一面の青
拙文は『命』という重いテーマについて執筆されており、また、生き方を強制させるような誤解を招きやすい表現がいくつかございます。
なので、拙文とそこに込められたメッセージは、単なる一個人の意見としてのみ受け止めて頂きますよう、よろしくお願い致します。
〈一面の青〉
今日も僕は見慣れた街並みを歩く。
季節は夏。汗ばんだ額を腕で拭って、ひたすら足を動かし続ける。
もちろん趣味で散歩とか、そんなのじゃない。
大学への進学を希望している人向けの夏期講習を受けるために、わざわざ毎日のように焼けた大地を踏みしめているのだ。
正直な話、僕は偏差値のいい大学なんかに興味はないんだけど、両親の意向でただ漠然と受講している。まあ、浪人は勘弁だし勉強するに越したことはないだろう。
歩きながら、おもむろに天を仰ぐ。
晴天だが立ち並ぶビル群に阻まれて、とても広大な青空とは言い難い。むしろ窮屈さすら感じてしまう。
「……ん?」
ふと頭上を見上げているはずの視界の端に人影が映った気がして立ち止まる。
不可思議に思い見渡すと、いた。
隣の路地に聳える一際高いビルの屋上、その鉄柵にもたれかかる、髪の長い――女性だろうか。
あんなところで一体なにをしているのか。
日向ぼっこ? 仕事の休憩? それともサボり?
平和的な意見が腐るほど思い描かれ、しかしそれらをまとめて消滅させてしまう危うさを彼女は携えていた。
ヤバい! 本能が叫ぶのに任せて僕は地を蹴っていた。
疾駆したその先は廃ビルだった。扉の抜けた出入り口を跳び越えて屋上へ急ぐ。薄暗い屋内。エレベーターはもちろん停止していて、階段を使うしかない。遠目に眺めても十階近くあった気がする。
だけど行かなくちゃ。
懸命に腕を振り、階段を駆け上がる。もうどれだけ登ったか曖昧になる頃、遂に屋上へと続く鉄扉に到達した。
錆びて硬くなった扉はまるで他人の侵入を拒絶しているように思えたが、構わず強引に押し開ける。外から強烈な冷たい風が吹き込み、奔走に火照った身体を撫でた。
そこに見えたのは、上空に果てしなく広がる蒼穹、そして、
「……誰?」
孤独に佇む少女の冷淡な眼差しだった。
年頃は僕と同じくらいだろうか。手足は細くスレンダーな体型で、背筋の引き締まった立ち姿は一見するともっと年上にも思える印象だが、大人と呼ぶにはいささか違和感がある。
薄手のブラウスに紺のスカートは巷の学生となんら変わりないし、加えて彼女の外面には、まったく手入れが行き届いていないのだ。化粧っ気がなければ、伸び放題の髪は櫛も通しておらず、ずいぶんとお洒落に無頓着のようだ。
それでいて輪郭はやたら張り詰めていて、その切迫した様子は否応にも僕に並々ならぬ緊張感を与えた。
「僕は……」
反射的に答えようとして、その回答がないことに気づく。
そう、僕は単なる部外者だ。目の前の彼女と接点などないし、冷静に戻ればここへ来た理由すら判然としない。
しかし――
眼球だけを動かして状況を観察する。彼女の足元に遺書を連想させる封筒や綺麗に並べられた靴はなかったが、それより早く白い裸足が視界に飛び込んでくる。
僕の悪い予感は的中していたのかもしれない。胸中で僅かに後悔しながらも、息を呑み、問いかける。
「きみは……死のうとしてたのか?」
その声は自分のものとは思えないくらい遠くで聞こえ、
『死』という言葉が意味するところを、どうしてか僕は理解できずにいた。
「だったらなんなの?」
不躾な問いへの彼女の反応はどこまでも淡白で、それが僕のなにかを刺激した。もしかしたら、安っぽい正義感だったのかも。
まるで激昂したように感情が暴走、受け売りの正論を振りかざす。
「自殺なんてしちゃ駄目だ! どんな事情があっても自ら命を捨てるなんて……。生きてさえいればいいことだってあるんだ!」
ただひたすら、がむしゃらに吠える。ドラマとか漫画とかでよく聞く、なんとなく誰もが察している一般論を。
