな咲希は、まだ一人での留守番が平気で出来るほど、成長はしていなかった。孤独に、涙が滲んでくる頃──いつも、どこからか「彼」が現れるのだ。
『──おい。遊んでやるから、泣くな』
首の後ろを掻きながら、小さな子供には似つかわしくない、困った様な、仕方ないとでも言いたげな顔で、「彼」は気付くといつも咲希の傍にいた。
そして、泣きそうな咲希の頭を少し乱暴に撫でるのだ。
「色んな意味で、『彼』が好きだった」
懐かしさに、咲希は思わず目を細める。
幼い咲希に、愛だの恋だのが解っていた訳ではない。ただ、「彼」が好きだった。
あの頃は全く自覚していなかったが、おそらくあれが初恋だったのだろうと、今になって思う。
「その『彼』って、誰なの?何者?」
小さなフォークに弁当のおかずであるナポリタンをくるくると巻き付けながら、紀香が不思議そうに首を傾げた。
咲希は自分の弁当へと視線を落とす。
「知らない」
「「はぁ?」」
また、二人の声が揃った。
チラリと視線を上げると、愛莉も紀香も、いぶかしげに眉を寄せて咲希を見ている。
妥当な反応に、咲希は思わず苦笑いを溢した。
「親戚でも、同じ幼稚園の子でも、近所の子でもなかったんだよね、その子」
「え、何それ、怖い」
愛莉は怖いと言うより嫌そうに顔を歪めて、箸を持っていない方の手で自らの肩をさすった。
確かに、話だけ聞けば微妙に怖いかも知れない。
簡単に言ってしまえば、一人でいると、どこからか見知らぬ少年が現れて来るのだ。
当時は何も考えていなかったが、今にしてみれば、どう考えたって「彼」は不法侵入者だった。と言うか、そもそも「彼」は一体、どこから入って来ていたのだろうか。
色々と、不明な点が多い。オチとして、咲希がいなくなったりでもしていたら、完全に怪談話だ。
「今考えると怖いけど、あの頃はただ嬉しかったの!」
無理矢理まとめて、咲希は白米を口へと運ぶ。
何だか微妙そうな顔をしている愛莉は、あえて視界に入れないようにした。
「で、今その子、どうしてんの?」
疑問を口にしてから、紀香はフォークに巻き付けたナポリタンをパクつく。結構な量を巻き付けてあったのに、彼女は普通に一口でそれを食べてしまった。
異様に膨らんでいる紀香の頬に若干引きながら、咲希は疑問に答える。
「知らない。小学生になったあたりから、あんまり来てくれなくなって、最終的に来ない様になってから、それっきり」
小学生になり、咲希が友達のところへと遊びに行く様になるにつれ、「彼」が現れる回数は次第に減って行った。
そして、咲希が小学三年生になる頃には、「彼」は完全に咲希の前には現れなくなってしまったのだ。
「ぶっちゃけ、顔も覚えてないんだよね」
呟く様に言ってから、ほうれん草のおひたしへと箸を伸ばす。
初恋相手の顔を忘れるなんて薄情な奴だと言われるかも知れないが、何分咲希も幼かったのだ。全く会わない相手の顔など、数年で忘れてしまう。
ある程度成長してから、もっとしっかり覚えておくんだった、と後悔したりするのだ。成長した「彼」に再開する事が出来たとしても、忘れてしまっていたら相手が「彼」だと判らない。
咲希はため息を吐いて、おひたしを口へと運んだ。
「まぁ、それは仕方ないな。咲希の記憶力に期待するだけ無駄と言うか」
愛莉は半笑いを浮かべながら、馬鹿にする様にハッ、と息を吐く。いちいち腹の立つ反応をして下さる。
「失礼な。何故かいつも和服着てた事は覚えてる!」
ざまぁみろ、と得意気な顔をして見せると、愛莉は「そうかそうか」と生暖かい笑みを浮かべた。
グッ、と箸を握る手に力が入る。どう頑張っても、愛莉に勝てないのが異常に悔しい。
「何、その子和服着てたの?いつも?」
紀香がフォークの先に野菜炒めをザクザクと突き刺しながら、若干目を見開いた。
咲希は敢えて愛莉を視界から除く様に、少し大袈裟に紀香の方へと顔を向ける。
「うん、そう。浴衣やら甚平やら、バリエーション意外にあった気がする」
「でも、いつも和服って、何か微妙に時代錯誤じゃない?」
「でも、いつも和服のお婆ちゃんだっているじゃん」
何だか怪しむ様な顔の紀香に、咲希はムッとして反論した。
実際、ご近所さんにそういった妙齢の女性がいる。
ちなみに、多恵は案外和服を着ない。家事をするには、洋服の方が動き易いからだと言っていた。
