第60話 観測不可の侵入者、舞台は崩れ始める
「……あら、もう使うの?」
魔導モニターの前で、美麗は小さく首を傾げた。
その視線の先、冴月が紫乃の腕を抱え、上級ポーションの封を切る瞬間が映し出されていた。
「虎の子の上級ポーション……九条家の備蓄から、ようやく引き出した奇跡の雫。ふふ、使いどころを間違えたわね。まだ絶望は、これからだというのに」
背後に控えるエコーが、静かに報告を重ねる。
「白蛇紋システム、感情波の変動を確認。希望の波動、一時的に上昇。しかし、恐怖波動との干渉により、エネルギー変換率はさらに増加。ユグドラシルへの供給、臨界を超えて安定推移中」
「希望すら、恐怖の燃料になる……やっぱり、感情って素晴らしいわね」
美麗の声は、甘く、とろけるようだった。その瞳は、すでにモニターの向こうではなく、もっと遠く……ユグドラシルの頂を見据えていた。
「それにしても、あの子……冴月。あの判断力、あの覚悟……本当に、惜しいわ。でも、だからこそ、壊す価値がある」
モニターの中、五星姫が再び立ち上がる。血に塗れ、魔力を削り、命を削りながら、それでも前を向く。
「……美しいわ。壊れてなお、立ち上がる姿。その姿が、どれほどあの影を喜ばせているか……」
その瞬間、空間が軋み、再び現れるカリギュラの気配に、モニターが微かに揺れた。
「エコー、再構成の兆候は?」
「はい。カリギュラ、再構築完了。仮面の修復を確認。分裂体、再増殖中。感情波動、恐怖・混乱・絶望が再び上昇。視聴者数、一千三百五十万を突破。白蛇紋システム、エネルギー変換率、記録更新」
「ふふふ……ふふふふふっ……」
美麗の肩が震える。
その笑いは、抑えきれない歓喜の発露だった。
「見て、エコー。これが人間よ。壊れて、立ち上がって、また壊れて……それでも、希望を捨てない。だからこそ、絶望の味が、こんなにも甘美なのね……」
モニターの中、冴月が剣を構え、五星姫が最後の連携を放つ。
光が狂気を裂き、カリギュラが崩れ落ちる。
だというのに、美麗は、微笑んだままだった。
「終わったと思ってる……可愛いわね。でも、まだよ。まだ、終わらない。私の分身は、そんなに簡単に終わらない」
その言葉の通り、空間が軋み、再び響く声。
〈……もっともっと、あそぼう〉
「さあ、第二幕の始まりよ。あなたたちの希望を、もう一度、砕いてあげる」
美麗の瞳が、狂気に染まる。その背後で、エコーが静かに頷いた。
「……なに?」
その時、魔導モニターの映像が、わずかに乱れた。
美麗は、眉をひそめ、指先で操作盤を軽く叩く。
「エコー、今のノイズは?」
「確認中……異常な魔力波を検知。発信源は……地下十九階、封鎖領域」
「…………は?」
美麗の声が、裏返った瞬間を見越したかのタイミングで、モニターが切り替わる。
十八階層のボス部屋、その奥。本来なら誰も通れないはずの、封印された小部屋の扉のはず。
ギィイーン……軋む音を立てて、開いた。
「……嘘。そんなはず、ないわ」
美麗は、思わず立ち上がる。
その瞳が、モニターに映る三つの影を捉えた瞬間、彼女の思考が一瞬、空白になる。
「……あの扉、レインが封じたはずよ。万が一とはいえ誰にも、干渉できないように、白蛇紋の結界を……」
エコーが、静かに報告を続ける。
「封印術式、強制解除を確認。術式構造を逆算、解析不能。外部からの干渉ではなく、内部からの突破と推定されます」
「内部から……? まさか、あの階層に……誰がいるというの……?」
美麗の声が、かすかに震える。
それは怒りでも、恐怖でもない。理解できないという、支配者にとって最も忌むべき感情。
「……誰? 誰が、私の舞台に勝手に上がってきたの?」
モニターの中、銀鉄の騎士が静かに歩みを進める。
その一歩ごとに、空間が軋み、カリギュラの気配がわずかに後退する。
「……あの鎧、見覚えがない。あの魔力も、あの歩法も……この世界のものじゃない」
美麗は、唇を噛んだ。
完璧に設計したはずの舞台。