当然、僕がそんなのを意識して生活したことは一度もない。
いちいち細かいことを考えて生きる必要なんてないのだから。
身振りを交えて情熱的に説得する僕を、少女は無表情でじっと見つめていたが、ふと微かに嘆息して目を伏せた。
その姿は、どこか失望しているようにも映り、
「なら、生きる意味ってなに?」
彼女の発する声、そのあまりの冷たさに僕は戦慄を覚えた。
「人の生には共通点がひとつだけ、それは死という概念よ。どれだけ充実した毎日を送っても、逆につまらない日常に退屈してばかりいても、死は一瞬、それで終わり。そんな風に、どうせすべて失うなら、いつ死んだって同じだと思わない?」
間違ってる。言おうとして、だけど声が出なかった。
口がすっかり乾ききってるからとか、そんな下らない理由じゃない。
反論するには材料が少な過ぎるのだ。まず彼女の理屈を正しく解読できるほど、僕は生に対して自分の意見など持っていない。
とはいえ従順に頷くわけにはいくまい。それはつまり、自殺を認めるということ。『自殺はいけません』もはやそんな使い古しの倫理観だけが僕の支柱となっていた。
だから沈黙するしかなかった。是でも、非でもなく。
そんな現状を見かねてか、それとも思惑があるのか、彼女は鋭い瞳を細めて僕を睥睨し、ことさら真剣味を帯びた口調で言った。
「明日、またここへ来て。そしてあなたが生きる意味を聞かせて」
「え……」
無造作に言葉を切り、彼女はそれきり僕に背中を向けてしまう。そして対面した者の存在など忘れてしまったかのように、気怠げに向き直り青空を見上げた。
いまいち頭の回転が芳しくない僕は、しばらく茫然と立ち竦み、ようやくことの重大さに気づいた。
ふたつ、確信したことがある。
まず第一に、彼女の自殺までに猶予が与えられたことだ。期限は明日、ただし僕が約束を守った場合に限る。
そしてふたつ目、彼女の生命は僕に託されたということ。
きっと彼女は僕を通じて見定めているのだ。本当に、生きるという行為に価値はあるのか。
ちっぽけな双肩に尋常でない重圧がのしかかる。僕程度の小童が抱えるにはあまりに重すぎる荷物だ。
まとまらない僕の意志。助けたいという感情はとうに萎縮してしまっていた。どうするべきなのか。真に猶予を得たのは、僕の揺れる心の方なのかもしれない。
とにかく今日はもう引き返そう。沈んだ気持ちで踵を返そうとして、ふと思い出したように振り返る。
「あの……っ」
慌てたせいで扉の鉄枠に躓いて、危うく転びそうになった。そんな僕の醜態を、首だけを向けて鉄面皮で眺める彼女。これは強敵だ。
「なに?」
「俺、アツシっていうんだ。きみの名前は?」
そう、出会いが唐突だったお陰で自己紹介もままならなかった。どうにか説得を試みようにも、相手のことを最低限でも知らなければ話にならない。
静謐が研ぎ澄まされ、まさか黙秘かと不安に感じた頃、やっと反応が窺える。
再度空を仰ぎ、彼女は哀惜を湛えた背中で小さく呟いた。
「ヨーコ」
結局、予備校はサボった。別にいいさ、厳密に出席を取っているわけでもないし、一日くらい。
それに今は勉強よりもっと思案すべきことがある。
いかにしてヨーコを説得するか。
だけど僕は、彼女がなぜ死にたいのかもわからない。
彼女のことを知りたかった。向こうの事情を把握した上で言葉を練らないと、どうにも改心させられる気がしないし、またそこには安易な好奇心もあった。
とはいえ本人に尋ねようにも別れてしまった直後だし、どうにもできず無目的に街を徘徊する僕。するとヨーコのことばかり考えていたせいか、ふと視界に入った前を歩く少女とヨーコの背中が重なる。
「あれ……?」
騒がしく友達と会話をする女子中学生と孤独に佇むヨーコ。そこに共通点などあっただろうか。
しばし目を凝らし、気づく。服だ。ヨーコも中学生も、僕が通っていた隣の中学校の制服を着ていたのだ。
