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「……苦い」
空になった杯を置いて、エリーは机の上に突っ伏した。
夕べと同じ宿の食事席。
机の木目をなぞりながら、視線だけ前に向けると、忙しく立ち回る女将の姿を眺めることができた。
「ティルさん、今日は帰って来ないの?」
「知るもんか」
エリーは不機嫌な感情を抑制できずに答えた。葡萄酒を一杯飲み干したせいか、視界がゆらゆらと揺れていた。
もう夜も深い。
もしかしたら、ティルは戻ってくるのではないかと、少しだけ心配して待っていたが、そんなことはなかった。
店の客はエリーだけで、女将は、そろそろ店じまいをしようとしているらしい。ティルが朝までに帰ってくる可能性は薄いだろう。
「……なんだかなあ」
男だと知ったら、町長はティルをどうするだろうか。気にならないわけではなかったが、助けに行く気力はなかった。
エリーを散々振り回した男だ。
あの後、殺気だった村人を必死で撒いて、這這の体で、この宿まで戻ってきたのだ。
幸い、エリーに気付く者はいなかったし、地元の人間が宿に泊まっているとは考えにくい。このまま女将が黙って泊めてくれれば、今夜だけでもエリーの身の安全は保証されることだろう。
「――なあ、女将」
エリーは、杯に嫌いな酒を注ぎながら、さりげなさを装った。
「今日……、妙な噂とかを聞かなかったか?」
「噂って、どういうものですか?」
女将は、洗いものをしていた手を止めて、腕を組んで考えはじめた。
あれだけの騒ぎをエリーは起こしたのだから、当然女将の耳にも入っていることだと思っていたが、気に掛ける必要はなかったということだろうか。
「じゃあ女将、もしもここに町の誰かが俺を訪ねて来たら……」
ふふっ、と女将は肩を震わせている。丸い顔一杯に笑みがあった。
「騎士様。私、聞いているんですよ。聖女様を罵倒した旅の騎士がいるって。貴方が一生懸命だから、続きを聞きたくて、知らないふりをしてしまいました」
「じゃあ、知っていたのか。その騎士が俺だって? つくづく不甲斐ないな。俺は……」
こういう時の演技指導でも、騎士団で受けていれば良かったと、エリーは本気で後悔していた。女将は洗い立ての食器を布巾で丁寧に拭きながら、大きな体を揺すって笑った。
「私たちの暮らしはまだマシなのかもしれません。外国の方々や、旅の方々に宿泊して頂いて、お金は入ってきているんですから……。それでも、やっぱり苦しいのは確かです。このお酒を、うんと薄めて出したりして、せせこましく節約しているんですから」
「そうなのか?」
気づかなかった。それを二、三杯飲んだ程度で酔った気になっているのだから、エリーは相当酒に弱いのだろう。
「まったく、戦争していたときの方がまだ暮らしが良かったなんて、酷い話です。一番困っているのは、この町の人向けに商売をしている人たちでしょうね。だって、入ってくるお金も少ないのに、税金でうんと持っていかれちゃうんですから」
「そうか。そうだよな。俺はもっと早く女将に聞いていれば良かったかもしれないな」
エリーは心底そう思っていたのだが、しかし、女将は違っていたらしい。
「貴方が何者かなんて、野暮なことは聞きませんけど、この町を調べていらっしゃるのなら、最初に私から話を聞かないで、正解だったと思いますよ」
「どうして?」
「私の意見は、どちらかというと、少数派の意見ですからね。特に聖女様に関しては……。実は、聖女アイリーンについては、町の中で意見が二分しているのですよ」
「――で、女将はどう思っているんだ?」
「私は、騎士様と同じ意見ですよ。聖女なんてものは信用していません。あの人はアイリーンではない」
エリーが怪訝な表情を浮かべると、女将は棚から木の杯を出して、卓上の瓶から自分の杯に酒を注いだ。
「私の亡くなった夫が先の戦争でアイリーンを見たんです」
「――魔女アイリーンを?」
「ええ」
女将は一気に酒を飲み干した。あまりにもおいしそうに飲むので、エリーにも一瞬酒がうまいもののように見えてしまった。
「私もちらりと姿を見かけたことはあります。この町の人はみんな知っているんですよ。だからこそ、今の聖女としてのアイリーンを受け入れる素地があったんです」
「そういえば、この町は戦争の時、外国から武器の輸入をするために、使われた港だったんだってな」
そんな話をエリーは、以前上官から聞いたことがあった。
「そう、この町の港は、戦時中、前国王が武器の輸入をするために、使用していたんです。私にはよく分かりませんけど、軍事的に重要な場所だったらしいです。そこで、武器を破壊するために、当時反乱軍と呼ばれていた現国王と、その部隊がこの町にやってきた」
「アイリーンはどんな魔女だったんだ?」
「夫が言うには、苛烈な女性っていうくらいのものでしたけど……」
明らかに、今日見たアイリーンの印象とは違うようだった。
神殿で、町人相手に演説をしていたアイリーンは、まさしく「聖女」という表現がお似合いの清楚で、上品な印象を持った女性だった。
少なくとも、外見はアイリーンなのだろう。そうでなければ、アイリーンを知っている町の人たちがついていくはずがない。
「ティルは……」
「えっ?」
「魔術師ティルはどうだったんだ? この町にいたのか?」
「魔術師? ティルっていう少年は、アイリーンの側にいたかもしれませんけど。よく覚えていませんねえ」
つまり、アイリーンが活躍していた時代というのは、ティルは無名だったということなのだろう。だからといって、アイリーンとティルに接点がないとは考えにくい。
神殿でのティルは、アイリーンを悲しいくらいに気にしていた。
頭が混乱する。ティルの人を食ったような顔が浮かんできて、エリーは腹が立った。
よくは分からないが、ティルにはティルの考えがあって、動いているはずだ。
だから、エリーにはエリーにしか出来ないことをしないといけない。
――どうする?
