⑧
エリーは女将と別れてから、怪しまれないように浴場に向かった。
宿を一度出てちょっと歩いた場所に、小さな小屋がある。そこが浴場になっているのだと女将は言っていた。
前もって申し出ておけば、その時間に湯が使えるようにしてくれるらしい。湯を沸かして浴槽に張るのだから、相当手間はかかっているはずだ。
こんな深夜に、女将に仕事をさせるなんて迷惑な奴だと心の底で怒りながらも、エリーは態度に出すことはなく、浴場に通じている脱衣場の扉をゆっくりと開いた。
水音が聞こえる。
本当に湯浴みをしているらしい。
幸いティルはエリーの存在には気付いていないようだ。一歩中に進む。気配は消しているはずだし、このまま気付かれない自信はあった。手前のいかにも手作りで出来ている籐の籠には、ティルの白服がきちんと折りたたまれて入っていた。
――本当、痴漢を働く男のようだな。
エリーの中でおかしな罪悪感が芽生えるが、今更やめることは出来なかった。
薄明かりに目を凝らしながら、丁重にティルの服をどける。
下から橙色の肩掛け鞄が出てきた。
持ち上げてみると、ずっしり重い。
大きな鞄は魔術道具のせいだろうと思い込んでいたが、そうではなかったらしい。
鞄の中に手を伸ばすと、出てくるのは、化粧品と櫛と香水と宝石の数々。
魔術道具など、見当たらなかった。
――女って面倒だな……。
呆れ果てながら、更に念入りに調べる。
ほとんどのものが、そんな手触りだったが、一つだけ質の違うものがあった。
――厚手の紙?
何かの書状か?
興味を持って、引っ張り出す。
一枚、上等な封筒に輝く金色の捺印には、エリーにも見覚えがあった。
……国王の御璽だ。
もしかしたら、これこそティルの「マスター資格」に関する書類なのではないのだろうかと、エリーは急いで中身を確認した。
――だが、結果は悲惨なものだった。
「どうして?」
中の便箋に記されていたのはティルのことではない。エリーに関すること。
それこそ、エリーが持ってなければならない貴重品だった。
「だって、これは……?」
必死になって上着の衣嚢を探った。鞄の中では安心できなかったからこそ、そこに大切にしまっておいたはずだ。
……ない。
エリーの衣嚢内にあるべきものが、今ティルの鞄の中にある。
――なぜ?
こらえきれずにエリーは叫んだ。
「ティルっーーーーーー!」
振り返って、扉を押し開き、剣に手をかける。このまま斬りかかっても良いくらいだった。
しかし、ちゃぷんと水音を立てて、狭い浴槽から立ち上がった影は余裕たっぷりだった。
「一緒に入りたいんですか?」
こんな時でも笑みを声に含ませている。湯煙で判然としないものの、ティルは、ふざけているようだった。心底腹が立つ。
「なぜお前が俺の騎士団任命証を持っているんだ!」
エリーは任命証をひらひらと見せつけながら、叫んだ。
「まあ、エリオット様ったら。無断で人の鞄の中身を見るなんて騎士らしくないですよ」
「お前がそれを言うのか?」
「――やれやれ」
声色ががらりと変わった。曖昧だった陰影がはっきりとした線を描いて人になった。
ティルがいた。
象牙色の肌が薄く桃色になっていて、長時間湯の中に浸かっていたことが分かった。黄色の大きな浴布を胸元から巻いて、腕を組むティルは、エリーの思い描いていた印象を見事に崩してくれた。
――幼く見えたのだ。
金髪を一つに束ねていたことなのか、意外なほど胸がなかったことなのか、原因はエリーにも分からない。
「さすが、国王直轄の近衛騎士団だ。どうやら本当に馬鹿でもないらしい」
驚くほど豹変してしまったティルに、たじろぎながらも、エリーは矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「どうして? なぜ、盗んだんだ? ……それも、いつの間に!?」
「あんたの剣を見てピンときてね。確認したかったんだ」
確かに、騎士団の剣には国章が入っている。騎士団は白。近衛騎士団は黒。しかし、小さな紋様を一瞬で見切り、判別した者をエリーは今まで一度も知らなかった。
「最初に出会ったとき抱きついたでしょう。そのとき、試しに盗ってみようと思って」
エリーは、そのまま倒れてしまいそうなほど衝撃を受けた。
油断も甚だしい。近衛騎士団が女性にすられたなんて知られたら、エリーだけではなく、国王まで嗤い者になってしまう。
「落ち込む必要はない。私の趣味は超一流だから、近衛騎士団くらいに負ける気はしない」
「お前に慰められたくはない!」
しかも、どこかで似たようなことを体験したような気がして、更にエリーの怒りに油を注いだ。
「分かっている。お前がただ者じゃないっていうことくらいはな。俺だって、近衛騎士としての自負がある。並みの人間にスラれるような失敗はしないつもりだ」
「遠まわしに誉めてもらって、どうも」
「お前は何者だ? ただの魔女じゃないだろう。どうして俺に声をかけたんだ?」
「――単刀直入に言おう」
エリーはその一言で思い出した。こいつはフェルディンに似ているのだ。
「……と思ったが、まあ続きは朝にでも。いい加減服を着ないと、湯冷めしてしまうよ」
「朝までなんて待てるか!」
湯から上がって、脱衣場に入ってきたティルに近づき、腕をとる。熱を持った肌は華奢だったが、硬く、骨張っていた。変な感じがした。
「――ティル?」
ティルは動かない。身長が近いので、その碧の瞳は、真っ直ぐエリーの瞳の中に飛び込んできた。何かが違う、違和感がある。
「とりあえず出て行ってよ。着替えたいんだ」
「着替えればいいだろう。女の体なんて見慣れている」
「なかなか問題発言をする騎士さんだね。まいったな」
ティルは、聞き返そうとしたエリーの手を、素早く握って自分の方に引き寄せた。
「何をする!」
怒鳴った時には遅かった。ティルの尋常じゃない力の前に、エリーは容赦なく壁に縫い付けられていた。
「剣の腕は立っても、手が細いな。これじゃ技術があっても、圧倒的な力の前では敵わないかもしれないね」
金色の髪からぽつぽつ落ちる水滴がエリーの頬を流れていく。至近距離で微笑むティルは、色っぽいが女というよりは、まるで……。
――まるで?
エリーは、どんとティルの肩を突き放して、その首筋に手刀を入れた。
「いい加減にしろ! 俺はお前が女だから手を出さないでいたんだ。男だったらとっくに切り捨てている」
いててて、と膝をつきそうになったティルは辛うじて壁を支えに起き上がった。
「ああ、そうね。前言撤回。あんたの腕なら敵う奴は多分……、いないよ」
ようやく首を押さえて、立ち上がる。
――しかし。その体に浴布はなかった。
浴布は……、床の上に落ちていた。
「――おまえ……?」
「え?」
そして、ティルは自分の身の上に起こったことを確認するために、下を向いた。
エリーは自分の思考回路が氷結していくのを感じた。
綺麗な肉体には違いなかった。水を弾くみずみずしい肌に、無駄な肉がない整った体形は、どこかの神殿の彫像にそのままありそうなほど、理想的なものだった。
エリーだって、出来ることならあの体が欲しかった。
……もしも、女が捨てられるのなら。
「――お前、男だったのか……」
掠れていたものの、意外に冷静な声が出てほっとした。その現実は、怒るとか、嘆くとかそういう次元をはるかに超越していた。
女の顔に男の体……。この世の神秘にエリーは直面していた。