第62話 誰も触れない想い、静寂は揺れている
ユグドラシルまで、あとわずか。
インクラインの六名は、長い道のりの末、ついにその巨樹の根元が見える地点まで辿り着いていた。
先ほどまで晴れ渡っていた空は、いまはどんよりと曇り、風は冷たく淀んでいる。そして、どこか甘やかな香りを漂わせていた。それは、ユグドラシルが放つ魔力の香気……命の源たる始まりの樹が、確かにそこにある証だった。
「この辺りで、少し休もうか」
リーダーの朱音が、周囲を見渡しながら静かに告げる。
険しい岩場を抜けた先、視界が開けた草原のような場所が広がっていた。風が抜け、陽光が差し込むその場所は、まるで誰かが意図して用意したかのように、静かで、穏やかだった。
「風花、お願い。周囲の警戒を」
「うん、任せて」
風花の呼びかけに応じるように、彼女の肩に宿る小さな精霊が、ふわりと宙に舞い上がる。透明な羽を震わせながら、周囲の気配を探るように飛び回り、やがて安心したように光を放った。
「大丈夫。今のところ、敵の気配はないよ」
「よし、じゃあ……今のうちに、身体を休めよう」
それぞれが荷を下ろし、静かに腰をおろす。
誰の表情にも緊張の色は残っていた。ユグドラシルは、すぐそこにある。しかし、それは同時にこの旅の終わりと、本格的な始まりを意味していた。
休憩のひととき。
ユグドラシルを目前にしたインクラインの六人は、開けた草原で輪になって腰を下ろしていた。
風花の精霊たちが周囲を見張るなか、穏やかな風が頬を撫で、香炉から漂う桃の香りが空気に溶けていく。
「ねえねえ、カレンたん……見た? ゆっくんの、あれ……」
萌黄がひそひそ声で、花恋の耳元に顔を寄せる。
「うん、見たみた。ピアスにネックレス、あと……指輪まで。しかも、ずっと触ってるのよね、あれ」
「やっぱり!? あたしだけじゃなかったんだ……あの指輪、絶対ただのアクセじゃないよね!? なんか、こう……意味ありげっていうか……」
「うんうん、あれはもう、誰かにもらったって顔してるわよ。しかも、終日ずーっと触ってるの。無意識に、そっと……あれはもう、確定でしょ」
二人の間に、ふわっと甘い空気が流れる。けれど、その奥には、ほんの少しのざわめきがあった。
「……でもさ、聞けないよね」
「うん……聞けない。だって、もし……もし、ゆっくんに特別な人ができたってわかったら……」
「あわあわわあああ!?」
思わず声を揃えて叫んだふたりは、慌てて口を押さえた。近くで休んでいた朱音がちらりと視線を向けるが、何も言わずにまた魔剣の手入れに戻る。
「……あぶなっ。今の、絶対聞こえたよね……?」
「しーっ! しーっ! バレたら終わりだからっ!」
花恋と萌黄は、そっと顔を見合わせて、こそこそと笑い合った。けれど、その笑顔の奥には、微かな切なさがにじんでいた。
雪は、少し離れた場所に静かに座っている。その指先が、そっと胸元のネックレスを触る。そして耳元には、見慣れないピアスが揺れ、左手の薬指には、小さな銀の指輪が光っていた。
それらを、彼は何度も、何度も確かめるように撫でていた。まるで、そこに宿る誰かの想いを、確かめるように。
気づいていないふりをしているだけで、五人は皆、その存在を気にしていた。
雪が、誰かからか、それを贈られたこと。そして、その誰かが、きっと彼にとって特別な存在であること、けれど、誰もそのことを口に出すことはなかった。
だって、もし本当に、雪に大切な人ができたのだとしたら。
「……うわああああ……」
今度は、萌黄が小さくうめいた。
「わかる……わかるよ、もえもえ……でも、でも、聞けないの……」
「うん……聞いたら、戻れなくなりそうで……」
ふたりは、そっと胸に手を当てた。
風の音に紛れて、ふわりと香る桃の匂いが、ほんの少しだけ涙腺をくすぐった。
けれど、彼女たちは笑っていた。だって、雪が幸せそうなら、それでいい……そう思えるくらいには、彼が大切だから。
紅坂朱音は、紅蓮魔剣《緋焔》の手入れをしながら、ちらりと雪に視線を向けた。
彼は、少し離れた場所で静かに座っている。その指先が、また胸元のネックレスに触れた。
(……また、だ)
ピアス、ネックレス、そして……指輪。どれも、明らかに高価で、繊細な細工が施されている。
それは、普段の雪の趣味とは明らかに違う。それでも彼は、それらを終日、まるでお守りのように大切に扱っていた。
(まさか……空が、贈ったのか?)
