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稀代の聖女

作者: 望月冴子
掲載日:2026/10/08

 聖女候補に選ばれたと聞いたとき、レイナは三日泣いた。


「無理です、絶対無理です。人違いですぅ」


 迎えに来た白衣の神官を前に、十五歳の少女は母親の腰へしがみついて離れなかった。

 聖女選定の儀に参加できるのは、国中から選ばれた十五歳の少女だけ。今年、神託によって名を呼ばれたのは三十人だった。

 選定の儀は毎年行われていたが、ここ十年以上、試練をクリアして祭壇まで辿り着いた者はいない。 そのため王国にはもう十年以上、聖女がいなかった。

 今年こそは、と大神殿も王家も大きな期待を寄せているらしい。

 そんな話を聞けば聞くほど、レイナは自分がますます場違いに思えた。

 王都の大神殿へ集められた少女たちは、みなレイナとは違って見えた。

 貴族の娘もいた。治癒術を学んできた者もいた。剣を扱える少女もいれば、聖典をほとんど暗唱できる子までいる。

 対してレイナには、これといった取り柄がなかった。

 村で生まれ育ち、家では鶏の世話と畑仕事を手伝っている。鶏が突然羽ばたけば悲鳴を上げるし、畑で蛇を見つければ泣きながら逃げ帰る。雷が鳴れば布団をかぶり、知らない犬に吠えられれば道を変える。

 聖女にふさわしいどころか、人一倍臆病で情けない少女だった。


「選定の儀では、神域の森を抜けていただきます」


 大神殿の広間で、大司祭が候補者の三十人を見渡した。

 

「森の最奥には古き祭壇があります。三日目の日没までにそこへ辿り着き、神の祝福を受けた者に、聖女となる資格が与えられます」


 少女たちの間に緊張が走った。


「帰りたい……」


 つぶやいたレイナを、隣にいた赤毛の少女が呆れたように見る。


「まだ始まってもないでしょ」

「だからいまなら帰れるよぉ」

「国中の少女から選ばれたのよ。名誉なことじゃない」

「名誉いらなぁい……」

 