「でも、子供でいつも和服なんて、滅多にいないだろ」
紙パックの野菜ジュースを持ち上げながら、愛莉が紀香を援護する。
それを一口飲んでから、愛莉は面白がる様に口の端を上げてニヤリと笑った。
「そいつ、幽霊か何かだったんじゃないの」
「……うわー、まさかの?」
物凄く、あり得る。怖がるよりも先に、げんなりした。
座敷童子 (オッサンだが)が住み着いている上に、幽霊が出るだなんて、どんな家だ。
しかも、初恋の相手が幽霊だなんて、悲し過ぎる。相手がこの世に存在していないだなんて、初恋は実らないとか、それ以前の問題だ。
「いや、でも、多分触った事あるし、人間だと思うんだけど……」
箸を持っていない方の手を顎に当てて、首を捻る。
自分で言っておきながら、実体があるからと言って人間とは限らないけど、と心の中で突っ込んだ。
実際、喜助が良い例だ。彼は普通に缶を持ち上げるし、咲希の投げ付けた枕も普通に彼の顔面にぶつかった。なので実体はあるのだろうが、喜助は人間ではなく座敷童子 (オヤジだが)だ。
咲希の否定の言葉に、愛莉は至極つまらなそうに顔を歪め、「チッ」と小さく舌打ちした。
それをざまぁみろ、とばかりに鼻で笑いながら、肉じゃがのジャガイモを箸でつまみ上げる。
と、その次の瞬間、
「あっ!美味そうなジャガイモ!」
と、斜め後ろから突然大きな声がして、咲希は危うくジャガイモを箸ごと落とすところだった。
一体誰だと声のした方を振り返り、思わず小さな声で「げ」と呟いてしまう。
出た。──大神優だ。
大神は羨む様に、物欲しそうに、キラキラと瞳を輝かせながらひたすらに咲希の箸の先にあるジャガイモを見つめている。
いつの間に後ろにいたのだろう。全く気付かなかった。
咲希は微妙に大神から身体を遠退けながら、彼に曖昧な笑顔を向ける。
「あ、ありがとう」
「なぁ、それ、俺にくれ!」
「え」
ズイ、と大神が身を乗り出してきた。咲希が身体を引いた意味が皆無になる。
大神は期待に満ちた目で真っ直ぐにこちらを見据えてきた。
至近距離で見つめられると、異様に恥ずかしくなってくるのは何故なのだろうか。自然と頬が熱くなり、咲希は眉をハの字にして視線をさ迷わせる。
「……駄目、か?」
うおぉぉぉ、そんな捨てられた子犬の様な声を出すなぁぁぁ!!と心の中で叫びながら、大神から思い切り顔を反らした。
まだ断っていないと言うのに、無駄に罪悪感が沸き上がってくる。
「あー、いや、うん、どうぞ?」
横目に大神を見ながら、箸の先を彼の方へ向けてジャガイモを突き出した。
若干やけくそな気分だ。決して口には出さないが、これはあげるから、早く何処かに行ってくれと切に願う。
突き出されたジャガイモに、大神の目が更に輝いた。
「マジで!?いいの!?」
「いいよ」
食べてくれて全然構わないから、早く遠くに離れろ。
固い笑顔を浮かべながら、心底そう思う。
「あざーっす!」
咲希のものとは正反対な笑顔を浮かべて礼を言うと、大神は咲希の箸に掴まれたジャガイモにそのままかぶりついた。
次の瞬間、「えっ!?」と言う興奮気味な紀香の声と、「お」と言う面白がる様な愛莉の声が同時に聞こえる。
対して、咲希は即座に何も反応する事が出来なかった。固い笑顔を浮かべたまま、数秒間金縛りにでもあったかの様に固まってしまう。
その代わりとばかりに、思考が物凄い速さで回転し始めた。
今、大神は何をした?咲希の箸から直接ジャガイモを食べた。
それを世間では何と言う?所謂、「あーん」と言うやつだ。
それをすると何が起こる?間接キス、それと異性同士の場合は周りの人に恋人、あるいはそれに近しい関係だと思われる。
そんな自問自答を一瞬の内に終わらせると、終には思考までもが停止した。
「おおっ、めっちゃウメェ!」
モゴモゴと口を動かしながら、大神が一段と顔を輝かせる。
食べながら喋るな、と言う注意すら出て来なかった。
「あんがとなっ!」
ゴクンと口の中のそれを飲み込んだ大神は、嬉しそうに顔を綻ばせて礼を言いながら、フリーズしている咲希の箸を持っている手をキュッと握る。
手が温もりに包まれて、咲希はやっと我に返った。と、同時に、ボッと顔が発火したんじゃないかと思える程一気に熱くなる。
「大神、お前なかなかやるなぁ」
