音群さん
「音群さん、何か食べる?」
「……いい」
僕の部屋には音群さんがいる。
音群さんは僕の地元に伝わる言い伝えに登場する、言わば河童や天狗みたいなものである。そんな音群さんが、どうして僕の下宿先にまでやってきたのかはわからない。僕にはそれを聞く勇気すらない。
僕のおばあちゃんの子どもの頃にはもう在った話に登場するくせに、何故だかピンクのパーカーとホットパンツにニーソックスとどこかのアニメに出てきそうな格好をしている。加えて、常にパーカー付属のフードを被り、ヘッドホンを首に掛けている。
昔話によると、音群さんは幸福も不幸ももたらさず、気に入った声の家主の元に座敷わらしのように転がり込み、そしていつの間にか出ていってしまうという。
現に僕の部屋でも特に何かをするわけでもなく、壁にもたれ掛かって、時折ヘッドホンで何かを聞いているくらいだ。話しかけても素っ気ない返事ばかり。いつの間にか僕の中での音群さんの位置付けは部屋の付属物くらいになっていた。
そんな音群さんを横目で見つつ、質素な夕食に下包みを打つ。だが一人で夕食を食べている横で、ずっと座っていられても正直なところ、気が散ってしまう。むしろ気まずさすら感じてしまっていた。
「ねえ、一つ聞いていい?」
「……なに?」
「音群さんはどうして僕の家を選んだの?」
聞くまでもない愚問だ。僕は一人暮らしをしている。つまり僕の声を気に入った以外に、音群さんが僕の風呂なしトイレ共同のワンルームに住み着くわけがないのだ。
「……声」
予想通りの回答。分かっていたが、どう答えればいいんだろうか。
僕は再びやってくる気まずい沈黙を覚悟した。だがそれが一転して――。
「……祐一の声が好きだから」
「えっ?」
これまでの音群さんにない直接的な物言い。
音群さんの鈴を転がしたような可愛らしい声が、心地よく思える。フードの内側にキラリと見えた音群さんの円らな瞳。それらが相俟って、急激に僕の鼓動を高鳴らせる。
ヤバいな……。
冷静で居続ける自信が、音を立てて砕けていく。突如として音群さんを抱きしめたい衝動に駆られる。
「ねえ、音群さん」
「……なに?」
「えっと……その……抱きしめて、いいかな?」
何を言ってしまっているんだ、僕は。こんな大胆なことを言ってしまっては、どんな女の子にも嫌われてしまうことなんて分かっているじゃないか。それが喩え、人魚だろうと、天使だろうと、音群さんだろうと、だ。
だけども、僕の予測を遥かに超えて――
「……構わない、けど」
僕は目を見開いて音群さんを見つめた。今まで見たことがないほど、音群さんの顔がハッキリと見える。雪のように真っ白な肌が、朱に染まっている。猫のように丸っこくて愛らしい瞳。
僕の鼓動が加速するのに、理由はなかった。
そして僕は引き寄せられるように音群さんに腕を回し、思いのままに音群さんを抱きしめた。
*
朝になると音群さんはいなくなっていた。
結局抱きしめただけで、それ以上のことは何もなかった。むしろずっと抱きしめていただけで幸せだったし、耳元で音群さんに名前を呼ばれると急に我に返って照れ臭くなり、そそくさと布団を頭から被って、自分の世界に逃げ込んでしまったくらいだ。
二三日前と同じ状態に戻っただけなのに、部屋に空いたスペース以上に僕の心に空いた穴は大きい。
だけど実際に音群さんがいた証として、枕元にはヘッドホンがポツンと置かれている。
いつも音群さんがしていたように、壁に背中を預けて、少し俯いてみる。
――――ヘッドホンを耳に当てると、音群さんが耳元で呟いてくれているような気がした。