目の前の中学生は登校日だったのだろうか、それはまあいい。
問題は、なぜヨーコが中学の制服を纏っていたのか。まさかあの見目で三つ以上も年下? そんな馬鹿な。
不可解はさらに増すが、これは大きな手がかりだ。
僕はポケットの携帯電話を握りしめた。
『よぉ、久しぶり。元気してたか?』
あれから帰路に着き、真っ先に僕は友達に電話をかけた。
これはひとり目だが、他にも数人に電話しようと画策している。そいつらの出身中学はすべて等しい。
「悪いけど与太に付き合ってる暇はないんだ。用事だけ聞いてくれ」
目的はもちろん、
「お前の通ってた中学に、ヨーコって名前の女、いるか?」
彼女の情報収集だ。
ありふれた名前だし、有益な情報が得られるとは考えていない。けれど行動に移さずにはいられなかった。これでも闇雲に臭い台詞を模索するより幾分はマシなはずだ。
『……どうしてそんなこと訊く?』
しかし僕の質問に奴は声音を低くした。なにかを知っているのか? 僕は彼に真実を明かすべきか一瞬だけ迷い、結局はぐらかすことにした。
「そんな名前を小耳に挟んでさ。少し気になっただけだよ」
『……まあ、有名人だからな。同名の女もいるけど、噂に上がるって言えばそいつで間違いない』
厳かな、けれどどこか陰鬱な口調。
『俺たちと同級生に、園崎陽子って奴がいてな。生徒会の副会長を務めてたんだが……三年生の後半から不登校になったんだ』
「なに?」
同級生と聞いて、その女性がヨーコである可能性は急増した。これで無駄に電話のダイヤルを回す必要性も合わせて減少したわけだ。
『卒業後の進路はわからない。家庭も引っ越して行方知れずだ』
「どうして不登校なんかに?」
『――親友が死んだんだ』
途端、心臓が跳ねる。
死。これまで微塵も意識せずにいた、そしてゆえに今、すぐ隣に肉薄して僕を震撼させる言葉。
『野上五月。同時期の生徒会長で……交通事故だってさ』
淡々と宣告される事実に、携帯を握る手が震える。
間違いなく園崎陽子はヨーコだと、直感が告げる。
彼女が頑なに死を望む理由が、ようやくわかった。それは予想以上に深く、軽薄に命綱を投げ込むのも躊躇わせるほどに、重かった。
続けられる友達の言葉は、もう鼓膜に届いていなかった。
ヨーコは既に人の死を経験している。だから彼女の理論はあれほど重圧があり、また理路整然としているように感じられたのだ。
けれど同時に、一筋の光明が差した。
彼女を救えるかもしれない。
★
空を仰げば、一面の青。
猛暑の中で階段を疲労困憊に登った先、彼女はまた空を見ていた。
地上からでは決して拝めない景色。この世界を埋め尽くさんばかりの快晴に、彼女はなにを思うのか。
「来たのね。じゃあ教えてもらえるかしら、あなたが生きる意味を」
気配を察してかヨーコが振り向く。
しかし僕はその問いを無視、彼女へ歩み寄って深々と頭を下げた。
「ごめん、きみの過去について聞いた」
「――ッ!」
瞬間、ヨーコの身体が強張り、憤慨を湛えた双眸で僕を捉える。当然だ。軽々しい気持ちで踏み込んで許される領域ではない。
それでも威圧に負けてすごすごと引き下がっては男として失格だ。
せめて救いたいって自分の意志だけは貫徹しなくちゃ。
「けど、お陰でわかったんだ。やっぱりきみは死ぬ必要なんてない」
ヨーコを正面に見据えて、はっきりと口にする。彼女は怪訝な顔をしながらも、無言で続きを促した。
「確かに親友を亡くしたのは辛いことだと思うけど、跡を追って自分も死のうなんて馬鹿げてる。だってそれは、親友に命を捧げるってことじゃないか。――彼女もきっとそんなことは望んでない」
ヨーコは親友と過ごした過去の日々に縛られているのだ。
楽しかった思い出、ゆえに涙した記憶、それらを抹消したくても叶わない。ならばいっそ自分の存在ごと消してしまおうと。
まったく馬鹿げてる!