 大司祭の話によれば、森には危険もあるという。険しい地形、魔力による幻惑、野生動物。そして、ときには魔物が姿を現すこともある。


「ですが、恐れてはなりません」


 大司祭の声が広間に響いた。


「聖女とは、民が恐怖に震えるとき、その先頭に立つ者。己の恐れに打ち勝ち、苦しむ者を救う者でなくてはならないのです」


 少女たちが真剣な顔でうなずく。レイナだけがふるふると手を挙げた。


「あのぉ」

「なんでしょう」

「恐れに打ち勝てそうにない人は、いまここで帰っても……」

「なりません」


 レイナは肩を落として、およよと泣いた。


 翌朝、三十人の少女は神域の森へ入った。レイナも仕方なくぷるぷるしながら赤毛の少女の服の裾を掴んで、一番後ろをついていった。


「ねぇ、一緒に逃げちゃおうよぅ……」

「諦め悪いわね。いい加減、覚悟決めなさいよ」


 最初のうちは、ほとんど遠足のようだった。木漏れ日の差す道を歩き、清らかな沢を渡る。森には小鳥の声が響き、青や黄色の小さな花が咲いている。

 少女たちは次第に緊張を解き、互いに話を始めた。


「意外と普通ね」

「神殿が脅かしすぎなのよ」

「全員が期限までに祭壇へ着いたら、どうやって聖女を決めるのかしら」


 レイナは会話に参加しなかった。

 木の洞を見るたび、中から何か出てくる気がした。茂みが揺れるたびに足を止め、鳥が突然飛び立てば肩を跳ねさせた。


「いま、なんかいた!」

「リスよ」

「大きかった! あんな大きいリスに噛まれたら絶対痛いよぉ」


 昼を過ぎるころには、すっかり皆から笑われるようになっていた。

 けれど夕暮れになって、森の空気が変わった。最初に気づいたのはレイナだった。


「ねぇ、なんか、変じゃないかなぁ」


 赤毛の少女が振り返る。


「何が?」

「静かすぎるよぅ」


 少女は耳を澄ませた。風が枝を揺らし、葉が擦れ合っている。


「普通じゃない?」

「ううん。鳥がいないのぉ……」


 昼間はうるさいほど鳴いていた鳥たちの声が、いつの間にかひとつも聞こえなくなっていた。

 誰かが笑った。


「夕方だから巣に帰ったんじゃない?」

「レイナは何でも怖がりすぎなのよ」


 そう言われると、何も返せなかった。確かに自分は何でも怖がる。だから今回も、怖がっているだけなのかもしれない。それでも足が進まなかった。


「私、こっち行きたくない。別の道探そうよぉ」

「また始まった。大丈夫よ、私たちが守ってあげるから」


 一行が先へ進む。置いていかれるのも怖くて、レイナは半泣きになりながら後を追った。

 ほどなくして、低い音が聞こえた。ぐうう、と地面の底から響くような音だった。

 今度は全員が立ち止まった。


「何?」


 誰かがようやく怯えた声で呟いた。

 木が一本揺れ、続いてその隣の木も揺れる。風ではなかった。もっと大きな何かが、森の中を移動している。


「魔物……?」


 剣を持ってきていた少女たちが前へ出た。赤毛の少女も、服を掴むレイナの手を振りほどいて飛び出していった。

 大司祭の言葉が少女たちの頭に蘇る。

 恐れてはならない。己の恐怖に打ち勝て。

 木々の向こうから、それは姿を現した。

 最初に見えたのは、巨大な角だった。続いて黒い頭が枝を押し分ける。牛にも似ていたが、顔の中央には縦に裂けた口があり、そこから何本もの白い牙が突き出していた。  

 少女たちは動かなかった。あまりにも巨大だった。剣を抜いた少女さえ、構えたまま固まっている。

 怪物が一歩進み、地面が揺れた。

 逃げたい。怖い。でも、それは許されない。聖女になろうという者が、魔物を前に背を向けてどうするのか。

 少女たちが必死に自分へそう言い聞かせる中――。


「いやああああああああ!」


 レイナは逃げた。一目散だった。


「レイナ!?」


 誰か──たぶん、あの赤毛の少女──が呼んだが、振り返らなかった。


「ごめんなさあああい! みんなも逃げてぇぇぇぇ!」


 泣きながら走った。

 後ろで怪物が吠えた。木が折れる音がし、続いて少女たちの悲鳴が響いた。

 戻らなくてはと思った。ほんの一瞬だけ。それでも足は止まらなかった。怖かった。

 あんなものに噛まれたら痛い。踏まれたらもっと痛い。死ぬのは絶対に嫌だった。


「ごめんなさい! ごめんなさいぃ!」


 泣きながら謝り、それでも走った。

