⑨
………………冷たい。
エリーがまず感じたのは、額に当てられた濡れた布の感触だった。
次に体が重いことに気付いて、身動きがとれないことを自覚していく。
辛うじて自分の意思で、薄く目蓋を開けるものの、まだ視力は蘇ってないようで、ぼやけて、何だかよく見えなかった。
……一体自分に何が起こったのか?
分かるのは、エリーの目と鼻の先に人がいるということだけだった。
「……あっ、目覚めた?」
低く澄んだ男の声だった。先ほどの男だろうが、エリーには、まったく聞き覚えのない声だった。
――一体誰なんだ?
「俺は一体……」
「まだ体を動かさない方が良い」
体を起こしかけたエリーを、男が支える。至近距離で見れば、男は上位貴族のような格好をしているようだ。
そんな男が何故エリーを?
……益々不可解だった。
「あんたが助けてくれたんだな?」
「あんたって、なるほど、分からないのか」
「何か言ったか?」
「いや、まあそういうことだね。ちなみにあんたの腕も治療しておいた。ただ毒だけはすべて除去することが出来なかったから、二、三日は高熱が出る。安静にしておくことだ」
「すまないな」
神妙にエリーが頭を下げると、男は皮袋一杯に入った水を差し出し、エリーに飲ませた。
「別にいいよ。私も脱出するついでだったし」
「……脱出? 一体ここは何処なんだ?」
「馬車の中だよ」
「俺は馬車の座席で眠っていたのか?」
「どうやら、高熱でよく目が見えていないみたいだね。私が見えてないわけか」
「やっぱり、お前ティルなのか!」
声を荒げると、頭痛が更に激しくなった。
慌ててエリーを、冷たい座席に縫いとめるのは、男の手だ。しかしぼんやりと、目映い金髪だけは確認することができる。
――ティルに違いない。
エリーはやっと確信した。
「……テ、ティル。ちょっと待て。その声は一体どういうことなんだ?」
「私は魔術師だよ。一応男だってことはあんただって知っているじゃないか」
「しかしだな……」
「今、サンセクトに向かう途中なんだよ。駆けっ放しは疲れたんで、ここで一休みしているんだ。しばらくしたら、また馬車を飛ばすつもりだから、いまのうちにきちんと眠ったほうが良い。悪路を行く馬車の中では、眠れないかもしれないからね」
そう言いながら、ティルはエリーのこめかみの汗を、持っていた布で丁寧に拭った。
こんなことをしてもらっている時ではない。曖昧だった記憶が鮮明になるにつれて、自責の念がこみあげてくる。
気を失ってティルに助けられるなんて、騎士として失格だ。
「ティル。すまないが、至急フェルディン執務官に連絡して欲しいことがあるんだ。サンセクトをあんなふうにしている黒幕が分かったんだよ。神統協会の……」
「ジル=アセンフィート統轄大臣」
ティルは、早口で断言した。
「……な、何でお前が知っているんだ?」
「あんたが気にすることじゃない。こちらの方が少しばかり情報量が多かっただけだ」
「……とにかく、陛下に伝えて指示を仰がなければいけない。お前が……」
「あんたをこのまま打ち捨てて、私にフェルディンの所へ行けと言うの?」
「由々しき事態なんだ」
「嫌だね」
即答だった。
「陛下はすべて知っているんだよ。あんたはアイツに利用されているんだ。今回の騒動を霍乱するための一人としてね」
「分からないな……」
エリーは虚ろな視線を宙に這わせる。しかし、ティルにそう言われてみれば、確かにそんな気もしないではない。最初からこの密命は怪しい点が多かった。
……何だか、エリーは疲れてしまった。
「お前の言うことが正しいのなら、それで良い」
「もっと怒ったほうが良いんじゃない? あんたこそ相応の報酬を貰っても良い立場だ」
「馬鹿な。愚かなのは俺のほうだ。陛下の意図を掴むことも出来なかった。もっと俺が優秀だったら、うまく事が運んでいたのかもしれないのに。――何が近衛騎士だ」
エリーの心は、込み上げた悔しさで一杯になっていた。
「もっと、強い騎士にならなければいけないんだ。俺は……」
額を手で覆って、濡れた布巾を強く握り締める。うわごとのように呟いたつもりだったのに、しっかりティルは聞いていたようだった。
「一体どうして? なぜそんなことを言うのさ。もう十分じゃないか。今回の件だって、あんたは女だてらによくやっただろう。何であんたは女として生きようとしないんだ?」
しかし、エリーはティルの言う通りに、自分を肯定的に考えられるほど元気がなかった。
だからといって、黙っているのは落ち着かない。
熱のせいだろうか、体も心も弱りきっているようだった。
「俺だって、生まれた時は女だった。当然女として生きていたよ。結婚しようと思った時もあったし……」
「け、け、結婚。あんたが? 本気で!?」
思いのほかティルは慌てているらしい。
「本気も何も、そういうものだろう。女は十代前半が適齢期だって聞いていたし、そういう流れだったから、仕方ないと思っていた」
エリーは平然と答えた。
「あんたの意志は何処にあるわけ?」
「面白いこというな、お前は……。でも、そういうものだろう。俺にとっての世間は、理不尽なものが正当にまかりとおる世界のことだよ」
エリーの首筋の汗を拭っていたティルは、不意にその手を止めた。
「眠ったほうが良い。熱が上がっているんだ」
「フェルディン執務官の所に行ってくれるのか?」
「行かないけど。やっぱり若い男女が……、その……」
エリーにはよく聞こえない。
「じゃあ、何処に行くんだ?」
