「一緒に走ろう」と言っておいて自分だけ先に行くのはずるいですよね
「ルビエ・コレール、お前との婚約を破棄させてもらう」
邸宅に呼び出され、婚約者である伯爵令息ウェイン・エーゲン様から告げられたのは、まさかの言葉だった。
この方が婚約に乗り気でないのはなんとなく察していたけど、まさか婚約破棄だなんて。
「理由をお聞かせください」
私はこみ上げる困惑や怒りを抑え、なるべく冷静に問う。
「お前は走るのが趣味だったよな。王都の運動場でもよく走っているとか……。だが、貴族というのは本来ゆっくりと優雅に歩くものだ。バタバタと走るなんてのは高貴な人間のやることじゃない」
ウェイン様は薄汚いものを見るような目で私を見てきた。
「ようするに、お前のことは好みじゃないんだ。別れよう」
コレール家はしがない子爵家、エーゲン家は指折りの伯爵家。
抗弁しても無駄なのは明らか。
だとしたら、私にできることは傷口が化膿する前に、彼とのやり取りを速やかに終わらせることだけ。
「分かりました。短い間でしたが、お世話になりました」
悲しくない、悔しくないといえば嘘になる。
父らにも申し訳ないと思う。
だけど、趣味をバカにしてくるような人と結ばれずに済み、ホッとしている部分もある。
走る時は前を向いて走るもの。それは人生も同じだ。
私はそう思いながら、エーゲン家の邸宅を後にした。
***
婚約解消に伴う手続きは滞りなく終わった。
私が手にしたのは、向こうからすればはした金と言える程度の慰謝料と、辛い思い出だけだった。
だからこそ、前を向かねばならない。
辛いことがあったら、走るのが一番だ。
私はいつもそうしている。
王都には貴族専用の運動場があり、私はよくここを訪れていた。
私は長い黒髪をポニーテールにまとめ、白いシャツ、ハーフパンツ、ランニング用のブーツ姿で準備体操をする。
場内には各種スポーツを行えるスペースやトレーニング施設、あとはランニング用のトラックもある。
ウェイン様はああは言ったけど、ここを使っている貴族はそれなりにいる。といっても大半が子爵以下の下級貴族で、体を鍛えて立身出世を目論むとか、あるいは美容のために運動をするとか、そういう人が多いんだけどね。私のようにただただ走るのが好き、という人間は少ない。
「さ、ひとっ走りしようかな」
私は駆け出す。
決して急がず、のんびりもせず、自分のペースでトラックを駆けていく。
走るのは本当に楽しく、何周もできてしまう。
しばらくして、走り終える。ボトルで水分補給をしながら汗を拭く私を、周囲はぽかんとした表情で眺めていた。
きっと一人でひたすら走っている私に、呆れているのだろう。
そんなある日のこと、私がいつもの出で立ちで準備運動をしていると、声をかけられた。
絹糸のような金髪、翠玉のような穏やかな翠色の瞳を持つ、凛々しい青年だった。白シャツに伸縮する素材のズボン、運動用ブーツを履いている。
ここにいるということは貴族なのだろうけど、初めて見る顔だった。新興貴族の方だろうか?
「初めまして」
「初めまして……」
私はきょとんとする。
この運動場で声をかけられたのは初めてだ。
「よかったら、一緒に走らない? ペースを合わせて、軽く十周ぐらい」
「いいですよ」
ダンスの誘いよりも嬉しい走りの誘い。私は快諾した。
私たちは並んで、一緒にスタートする。
すると――
(えっ!?)
青年は先に行ってしまう。
私を突き放し、どんどんスピードを上げていく。
(一緒に走ろうって誘っておいて、なんなのかしら。まあ、別にいいけど……)
私は自分のペースを堅持しようとする。
だが、ここで青年は――こっちを振り向いて笑った。
明らかに挑発的な笑みだった。
(私を出し抜いて得意げになっている……そっちがその気なら、私も!)
