⑥
「あれは一体……?」
エリーは、ひっそりと静まり返った部屋の中で、ぽつりと呟いた。
「女神ヴァールを召喚したんだ」
ティルの声は低い男のものになっていた。
ヴァール祭の夜に、エリーを介抱してくれたあの優しい声だった。
後ろ姿で分からないが、きっと顔つきも体格も男に戻っていることに違いない。
「……召喚? 本当に神はいるっていうのか?」
「面白いね。エリー、この国でヴァールの存在を疑っているのは珍しい部類だよ」
「はぐらかすな」
分かったよ、ティルはぶっきらぼうに言った。
「神というのは、絶対的な力の流れのことだと、私は思う。古の力は少々手に余るんだよ。神統協会が扱う上辺だけの術式じゃないからね。特に術を制御することが苦手な私だから、大技を使うならば、町をふっ飛ばさないように結界を、防御壁を張る必要があった」
冗談を口走っているのだとエリーは思った。しかし、大臣の言葉や、術を思い出して顔を引きつらせた。
ティルの言っていることは真実なのだ。
屋敷を覆うように現れた光線がティルの言っている結界というものなのだろう。
「願わくば、そんな展開にならないように、町長の家に滞在している間に、結界を描いていたんだけど、本当に必要になってしまった」
「じゃあ、お前がサンセクトでやらなきゃいけない仕事っていうのは、これのことだったのか?」
「結局、未完成なまま私はミルディアに行ってしまった。最終的な調整が必要だったってわけだよ。だから、あんたを囮にして逃げたふりをしたんだ」
ティルは思いのほか、落ち込んでいる様子で、ぽつりと尋ねた。
「恨む?」
「…………馬鹿だな。そんなことでいちいち恨み言を言ってられるか」
エリーはおかしくなって、噴きだした。
――終わった……と、実感した。
音を立てて落ちたクロスは真っ二つになった。
もうアイリーンの亡霊は甦ることはないだろう。
「最期のアイリーン、良い顔をしてたな」
「…………そうだね」
「俺、本物のアイリーンを領主の城で見たよ。やっぱり、大臣の化けていたアイリーンは偽者じゃないか」
「でも、アイリーンが演技をしている時は、大臣のように振る舞うことも出来るからな」
「ティル……」
「クロスだろうね。あんたが見たアイリーンは、クロスに染み付いた彼女の残留思念だと思うよ。……出来ることなら、私も見たかったな」
ティルは振り返らない。
アイリーンのことを語るティルの声音は、優しく、親しみに溢れている。
恋……ではない。
だが、ティルにとってアイリーンは、肉親以上の存在だったのだろう。
エリーはティルに声をかけようとして、やめた。ティルがこちらを向けないのは泣いているせいじゃないかと思ったのだ。
しかし……。
「――さよなら。アイリーン」
ティルは思いのほか明るい声音で別れを告げると、素早く振り返った。
貧血でその場に座り込んでいるエリーのもとに走って来る。
「傷を見せて」
―――えっ?
エリーは目を見張った。
これがあのティルなのか?
至近距離で見るその姿は、背格好こそ変わらないものの、まるで別人だった。 先日ティルが男に戻っていた時は、エリーにははっきりその姿が見えなかったのだ。
ティルは青年らしい精悍な顔立ちをしていた。肩は男らしく張っていて、特徴的な碧の瞳も、この姿のほうがずっと深みがあって、きりっとして見えた。
エリーもよく美青年だと揶揄されるが、美青年というのは、こういう男のことを指すのだろう。今更ながら強く感じた。
ティルは、そんなエリーの視線にはまったく気付かずに、早々にエリーの袖をめくりあげると、傷口に手を当てた。鋭く抉られた患部はみるみる塞がっていった。
「良かった。痕は残らないみたいだ」
「……ありがとう」
エリーは照れ笑いを浮かべた。正面からティルの顔を見ることは、なんだか気恥ずかしかったのだ。
「エリオットくん!」
そこに、血相を変えてやって来たのは、灰色のローブを身に纏ったスタンリーだった。
「すまない。私は最後まで見届けなければいけなかったのに……」
「いいえ、構いませんよ」
エリーは心の底からそう言った。スタンリーにはどうしても生きていて欲しかったのだ。
「まったく、何とかなったみたいで、良かったよ。本当大変だったんだぜ、領主様を止めるのは。いくら俺が押さえつけても中に入ろうとしちまうんだからな」
イサは癖のある栗色の髪をさすりながら、スタンリーの後ろに立った。
……しかし、直ぐに。
「おい……、もしかしてお前……、あのティルなのか。ちゃんとした男になってる!」
ティルの正体に気がついたらしく、驚倒した。
「仕方ないでしょう。大きな術を使うと体力消耗するんだから!」
スタンリーも目を丸くしている。
「魔術で女性に成りすましていたのか。まったく気が付かなかったな……」
「スタンリー領主、仕方ないですよ。俺も最初は騙されたんですから。お前、いっそのこと、もうそのままで良いんじゃないのか?」
エリーが真面目な気持ちでそう言うと、ティルは頬を膨らませて、不機嫌に言った。
「あんただって、女に戻ったらどうなんだ。礼装姿はとってもお似合いだったんだから」
「ふん。それは明らかに皮肉だな。自分でも、あんな格好が似合わないってことは、よく分かっているんだ」
エリーの言葉を遮るように、イサが叫声を轟かせた。
「ちょ、ちょっと待て! あんた女だったのか!?」
エリーは口に手を当てた。
そうだ。イサはエリーの正体を知らなかったのだ。
「そりゃあ、確かに女顔だとは思ってたけど。嘘だろ? まさか、そんな……、そんな馬鹿げた話ってあるものなのか? ……もしかして。そういう趣味の恋人同士だとか?」
「それは違う!」
二人同時に、否定すると、
「何だ、つまらんな」
いきなり男がつかつかと部屋の中に入ってきた。
漆黒の外套が彼の動きに沿って揺れる。
今度はエリーが男の登場に驚く番だった。
「ああ、あの貴族さんがこの屋敷に領主様が戻るのを、一緒になって止めてくれたんだよ」
イサは無邪気に男を指差した。
「見たところ、上流貴族のようですね」
スタンリーは、ミルディアのヴァール祭で、仮面を取ったこの男を見ていないのだろう。
初対面だと思っている。
男は早足で部屋の中央まで入ってくると、砕けたアイリーンのクロスを丁寧に拾い上げた。
エリーは何とか態勢を変えて、深く頭を下げる。
ティルが声をかけるのを待っていた。
エリーはもうこの男がフェルディンだとは考えられなかったのだ。
しゃがんでいたティルは立ち上がって、エリーの予想通りの名を、低い声で口にした。
「――――ウィラード……」
エリーは動じない。スタンリーが驚愕の面持ちで問うた。
「陛下の御名はレヴィ=ウィラード。まさか貴方が国王陛下でいらっしゃるのですか?」
イサがなかば放心状態で腰を抜かす。
ウィラードは面倒そうに、だが口元に笑みを浮かべて首肯した。




