⑧
……しまった。
エリーが自覚した時には、鼓動が早鐘のようになっていて、薄着をしているはずなのに、冷や汗がとめどなく流れていた。
部屋を出る際に、気絶したスタンリーの様子に目がいってしまったせいだろうか、飛んでくる矢をうまく避けられなかった。それでも肩に少し掠った程度だったので、楽観していたのだが……。
さすが、町長。どうやら、毒を矢の先端に塗りこめていたらしい。
「油断したな。騎士殿」
背後で町長が嘲笑している。いつもなら軽口を叩く余裕くらいは、持っているエリーだったが、今は走ることで精一杯だった。町長とその手下二、三人ならば、うまく撒くことができると考えていた。
しかし、そんなことはなかった。エリーが不審者だという情報はとっくに流れていたらしい。追っ手の人数がどんどん膨れ上がっている。
せっかく手にしたアイリーンのクロスも隠し部屋の中で落としてしまい、事態は最悪の状況に進んでいた。こんなことなら、宴会場にでも逃げ込めばよかった。
ひっそりと逃げるつもりでいたので、華やかな場所から余りにも離れすぎてしまった。外に出たものの、退路を確保するほどの元気がない。しかし、追っ手はエリーの体調など知りもせずに向かって来る。
飛んでくる矢は、足元ばかりに落ちているので、生け捕りにしろという指示が出ているのだろうが、それでもエリーは、おめおめと捕まるわけにはいかなかった。
低い生垣を飛んでひた走る。しかし、長い礼装が足に絡まって思うように走れない。
「ったく、女になんかなるんじゃなかった」
心底後悔するエリーの瞳に、高い壁が飛び込んできた。どうやら、行き止まりらしい。
とうとう、終わりか。何だかやけにすっきりとした気持ちで、エリーは片手にぶら下げていた短剣を両手で握って振り返った。
「さあ、相手は誰だ? お前か!」
突然の逆襲に、たじろぐ追っ手の中へエリーは飛び込んで行った。
エリーをただの女だと思って、侮っていたのだろう。屈強な男達は、次々とエリーの短剣と体術によって、赤子のように倒されていった。
……あと、三人。
辛うじて動いている体を、エリーは引き摺り、走ろうとする。
だが、重心がぐらっと傾いて、やがて目の前が真っ黒になった。
「――――あっ」
エリーはそのままの速度で自分が突っ伏したことを、新たに擦りむいた腕の痛みで自覚した。おそるおそる、衛兵たちがエリーに近づいてくる。
「矢が掠ったんだ。毒が回っているんだろう」
町長の下卑た声に、エリーは必死に四肢を動かそうとするが、どうにもならなかった。
抵抗できない……。
それを感じ取った男達は、エリーに向かって獰猛に走り寄ってくる。
……何たる失態だ。
エリーは自分が情けなかった。
もっと、何か方法があったはずだ。
なのに、あまりにもエリーは無力だった。
湿った芝生の草の匂いに、朦朧とする意識を辛うじて繋ぐ。気力だけで、落とした短剣の方へ指先を這わせていると、頭上にふわっと風が起こった。
揺れる自分の黒髪を意識して、エリーは顔を上げた。やはり、ぼんやりとしか見えない。ただ、誰かがエリーの探していた剣を持っていることだけは分かった。
「見えないのか……」
低いが、よくとおる優しい声音だった。
……男だ。
それは分かる。だが、エリーにはまったく聞き覚えのない声だった。
「あんた誰だ?」
「そんなことより、脱出が優先だ」
男はそう言うが早く、エリーの胸元にあった首飾りをはずした。
「何を?」
「いざというときの備えさ。宝石というのは、自然の力を引き出してくれる良いものだよ。たとえ偽物であったとしてもね」
毒のせいだろうか。男の話す言葉の意味がエリーにはまったく分からなかった。
しかし、次の瞬間の出来事だけは、エリーの消えそうな意識にも、鮮烈な色彩のまま飛び込んできた。
男が石に向かって何事か小声で呟いた。
……その瞬間、エリーの視界は真っ赤に染まった。
「火薬……?」
――違う。
「……魔術」
やっと、エリーは気がついた。
――もしかしてコイツ?
「あれ? ちょっとやりすぎた。――て、これはおおいに予想外な展開だな」
疑問を口に出せないまま、エリーの意識は遠のいていった。