心に火がつき、私もペースを上げた。
青年に並ぶと、彼はさらに突き放そうとするけど、私はすぐに追いつく。
「ぐ……!」
「ふふっ、どうしました?」
私が笑みを送ると、青年はムキになる。
ペースを上げるけど、そんなハイペースはいつまでも続くものじゃない。
みるみる私に追いつかれ、抜き去られる。
「……くっ!」
「それではお先に」
私もつい挑発的な言葉を浴びせてしまう。
その後も青年は追いつこうとしてくるけど、私は差を広げる。
やがて、十周を走り終える。
私の息はほとんど乱れていなかったけど、青年はぜぇぜぇ言っていた。
ドリンクを持って、私は青年に声をかける。
「“一緒に走ろう” と言っておいて自分だけ先に行くのはずるいですよね」
青年は苦笑いする。
「いやぁ、参った。ずっと走っている馬みたいな令嬢がいるって聞いて、勝負を仕掛けてみたけど、お話にもならなかったよ」
馬みたいな令嬢……そんな風に思われていたんだ。みんながぽかんとしてた理由も分かった。だけど悪い気はしない。だって馬は私の理想像だから。
「私もこれでも剣術や槍術をやっていて、体力には自信があったんだけどなぁ」
私は敗因を教えてあげることにした。
「見たところ、あなたは筋力や体力そのものは私より上です。ですが、私に負けたのは、走り方が下手なんです」
「走り方が下手……」
「あなたは力任せに走っていた。あれではスピードは出ず、体力ばかり消耗してしまいます」
「しかし、君は全然そうじゃないね。むしろまだまだ走れそうだ」
「はい、私は走っているうちに、あまり疲れることのない走り方を身につけることができまして……」
青年は目を見開いた。
「それだ」
「え……」
「実は、私はある歩兵団を率いる身でね。ぜひ君に、兵士たちに走り方を指導してもらいたいのだが……」
「ええと、あなたは……」
「これは失礼。申し遅れた。アルメス・ドゥケインと申す」
「……!」
ドゥケイン家は、辺境防備の任務に携わる公爵家。
歴史的にもこれまで幾度も外敵の侵略を阻んできた。こと防衛に関しては敗北の記録はない。
王家にも『ドゥケイン家が抜かれたら国が滅ぶ準備をしておけ』なんて格言があるそう。
ドゥケイン家が所有するドゥケイン歩兵団はその強さ勇猛さから世界最強クラスの歩兵軍団として知られている。
なぜ、騎兵が発達しなかったかというと、ドゥケイン家領は牧草が育ちにくく、馬を大量に飼育するのが難しいためである。
「とはいえ、我が歩兵団も騎兵とぶつかってやり合える自信は十分にある。問題は……機動力だ」
「機動力……」
「白兵戦なら無類の強さを誇るが、より遠くへより早く移動するといったような機動力は、我が歩兵団には欠けている。ゆえに私はその機動力を高めてくれるような人間を探していたんだ」
アルメス様は私に頭を下げた。
「どうか、歩兵団に“走り方”を伝授していただきたい」
公爵家のエリートでありながら、この謙虚な振る舞い……。あまりにも見事だった。
私は迷わず、この頼みを引き受けた。
「かまいませんよ! 私の力、お貸しします!」
「……ありがとう!」
***
私は正式な客人という形で、ドゥケイン家に招かれた。
しかし、私が期待するのは名門公爵家の手厚いおもてなしではなく、自分の力を役立てることのできる“場”である。
アルメス様も私の意向を汲み取ってくれ、さっそくドゥケイン歩兵団の訓練所に案内された。
長い黒髪をポニーテールにし、屈強な男性たちを見据える。
全員の視線を向けられるが、その中に私が女だからというあざけりや、あるいは下心のようなものは一切感じられず、ドゥケイン歩兵団の質の高さを肌で感じることができた。
アルメス様が兵士たちに言う。
「今日からしばらく、このルビエ嬢に“走り方”の指導員になってもらう。軍団の機動力を高めるため、彼女の走り方をしっかり吸収するように!」
私は指導に入る。
私の走り方の大きなコツは、まず足で地面を強く蹴らないこと、そして足裏全体で踏み込むこと、上半身を極力ぶらさないこと。このあたりだ。
もちろん、他にも呼吸の仕方とか、腕の振り方とか、細かいコツはあるんだけど。
この“ルビエ走法”とでも言うべき走り方を、私は歩兵団の人たちに一生懸命教えた。
兵士たちも熱心で、よく質問をしてくれたり、自分のフォームを見て欲しいと頼まれたりした。
教わる側が熱心だと、教える側としても楽しいしやりがいがある。
私も歩兵団の皆さんから“教わる”気持ちで、徹底的に指導した。
一ヶ月もすると、歩兵団の面々は私の走法をだいぶマスターしてくれた。
「すごいなこれ……」
「全然力を使わないや」
「十の力で百の速さを出せるって感じだ」
自分が編み出した技術が、歴戦の勇士たちに認めてもらえるというのはやっぱり嬉しい。
今日も私は兵士たちの先頭に立つ。
「さあ、ランニングしましょう。ペースをなるべく早く保ち、なおかつ長く走りましょう!」
「はいっ!」
領内を大勢で駆ける兵士たちの姿は、もはや日常の光景となった。
***
もう一つ、私はアルメス様とよく一緒に走るようになっていた。
普通の貴族は椅子に座りながら談笑を楽しむものだけど、私たちは走りながら談笑を楽しむ。
「ルビエ、君の走法を取り入れたおかげで、歩兵団のレベルはぐんと上がったよ。機動力にいたっては、神速の如しと言っていい」