 枝が頬を打った。木の根につまずいて転び、膝を擦りむいた。立ち上がる間にも怪物の吠える声が聞こえた気がして、痛みを確かめる暇もなくまた走った。

 やがて木々が途切れ、レイナは急停止した。

 目の前に、大きな裂け目があった。


「うそ……」


 谷は深く、底を流れる川が細い銀色の線にしか見えない。向こう岸までは三メートルほど離れている。

 レイナは後ずさった。


「無理だよぉ……」


 走り幅跳びなんて得意ではない。村の川だって、大きな石がなければ飛び越えられない。

 森の奥から何かが木を倒した。振り返ると、黒い角が見えた。


「いやあああああ!」


 次に何をしたのか、自分でもよく分からなかった。

 怪物から離れたくて走った。ただそれだけだった。なのに進行方向には谷しかない。


「いやああああああああ!」


 足元から地面が消え、レイナは宙にいた。

 気づくと向こう岸へ胸から落ち、草の上を転がっていた。腕を擦りむき、脇腹を石にぶつけて息が詰まる。


「いたいぃ……」


 涙を流しながら起き上がると、谷の向こう側で怪物が止まっていた。

 自分のいる場所を見る。怪物を見る。その間にある谷へ、もう一度目をやる。


「……私、ここ飛んだの?」


 信じられない。

 けれど怪物が再び動いたので、考えるのをやめた。


「来ないでぇ!」


 それからもレイナは、ひたすら逃げた。

 暗くなっても火は焚かなかった。暗闇は怖かったが、火を見つけて何かが寄ってくるほうがさらに怖かった。

 洞穴も見つけたが入らなかった。中に熊がいたらどうしようと思った。

 見慣れない木の実は食べなかった。綺麗な花にも触らなかった。怪しい音がすれば道を変え、獣の足跡を見れば反対へ行き、風向きが変わっただけでも何度も立ち止まった。

 正しい道など、とうに分からなくなっていた。祭壇へ向かっているのかさえ知らない。

  ただ死にたくなくて、家に帰りたいだけだった。

 母の作った温かいスープが飲みたい。父のいびきを聞きながら眠り、朝になったら鶏に餌をやりたい。突然羽ばたかれて驚いて、それからいつものように文句を言いたい。

 聖女になんてならなくていい。立派な人間でなくてもいいし、臆病者と笑われても構わない。

 ただ、生きて帰りたかった。

 三日目の朝、森の向こうが突然明るくなった。

 レイナは足を止めた。木々の間から白い建物が見える。そこまで近づくと森が途切れ、広い草原の中央に古い祭壇が立っていた。

 それが試練のゴールであることに、しばらくしてようやく気づいた。


「着い……た……?」


 レイナは呆然と立ち尽くした。

 祭壇の周りには神官たちがいた。彼らもまた、森から現れた泥だらけの少女を見て呆然としている。

 やがて一人が叫んだ。


「候補者が来たぞ!」


 何人もの大人が駆け寄ってくる。


「一人か!?」

「名前は!」


 レイナは答えようとした。けれど、もう逃げなくてもいいのだと思った瞬間、三日間どうにか動き続けていた体から力が抜け、その場にぺたりと座り込んだ。


「こわかったああああああ!」


 大声で泣いた。


「もうやだぁ! 帰りたい! おうち帰るぅ!」

「落ち着いて。もう大丈夫だ」

「大丈夫じゃないよぉ! すっごいのいた! でっかいの! 口がこんなで、牙いっぱいあって、私逃げちゃってぇ!」


 神官が毛布を持ってきた。別の神官が水を差し出す。レイナは泣きながら受け取ったが、手が震えて半分ほどこぼした。


「他の候補者たちは?」


 その言葉に、レイナは泣き声を止めた。

 森を振り返る。誰も来ない。


「……わかんない」


 小さく答えてから、また涙があふれた。


「私、みんなを置いてきちゃった……」


 昼が過ぎ、夕方になっても、ほかの少女は現れなかった。

 やがて西の空へ夕日が沈み、祭壇の大鐘が鳴った。三日目の日没。聖女選定の儀は、その瞬間に終わった。

 期限までに祭壇へ辿り着いた候補者は、ただ一人。


「聖女様」


 最初にそう呼んだのは、一人の老神官だった。

 レイナは毛布にくるまったまま顔を上げた。 


「……え?」


 老神官は祭壇の前で跪いた。


「十年以上もの間、誰一人として越えられなかった神域の試練を、ただ一人で越えられたお方。あなたこそ、神がお選びになった次代の聖女です」

「違いますぅ!」


 レイナは即座に叫んだ。


「私、逃げてただけですぅ!」