朱音の手が、わずかに止まる。そしてすぐに、何事もなかったかのように、魔剣の刃を魔力が篭った特別な手入れ用の布で磨き続けた。
空と雪。幼い頃からの絆。もし、あのアクセサリーが空からの贈り物だとしたら……それは、きっと特別な意味を持つ。
とはいえ、朱音の気配読みは達人クラスである。
雪は、無意識にアクセサリーを撫でるくせはある。けれど、空に視線を送ることはない。いや、たまに盗み見るような気配は感じる。けれど、それは贈り主に向ける視線とは、どこか違っていた。
(……違う。あれは、空からの贈りものじゃない)
確信があった。朱音の読みが正しければ、あのアクセサリーは、インクラインの誰からのものでもない。
(じゃあ……誰が?)
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。それが嫉妬なのか、焦りなのか、あるいは別の感情なのか……朱音自身にも、わからなかった。
けれど、聞くことはできなかった。リーダーとして、姉のように接してきた自分が、そんなことを気にしていると知られたら、きっと雪は困る。
それに、もし本当に誰かがいるのだとしたら。
(……いや、考えるな。今は、目の前の難関クエストに集中するだけ)
朱音は、魔剣を鞘に収めた。その動きは、いつも通り冷静で、隙がなかった。けれど、その瞳の奥には、燃えきらぬ炎が、静かに揺れていた。
空は、静かに水筒を傾けながら、雪の姿を見つめていた。
彼の指先が、またそっとネックレスに触れる。その仕草は、まるで無意識の確認作業のようで……けれど、空の目には、はっきりと映っていた。
(……あのアクセサリー、いつから着けてたんだろう)
ピアスも、ネックレスも、指輪も、どれも、雪の雰囲気には少しだけ似合わない。けれど、彼がそれを大切にしていることは、誰の目にも明らかだった。
空は、何も言わない。
いや、言えないのだ。もし、それが誰かからの贈り物だとしたら、そして、その誰かが、雪にとって特別な存在だとしたら。
(……私は、盾。守るだけ。それ以上を、望んじゃいけない)
彼女の心に、ひとひらの波紋が広がる。けれど、それを表に出すことはない。
空は、いつも通りの静かな微笑みを浮かべ、そっと水筒の蓋を閉じた。
一方、風花は、精霊たちと静かに語らいながら、雪の様子をちらりと見やった。
彼の指が、また指輪に触れる。
(……やっぱり、気になるよね)
風花は、そっと目を伏せた。木々のざわめきが、彼女の心を映すように、優しく揺れている。
(でも……聞けないな。だって、もしそうだったら……)
雪は、白印。
この世界で、数えるほどしか存在しない、儚く、特別な存在。だからこそ、彼を想う気持ちは、誰もが抱いている。けれど、それを声に出すことは、どこか壊してしまいそうで、怖かった。
(……風が言ってる気がするの。今は、そっとしておいてあげてって)
風花は、そっと微笑んだ。その笑顔は、いつも通り穏やかで、優しかった。けれど、その胸の奥には、言葉にできない想いが、そっとしまわれていた。
空も、風花も、そして他の仲間たちも……誰もが気づいていた。けれど、誰も、何も言わなかった。
それは、インクラインという絆のかたち。そして、雪という存在が、どれほど大切かを知っているからこそ、踏み込めない想いの証だった。