聞こえた愛莉の声は、完全にからかいの色を含んでいた。
「は?何が?」
大神は咲希の手を握ったまま、愛莉の方を見て不思議そうに首を傾げる。
いつまで握っているつもりなのだろうか。そして、自分はいつまでこの羞恥に堪えれば良いのだろうか。
ぐるぐるとそんな事を考えながら、咲希は騒ぎ出した心臓を静めるために深呼吸を試みる。
が、つい目の前に大神がいる事を意識し過ぎてしまうせいで、浅くしか息を吸い込めない。吐き出す息も、無駄に震えてしまう。
「何、二人は恋人だったの?」
「ぶふっ」
キョトンとした紀香の声に、せっかく吸い込みかけた少量の空気を一気に吹き出してしまった。
「な、な、何、ひってんの!?」
動揺し過ぎて、声が裏返った上に台詞を噛んでしまう。余計に恥ずかしい。
「いやいや、恋人じゃねぇから!」
大神はケラケラと笑いながら、特に動揺した様子もなく軽く否定して見せた。
自分と違って余裕そうな大神の態度に、咲希は何となくムッとする。
もしかしたら、大神は恋愛経験が豊富なのかも知れない。しかし、咲希は残念ながらあの初恋しか体験しておらず、恋愛に関しては超ド級の初心者と言っても過言ではない。
唇を引き結んで、顔を赤くしたまま睨み付ける様に大神を見据えた。
その間も、彼は手を放さない。
咲希の視線に気付いたのか、大神はこちらに視線を合わせると、ニコッ、と愛想良く笑って見せた。
「まぁ、でも、もっとお近づきになりたいとは思ってるけどな!」
「べふぇぁッ」
最上級の笑顔で予想外な事を言われ、咲希は思わず吹き出してしまう。
本日二回目だ。流石にこれはマズイだろ、と咲希は口元を押さえて大神から顔を反らした。
自分の弁当にひたすら視線を注ぎながら、大神の発言について思考を巡らせる。
お近づきになりたいって何だ。席は隣なんだから、十分に近いと思うのだがどうなのであろうか。
いや、と言うか、そんな席とか物理的な意味で合っているのだろうか。
「大神君の大胆発言入りましたー!!」
ヒュー、と囃し立てる様な声を上げながら、紀香は箸を持った手をブンブンと振り回す。
口笛ではなく口でヒューと言っているせいなのか、何故か物凄くこちらを馬鹿している様な気がする。
「頑張れ大神。咲希は押して押して押しまくれば、流されるタイプだ」
「どんなアドバイスだ!」
ニヤニヤしながら、グッと親指を立てる愛莉に、咲希は鋭い視線を飛ばした。
押しまくれば流されるなんて、そんな事は無いと思いたい。少なくとも、色恋に関しては流されたくない。
「おっ、じゃ、押しまくりで頑張るかな!」
「やめい!むしろ引け!」
愛莉のアドバイスに悪のりする大神を、全力で拒否する。
何度も繰り返すようだが、咲希は大神となるべく関わらない様にしたいのだ。出来る限りの距離をとりたい。
すると、大神はしゅんと沈んだ様に眉を下げる。
「そんな、全力で嫌がんなくても……」
「うぐっ」
その顔に、子犬を虐げている様な気持ちになった。チクチクと、罪悪感を刺激される。
「いや、そんな、別に嫌がってる訳じゃなくてね?」
慌ててそんな事を口にしてから、あぁ、何を言ってるんだ自分、と頭の隅で思った。
さっそく流されている様な気がしなくもない。
咲希のフォローに、大神は嬉しそうに再び顔を輝かせた。
「マジでっ!?」
「えー、あー、うん」
本音を言うと、嫌です。仲良くどころか、近付きたくありません。
そう思ったが、本当の事など言える訳がない。
と言うか、先程嫌ではないと言ってしまった手間、否定する訳にもいかなかった。
「よっしゃ、これからもヨロシクな!」
大神はニコニコと笑いながら、握ったままの咲希の手をブンブンと上下に振る。
咲希は箸の先がどこかに当たってしまうんじゃないかと、内心ハラハラした。
ひとしきり咲希の手を振った後、大神はやっと手を放し「んじゃ!」と上機嫌に去って行く。
やっと、嵐が去った。そんな気分だ。
咲希はぐったりとしたまま弁当へと向き直る。
「咲希、何時から大神にあんななつかれたの?」
興味津々に聞いてくる紀香に、苦笑いしか返せない。
あれは、なつかれたと言うのだろうか。咲希には、狙った獲物を逃さない様にしている様にしか思えない。
残りの弁当を口へと運びながら、咲希は今日何度目か判らない、深いため息を吐いた。