「ありがとうございます。ですが、これも歩兵団の皆様が真面目だからですよ。私の指示をよく聞いてくれて、よく質問してくれて……」
「君の指示が分かりやすく的確で、なおかつ彼らが真面目だからというのもあるだろう。だけど、君が女性としてあまりにも魅力的だから、というのも大きいだろうね。どうしても張り切りたくなる」
「私が……?」
アルメス様はうなずく。
「古来より、男子というものは女性の前では自分を強く見せてアピールしたがるものだ。これは本能とでも言うべき習性だね。君に魅せられて、兵士たちの士気は大いに上がっている」
「そんな風には見えませんでした……」
「それは仕方のないことさ。“女性がいるから張り切ってます!”なんて態度は意地でも見せたくないのも男子というものなのだから」
私はアルメス様をちらりと見る。
「それは、アルメス様もですか?」
アルメス様はふっと笑う。
「どうだろうね。ただ一つ言えることは……」
「言えることは?」
「君と一緒に走っていると、本当に楽しいよ」
「私もです!」
体が火照り、鼓動が増える。
これは決して走りだけが原因ではなかっただろう。
「よし、ちょっと飛ばすよ」
「あっ、ずるい!」
最終的に競走になるのもお約束だ。
こうなったら私としても負けられない。
アルメス様との真剣勝負だ。
「いやー……参った。まだ本家には敵わないな」
「アルメス様もだいぶ速くなりましたよ。今日は結構本気を出しましたもん」
「結構、か。ルビエに追いつくのはまだ先の話になりそうだ」
「必ず追いついてくださいね、アルメス様」
「……もちろんだ!」
私たちにとっては走りこそがなによりのデートだった。
しかし一方で、国内の情勢には不穏な空気が漂っていた。
***
王国で大規模な反乱が起こった。
かつて、問題行動を起こし、貴族に不適格と見なされ、多くの土地財産を王家に没収された有力貴族がいた。
その貴族は没落後もさまざまな闇商売で資金を集め、大勢の兵を雇い、ついに蜂起したのだ。
とはいえ、国軍と正面衝突するにはまだ力不足であり、彼らは貴族の子息をさらってその身代金で資金を集めようと画策した。
この時、大活躍したのがドゥケイン歩兵団だ。
聞くと、アルメス様は前々から国内の不穏さを敏感に察知しており、そのため私のような指導者を探していたとのこと。
反乱軍はドゥケイン家領にも攻め込んできたけど、武力と機動力を併せ持つ歩兵団の前にはあっけなく返り討ちにされる。
アルメス様はこれだけにとどまらず、打って出て反乱軍を殲滅させようと決意する。
歩兵団はその無尽蔵のスタミナと私の教えた走法で、国内を縦横無尽に駆け回り、騎兵もいる反乱軍を圧倒。
反乱軍は敗退を重ね、ついには賭けに出て王都に攻め込むが、国軍の精鋭の前になすすべなく敗れ去り、反乱を起こした貴族も戦死した。
ドゥケイン歩兵団は元々誉れ高き部隊だったけど、この一件でさらに名を上げることとなる。
ちなみに、この反乱で私の婚約者だったウェイン様は、なんと反乱軍に捕らわれてしまったという。
必死に逃げるもその足は遅く、反乱軍からは「亀を捕まえるより簡単だった」なんて言われてしまったそう。
しかも、ウェイン様は――
『お願いしますっ! 許してっ! 命ばかりはっ! お靴でもなんでもお舐めしますから! あ、なんなら僕をあなたがたの軍に加えてください! 下っ端でいいんで!』
少なくともこれぐらいの命乞いはしたとのこと。
反乱軍に捕らえられた子息らの大半が毅然とした態度を貫いたとされる中、これでは評判は落ちるに決まっている。
反乱軍もこのあまりの情けなさに怒りを覚え、身代金を相場の倍以上要求したという。
なんとか解放されたウェイン様を待っていたのは、家族からの厳しい視線だった。
特にお父上は大いに怒ったらしく、「お前はエーゲン家の恥晒し」と罵り、身代金を餞別とし、ウェイン様は一族から放逐されてしまったとのこと。
優雅に椅子に腰かけているのもいいけれど、少しは走る練習もしておかないと、こうなってしまうのかもね。
***
反乱鎮圧からしばらくして、私はドゥケイン家の邸宅に招かれた。
長い黒髪をなびかせ、青いドレスで参上する。
アルメス様は礼服姿で待ってくださっていた。
私を見たアルメス様がにこやかに笑う。
「走っている姿もいいけど、こうしてフォーマルな格好をしている君も素敵だ」
「ありがとうございます」
そして、アルメス様はおもむろに告げた。
「ルビエ・コレール、君に婚約を申し込みたい。これからの人生を、君と一緒に歩み……いや、一緒に走りたい」
聞いた瞬間、私の心と体に喜びが充満する。
アルメス様の顔は真剣そのもので、私も令嬢として凛とした顔でいたかったけど、どうしても顔が緩んでしまう。
そして、そのまま答える。
「私でよろしければ、一緒に走りましょう」
アルメス様も笑顔になる。
「ありがとう……」
しばらくの間、見つめ合う。あまりにも至福なひと時だった。
これからの人生、できる限り長く、アルメス様と走り続けていきたい。
「さてと、それじゃ領内をひとっ走りしようか」
「そうですね。いい汗を流しましょう」
「ええっと、着替えは用意させようか?」
「ご心配なく。ちゃんと持ってきてありますから」
「ふふっ、さすがだ」
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。