王都に戻って報告するには、決定打にかけるような気もするし、往復の時間が惜しい。
都には、手紙でさりげなく町の窮状を知らせるべきだろう。
「歯がゆいな……」
近衛騎士の称号を持つエリーだが、政治に対する権力はほとんど持っていない。
それに、国王に進言するだけで、すぐに解決する問題とも思えなかった。正規の手続きが必要だった。……そのためには。
「女将、この町はどの都市の管轄なんだ?」
「ここはミルディア領ですよ」
「……ミルディアか」
――ミルディア。
王都に匹敵するほど豊かな財源を持っている、グローリアでも一、二を争う大都市。小さな領地ながら、北方のフローラルという村で採掘される宝石「フローラルナイト」は「神の涙」と称される。神々しく、澄んだ青い色をしているらしい。勿論、庶民のエリーは一度も見たことがない。
だが、近年外国でも評価が高いらしく、買い付けに来る行商人は絶えないそうだ。エリーは、サンセクトに来るため、最短距離を目指したのでミルディアを通らなかった。しかし、サンセクトからミルディアは近いはずだ。
「距離は近いですよ。騎士様の鍛えた足なら三日で着くでしょう。でも道は険しいです」
「馬が使えないっていうことか?」
「使えないことはないですけど、遠回りになります。シザの向こうにある町ですからね。最短距離で行くのなら、山道になりますね。私達もよっぽどのことがなければ、ミルディアには行きませんから……」
神殿のあった山の向こうだと分かったエリーは、曖昧に頷くと、瞳を鋭く細めた。
「つまり、既に『よっぽどのこと』で、女将は、ミルディアに行ったことがあるのか?」
女将は特に隠していたわけではないのだろう。あっさりと肯定した。
「ええ。……でも、ミルディアの領主は、私達庶民とは、面会してくれませんでしたよ」
「町の人間が、領主に嘆願に行ったのか?」
「そりゃあ、あらゆる対策は、住民の手で、とっくに試しています。試しても駄目で、結局、貧乏人か、聖女の妄信者がこの町から離れられなくなってしまっただけですよ」
赤い前掛けに、桃色の衣装。派手な装いは、自らを、町の人を鼓舞し、この現状を何とか乗り切ろうとしている女将の切実な願いに、エリーには見えた。
「女将、俺は明日の朝早々にこの宿を発つよ」
「騎士様……」
エリーは苦手な笑顔を精一杯作り出した。
「やはり、物事には順序がある。領主に相談してみるのが先だろう。ミルディア領主から、すべての領地を管轄している統轄大臣に伝えてもらうんだ。そうすれば、最終的に国王の耳にも入る。乗りかかった船だ。何とかしないとな」
エリーはただの騎士ではない。仮ではあるが、近衛騎士だ。この身分を持ってすれば、領主も不躾な振る舞いはできないはずだ。
それに、この問題を片付けることこそが、国王の真意なのだとエリーは確信していた。
「すぐに帰って来るから、部屋をそのままにしておいてくれるかな?」
「ええ、それは勿論ですが……。い、いえ、何でもないです」
そう言うものの、女将は細い目を宙に漂わせて、逡巡している様子なので、エリーは追及せずにはいられなかった。
「気になるじゃないか。言ってくれ」
「実は、その、ティルさんのことで……。貴方には言うなと口止めされていたんで、黙っていたんですけど。……でも」
「俺が許す。言ってくれ」
つい、口調が荒くなる。エリーは勢いよく、丸卓に体を乗り出した。
「ウチが法外に取られていた300ペニを、ティルさんが取り返してくれたんです」