恐怖と絶望と希望を燃料に、ユグドラシルを目覚めさせるための、完璧な劇場。
その脚本に、存在しない役者が三人も現れた。
「……誰が、呼んだのよ。誰が、あの扉を開けたの……?」
エコーが、静かに答える。
「不明です。ただし、彼らの魔力波長は、この世界のいかなる記録とも一致しません。異界由来の可能性が高いと推定されます」
「異界……? まさか、このタイミングで、そんな……ことが?」
美麗の指が、震え、その瞳に、初めて呆然の色が浮かぶ。
「私の結界を、破った……? あの階層から……?」
モニターの中、三人の影が、ゆっくりとボス部屋へと歩を進める。
その気配に、カリギュラが、初めて沈黙した。
「……面白くなってきたじゃない」
美麗は、震える指を組み、口元に手を添える。
「でも、いいわ。想定外は、嫌いじゃないの。むしろ……」
その瞳が、狂気の光を取り戻す。
「ここからが、本当の劇場の始まりかもしれないわね」
美麗の声が、かすれた。
「……なに、あれは」
魔導モニターの中で、銀鉄の騎士が剣を下ろしたまま、静かに立っていた。
その足元には、カリギュラの断面が、まるで紙細工のように散らばっている。
「……見えなかった」
美麗は、信じられないというように、モニターに顔を近づける。
わずかな時間で何度も巻き戻し、再生し、拡大し、解析を試みる。
「映ってない。剣閃が……存在していない……?」
背後のエコーが、静かに報告する。
「白蛇紋システム、対象の動作解析不能。映像記録、フレーム単位での再構成を試みましたが、剣の軌道を捉えられません。魔力反応も、瞬間的に消失。対象のスキル、分類不能。未知領域です」
「……そんな馬鹿な話がある?」
美麗の声が、わずかに震えていた。
彼女の設計した白蛇紋システムは、あらゆる魔力の流れ、戦闘の軌道、感情の波動すら解析し、記録する。
それが見えないなど、まずありえない。
「……でも、見えなかった。私の目にも、白蛇紋にも……何も、映らなかった」
そして、次の瞬間。
空間が震え、無数の魔法陣が展開される。黒銀のローブの魔術師が、詠唱すらなく放った魔術が、空間を白く染め上げた。
「……っ、これは……!」
美麗の瞳が、見開かれる。
その光は、ただの攻撃魔法ではなかった。神聖術式……それも、記録上、再現不可能とされた解読不可能の失われた術式の系譜。
白蛇紋システムが、警告を発する。
「警告。術式構造、解析不能。魔力源、異界性を確認。対象の魔力波長、既知の分類外。危険度、測定不能」
「……ふふっ……ふふふ……」
美麗は、笑った。
けれど、その笑いには、いつもの余裕も、陶酔もなかった。ただ、呆然としたまま、笑うしかなかった。
「なにそれ……なにそれ……なにそれ……っ」
彼女の指が、震える。
完璧だったはずの舞台。
恐怖といっときの希望を絶望に塗り替える燃料として、ユグドラシルを目覚めさせるための、完璧な劇場。
その脚本が、音を立てて崩れていく。
「私の影が……一撃で……? あのカリギュラが本体を逃がすことすら出来ずに……あんなにも、あっさりと……?」
モニターの中、白い光が空間を焼き尽くす。
カリギュラの本体が、逃げ場なく貫かれ、塵ひとつ残さず消滅していく。
「……嘘。嘘よ。こんなの、ありえない……!」
美麗の声が、痛みを伴って震え、その瞳に、初めて恐れの色が浮かぶ。
「私の舞台に……私の知らない役者が……誰が、こんな演出を許したのよ……」
エコーは、黙っていた。
主の動揺を、ただ静かに見守る。
その沈黙が、かえって美麗の焦燥を際立たせていた。
「……いいわ。いいわよ。なら、見せてちょうだい。あなたたちの異界の力とやらを。私の夢を、壊せるものなら……」
その声は、震えていた。
けれど、まだ折れてはいなかった。
美麗の瞳は、再びモニターに釘付けになる。
想定外の嵐が、舞台を塗り替えていく。
しかし、それすらも、彼女にとっては。
「……最高の、スパイスじゃない」