その黒い瞳は、熱を帯びたせいで薄っすらと濡れていたらしい。エリーは無意識だったが、口調も心なしか心細くなっていたようだった。
中腰姿勢でその場にいたティルは、刹那に硬直して、それから座席の下にどかっと座って、溜息をついた。
「弱ったな……」
エリーにはティルが困惑する理由も分からない。
ティルは暗闇の中、顔を上げて、見えていないエリーの目に視線を合わせてから、尋ねた。
「そもそも、あんたはどうして騎士に? そんな暴挙、よく家族が許したね?」
この期に及んで、おかしなことを訊く。
エリーは、想像していた人物像よりも、ティルがはるかに無垢なことを知った。
「それは簡単なことだろう。俺が働かなければ、一家は飢え死にするからだ」
「だって、そんな……」
「それが現実だよ。そんなものだ。俺には父がいない。父は戦争で死んだ。だから、今いるのは十二人の子供と、病弱な母親だけだ」
エリーは子守唄でも歌うように、軽やかに言った。
「俺は二番目の子供だ。上には兄がいる。でもこの兄がまた人が良すぎて失敗ばかりしていてな。肩書きは貴族だったとはいえ、生活は農夫よりも貧しいものだった。……なのに、これでもかっていうくらい、どんどん借財が増えていくんだ。兄は俺を幼馴染の中流貴族のもとへ嫁に出すことで、援助してもらおうと考えた。無論俺も賛成した。貰い手がいるうちに嫁がなければ意味がないからな」
「……だから、その考えが私には理解出来ない。あんたはそいつで良いと思ったのか?」
「好きでも嫌いでもない」
「そんなの、間違っている」
憤然と言い放つティルがエリーは面白かった。
過去の事情を話して、ここまで熱くなってくれる男をエリーは他に知らない。
「まあ、でも結局その結婚は破談となったんだ。婚約者が俺に気を利かせたのが裏目に出てな。何せ俺は貴族の子女が好むような刺繍やら、楽器を演奏したりだとか……、そんなものとは無縁の生活をしていたから。俺が披露できる特技といったら剣術しかなかった。それで剣技に自信のあった婚約者と、模擬戦のつもりで打ち合って……」
「つまり、それであんたは相手を負かしてしまったってわけか……」
「しかも運悪くそれを婚約者の父君に見られてしまった」
「あー、まあ、そりゃあ。貴族というのは、何よりも体面が大切な生き物だからねえ」
ティルは笑いをこらえているようだった。
まあ、エリーも悪い気はしない。今にすれば笑い話だろう。
「でもなティル、その時、偶然婚約者の父君の所に来ていた客人が黒騎士団の団長だった。俺はもうこれしかないと思って、男装して団長のもとに行ったんだ。団長は最初、子供だった俺を相手にすらしてくれなかったけど、俺が団長の喉元に剣を突きつけたら、やっと入団を許可してくれたんだ」
「ほとんど脅しじゃないの?」
「分かってる。だから、俺はこんなことじゃ駄目なんだ」
乱れてきた呼吸の下で、エリーがそう呟くと、ティルはエリーの額を撫でて頬を撫でた。
指先がひんやりとして、気持ち良い。
「俺は男よりも男らしくなって、騎士らしい騎士にならなければいけいない。俺の歩める道はどうせこれしかないんだ。ならば、それを力で証明しなきゃいけない。そうだろ?」
「気持ちは分かるよ」
思いのほか真面目なティルの言葉だった。
「私も昔は剣士を目指していたからね。誰よりも強い剣士になって、ある女を守りたかった。自分にはその才能があるし、負けるはずがないと子供の頃は思っていたんだ。その自信がその女が与えてくれた傘の下でしか通用しないことも知らずにね……」
――それは、アイリーンのことなのだろうか?
エリーは何となくそう感じていたが、夢心地にティルの話を聞いていた。
「自信に溺れていた私はある日、敵に捕まった。屈辱的なことだったよ。彼女をおびき寄せる囮として使われたんだ。私はねエリー、その時自分が死んでいれば……と何度思ったか知れないよ。自分の決定的な失敗のせいで、彼女が犠牲になったんだからね」
「―――彼女は死んだんだな?」
エリーは率直に尋ねた。
ティルもそれを求めているのだと感じた。
エリーと同じ感情をティルも抱いていることが分かったのだ。
「そう、彼女は死んだ。私は何もかも彼女から奪ったんだ。魔女としての能力も、可能性も、女性としての夢も、恋人も……、全部。私は彼女の遺言を果たすために魔術師になった。だから、最強だった彼女の意志を継ぐような魔術師でいなければいけない」
「しかし、ティル。……それは、お前一人のせいじゃない。時代のせいだろう? お前はその遺言のために、陛下のもとで戦ったんだ。きちんと役目を果たしたはずだ」
ティルの表情を窺う体力もないエリーは、ティルの上質な服の裾を掴んで訴えた。その手をティルがしっかりと握り返した。
「そう思うなら、エリー、あんたも一緒だ。今回の件はあんたのせいじゃない。自分だけを責めたって良いことなんてない。自分を責めるのは、自分が弱いからだ」
「――ティル」
「私にまかせて、あんたはゆっくり休むんだ。いいね」
本当にティルだろうか。エリーは何も言い返せない自分に驚いていた。声色も体格も違う。それでいて真面目な言葉を吐くティルがエリーには信じられなかった。
いつもいい加減でのらりくらりしているティルとは大違いだ。
……しかし、気持ちは落ち着く。
エリーのことを、有りのまま受け入れてくれる唯一の相手のように感じた。
再び眠りに落ちていくのが分かったが、エリーはもう無理に体を動かそうとはしなかった。
ティルが近くにいてくれるだけで、安心して眠りに身を委ねることができた。