「彼女のためにも、きみは生きなくちゃ――」
「うるさい‼」
僕の熱弁と高揚する胸の鼓動を、大空を真一文字に切り裂く喝が遮った。
「そんな説教いらない! 早く質問の答えを教えなさいよ! あたし、サツキが死んじゃってから、自分が生きる意味がわかんなくなっちゃったのよ……」
激怒はやがて嗚咽に変わり、ヨーコは涙に濡れた顔を両手で覆って静かに泣き始めた。
やはりそれがヨーコの精神を極限まで追い詰めた核心か。
人生の中でなにをどれほど積み上げようと、いずれ死神がそのすべてを崩していく。ならば積み上げる行為にいかなる意味があろうか。
彼女を慰める権利は、僕にはない。できることと言えば、彼女の要求に基づいて、自分なりの解答を提示するだけだ。
「僕が生きるのは……死にたくないからだ」
「……どういうこと?」
「言葉通りの意味さ。死が怖いから生きてるんだよ。僕だけじゃない、みんな――きみも、サツキさんだってそうだ。自分から交通事故に遭おうなんて考える輩なんていない」
その言い回しは、我ながらいささか卑怯だった。
死んだ親友の名前。ヨーコの心を動かす目的においては最高のスパイスだが、良識では触れるべきではないのだろう。
でも僕の中では、分別なんかより彼女の生命の方が遙かに優先順位が高かった。サツキさんも、親友のためなら許してくれるはずさ。
「きみも、死が怖いから、絶望の淵に立ちながらも三年間生き続け、僕に生きる意味を求めたんだろう? その制服を着て――思い出を抱えたままで」
「そんなっ……、そんな屁理屈で納得できないよっ!」
涙を撒き散らし、悲愴的に叫ぶヨーコ。
次に彼女が起こした行動を、僕の双眸は不思議とスローモーションに捉えていた。
風に揺れる長髪を鮮やかに翻し、足元のコンクリートを蹴る。すぐにビルと虚空を――生と死を隔てる鉄柵へと辿り着き、そこに手をかける。そして一片の躊躇もなく――跳躍!
「ちくしょおぉぉぉ‼」
一拍遅れて右手を伸ばす。徐々に縮まる二人の距離。
けれど彼女はもう飛んでしまった。あとは……落ちるだけだ。
視界から彼女の姿が消える。
もう少し……!
――まだ、伝えたい言葉があるんだ。
そして掴んだのは確かな体温、生者の証だ。
あとは純粋に筋力勝負、背中を焼く太陽の熱気にやられそうな身体に鞭打って、宙吊りのヨーコを内側へと引き揚げる。
すると腰が抜けてしまったのか膝から崩れ落ちたヨーコを、僕は自然と抱き寄せていた。彼女からの抵抗はない。
小さな肩を抱く僕の拳は、怒りに震えていた。
僕は彼女の、そして自分自身の鼓膜すら震わす轟音で咆哮する。
「どうしても明確な生きる意味が欲しいなら、それを探し出すために生きろ! わからないまま死ぬなんて、ただの逃げだ! サツキさんをお前が逃げる言いわけにするんじゃねぇ!」
死とは無だ。なにもない、なにもできない。僕みたいに無知なクソガキにだってわかること。
けれどヨーコは生きている。生きていれば、なにかができるんだ。
人が生きようと思う理由なんて千差万別、わからなくたって当然だ。ぶっちゃけ僕だってわからないし。
でも、だからこそ諦める理由にはならない。
僕はヨーコの頭を優しく撫で、その耳元に囁く。
「本当は、怖かったんだろ?」
幾度も、幾度も撫でてやる。肩にこぼれ落ちる涙が熱い。
しばらくその体勢でいると、彼女がゆっくりと顔を上げた。
泣き腫らした瞳や頬は真っ赤で、けれどもう泣き止んでいた。
そしてヨーコは僕の瞳をまっすぐに見据えて、
「ありがとう」
視界一面に広がる澄んだ空を背景に滲んだ涙に彩られたそれは、初めて目にした彼女の笑顔――
――生きることを望む表情だった。
読んで頂きありがとうございます!
後半のアツシの台詞が、未熟で無知な今の私のありったけです。
他人に意見を押しつけようとは思っていないので、拙文はただの自己満足ですが、誰か一人でもアツシとヨーコのことを頭の片隅に留めておいて頂けたら、私にとって至上の喜びでございます。