「謙遜なさらなくてよいのですよ」

「謙遜じゃないですぅ!」


 周囲の神官たちも次々と跪いていく。


「聖女様!」

「神よ、感謝いたします」

「王国に新たな聖女が誕生した!」

「──違うってばぁ!」

 誰かが白い聖衣を持ってきた。王都へ早馬を出せと叫ぶ人がいる。老神官は涙まで流していた。


「よくぞ、よくぞ試練を越えられました」

「越えてないよぉ!」

「あなたほど勇敢な少女を、私は知りません」

「勇敢じゃないぃ!」

「聖女様!」

「あたしはただの怖がりだよぉぉぉ!」


 レイナは毛布にくるまり、祭壇の前でわんわん泣いた。

 翌朝、森へ捜索隊が入った。

 レイナはぶかぶかの聖衣を着せられて、祭壇のそばに座っていた。本当なら昨日王都へ戻るはずだったが、ほかの少女たちのことが気になって帰れなかったのだ。

 昼を過ぎたころ、森のほうから声がした。


「見つかったぞ!」


 レイナは飛び上がった。

 木々の間から捜索隊が現れる。その後ろには、泥と埃で汚れた少女たちがいた。


「みんなぁぁぁ!」


 レイナは聖衣を引きずって駆け寄った。

 足を引きずっている少女や、頭に包帯を巻かれた少女がいる。それでも二十九人の候補者は、一人も欠けていなかった。


「あんたも無事だったのね!」


 仲間に肩を貸していた赤毛の少女が、レイナの姿に顔を綻ばせた。


「その衣……。期限までにたどり着いたのね。合格おめでとう」

「そんなのどうでもいいよぉ!」


 レイナは少女に縋りついて泣き喚いた。


「ごめんなさぁい! あたし、みんな置いて逃げちゃって、ごめんなさい!」

「何言ってるの」


 赤毛の少女は疲れ切った顔で、少しだけ笑った。


「あんたが逃げたから、私たちも逃げたのよ」

「……え?」

「あのとき、みんな逃げちゃいけないって思ってた。聖女候補なんだから戦わなくちゃって。でも、あんたが突然叫んで走っていくから」


 少女は呆れたように息を吐いた。


「なんか馬鹿らしくなったのよ。死んだら聖女も何もないでしょ」


 レイナが逃げ出した直後、赤毛の少女の号令で、他の少女たちも逃げたのだという。

 レイナと違って優秀な二十九人はなんとか怪物を躱しながら一人も欠けることなく、岩山の奥に狭い洞窟を見つけた。

 怪物は入口まで追ってきたものの、巨体がつかえて中には入れなかった。少女たちはそのまま持っていた食料を分け合い、捜索隊が来るまで身を潜めていたらしい。  

「あんたのおかげで、みんな助かったのよ。聖女様 」 


 赤毛の少女が笑った。レイナがぽかんとしつつ否定しようとすると、背後から震える声がした。

 

 老神官が両手を組み、感激に打ち震えていた。


「他の二十九名の命までお救いになったとは……! やはりあなたこそ、神のお選びになった聖女様!」

「だから、違うってばぁ!!!」


 レイナの叫びもむなしく、その日、王国中の鐘が新たな聖女の誕生を告げた。

 当の聖女は帰りの馬車へ乗るときにもずっと赤毛の少女の服を握りしめ、あの化け物が追ってこないか何度も確認していたという。


 * * *


 こうして、王国史上もっとも臆病な聖女が誕生した。

 その後もレイナは、ちっとも勇敢にはならなかった。

 城の井戸水の匂いがいつもと違うと言って泣き出す。港の風が妙に生ぬるいと怖がって王都へ帰る。隣国の使者を見た途端、「あの人なんか怖い」と泣きながら逃げ出したこともある。

 そのたびに、レイナは今度こそ聖女ではないとわかってもらえて解放されるかと思ったのに、なぜか逆にさらに崇めたてられた。

 いわく、井戸の中に毒が見つかったとか、数時間後に港へ大津波が押し寄せたとか、使者は王の暗殺を企てていたとか。

 そうして王国はその後、戦争も疫病も災害も、その他多くの危機もことごとくすり抜けて、大いに栄えたという。

 後世の歴史書には、聖女レイナについてこう記されている。


 ──数多の災厄を予見し、王国を百年の繁栄へ導いた、稀代の聖女。


「だから聖女じゃないってばぁ! そろそろおうち帰してぇ!」

「ほんとに諦め悪いわね。いい加減、認めちゃいなさいよ」

「違うんだってばぁぁぁ!」


 稀代の聖女は、今日も赤毛の女騎士の服を掴んで泣いている。

 めでたし、めでたし。




 おしまい


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