⑦
静寂を伝える淡い月明かりが、ジルとウィラードを照らしていた。
暫くの間、眼下の街に広がる赤い松明を眺めていたウィラードだったが、やがてティルを追いかけるように、露台から、部屋の奥に引っ込んだ。
「貴方も行くのですか?」
衣擦れの音で、ジルがこちらに近づいてくるのが分かる。まだ話し足りないようだった。
「そりゃあ、行きますよ。少し遅れたほうが格好良く決まるかと思ったんです」
だから、ウィラードはそう答えながらも、空になったグラスに並々と酒を注いだ。この一杯を猶予時間と決める。
「うまい酒ですね。大臣」
ジルは染みとおるような微笑みを浮かべた。
「貴方は……。それに毒が入っているとは思わないのかしら? ……先程の話の続きですが、貴方は何もかもご存知なのでしょう?」
ウィラードは、グラスの酒をくるくると回しながら、さらりと言ってのけた。
「例えば、貴方が前国王フレイムの酒に毒を盛ったからって、今ここで俺に毒を盛ることはしないと俺は思っていますよ。貴方は今、そういうことをするような人ではない」
「―――やっぱり」
ウィラードは知っていたのだと、ジルは納得の表情を見せた。
「俺は貴方に感謝している。あの時、前国王が生きていたら、内戦は長引いて、更に罪のない人たちが大勢死んでいた」
「だから、貴方は私を統轄大臣に据えたのだと、…………知っていましたわ」
「一部の貴族から俺は圧倒的な恨みを買っている。そういう意味で貴方は本当に公正だ。うまくまとめてくれると思っていました」
「世の中ってうまく行かないものね。どうしても私とは組みたくないのかしら? 念を押すのは不自然だけど、私の口にしていることは偽りではないわ。貴方を悪いようにするつもりはない。アイリーンのためにも」
「アイリーン……ねえ……」
「彼女のクロスを通じて、少しだけ彼女の過去を見たの。若い日の貴方もいた」
ウィラードは動じない。ただ、彫りの深い顔をわずかに歪めて苦笑した。
悲しかったのだ。
少し前だったら、ジルの一言に激しく揺さぶられていたはずだ。
だが、今は予想通りの言葉に、どんな感情も示すことができない。ティルのように熱くなれないのだ。
「貴方はアイリーンの記憶に引き摺られたのでしょう。俺も分かっていましたよ。貴方がなぜ、サンセクトの町であんなことをしていたか……」
確かに、サンセクトでウィラードを中傷するのは、隣のアリスタの人間に愚王と思わせる、良い作戦なのかもしれない。しかし、手間がかかりすぎる。そんな大掛かりなことを、なぜ彼女がしたのだろうか。
……理屈でないのなら、理由は簡単だ。
「サンセクトで昔、俺たちは戦ったことがある。その記憶を見たのですか。大臣」
ウィラードは注いだ酒を一気に喉に流し込んだ。
――時間だ。
グラスを、きちんと丸テーブルの上に戻すと、ゆっくりと部屋から出て行く。
「陛下……」
ジルの呼びかけに、ウィラードは突き放すことしか出来なかった。
「貴方がアイリーンに引き摺られたのは、貴方に中身がないからだ。貴方が政治のために息子を捨てられるのも……、貴方が俺と組むために、同志を裏切ることが出来るのも……、すべては、貴方という個人が存在していないからだ。貴方のことを為政者としては尊敬しています。でも俺は、信頼関係を築くのなら、血の通った人間と決めているんでね」
「理想論だわ……そんな優しい気持ちだけでは、この世界で立ち行けない」
その通りだな……と、ウィラードは思った。
自分の言っていることは理想論だし、願望だ。
そう、うまくいかないことは熟知している。だから、そんなことが利用価値のある彼女を敬遠する大きな理由ではないのだろう。
じゃあ、一体?
そして、ウィラードは開けっ放しになっていた扉から足を踏み出すわずか一瞬で、結論を見出した。
……何だ。そういうことか。
気付いてしまえば、少しだけ嬉しくなった。
「俺はただ、アイリーンを道具にした貴方が許せないだけですよ」
言い捨ててから、自分もまだまだ熱いらしい……と、ウィラードは微苦笑した。




