第58話 鏡の女王、白印に触れる
美麗に対するなに者とも知れぬ危機感は、いったん胸の奥にしまい込み、彼女との会話がはじまった。
「始原の雫を手に入れるのね」
鏡宮美麗は、まるで全てを見通しているかのように微笑んだ。その声音には、驚きも疑いもない。ただ、確信と、ほんの少しの興味だけがにじんでいた。
「……はい。約束したんです」
雪は、まっすぐに答えた。その声には、絶対的な支配者に対して、わずかな震えが混じっていたが、目だけは逸らさなかった。
「ふふ、あの娘以外にも、世界には始原の雫を必要としている人がいるのよ。それこそ、大富豪や国家の要人たち。あなたがそれを持ち帰れば、とんでもない報酬がもらえるかもしれないわ」
美麗の言葉は、まるで甘い毒のようだった。現実的で、魅力的で……そこに、試すような響きがあった。
しかし、雪は首を横に振った。
「お金の問題じゃないです……彼女を、救いたいんです」
「どうして?」
美麗の声は、静かだった。けれど、その問いかけには、わずかに鋭い刃のようなものが潜んでいた。
「雪くんの友達でもないし、治療するまでは会ったこともない、特に関係のない子でしょ?」
その言葉に、雪は一瞬だけ言葉を失った。唇がわずかに動くが、すぐに閉じてしまう。
「……ほっとけないんです。なんだか……」
ようやく絞り出した声は、どこか頼りなく、けれど確かな芯を感じさせた。
「優しいのね」
美麗はふっと目を細めた。その微笑みは、どこか達観していて、試すような冷ややかさを帯びていた。
「でも、そんな優しさで、過酷なダンジョンの攻略ができるの?」
その問いに、雪は言葉を詰まらせた。
「そ……それは……」
言葉が、喉の奥で淀んだ。
「……雪くんは白印の方。けれど、彼女たちと違って、使える魔法は癒しに特化した回復魔法だけ」
美麗の声は、あくまで穏やかだった。けれど、その言葉のひとつひとつが、雪の胸に鋭く突き刺さる。
「彼女たちに守られてダンジョンに挑むことが、貴方が本当に望む……冒険なのかしら?」
その問いは、まさに雪の心の奥に巣食っていた悩みを、容赦なく言葉にしたものだった。
みんなと助け合って冒険したい……そう願っていたはずなのに、現実はどうだ。
自分はただ、守られているだけ。戦いの場で何もできず、ただ立ち尽くすことしかできない。
「……でも、どんなに修行しても……体力も増えないし、攻撃魔法は、まったく使えなかったんです」
雪の声は、震えていた。どんなに努力しても、まるで届かない。その事実が、彼の心を静かに、しかし確実にむしばんでいた。
そんな彼を見つめながら、美麗はふっと妖しく微笑んだ。
「……試作型だけど、あるのよ」
「え?」
「白印の力を、攻撃魔法に変換する魔道具。鏡宮が、開発したの」
その言葉に、雪は目を見開いた。思考が一瞬、真っ白になる。
(攻撃魔法が……ボクにも……?)
胸の奥で、何かが静かに、しかし確かに動き出すのを感じた。
「ただし…………」
美麗は、ゆっくりと立ち上がり、雪に一歩近づいた。その瞳は、まるで宝石のように冷たく、そして美しかった。
「それには、あなたの白印を解析して、魔道具に最適化する必要があるわ……スキャンさせてもらってもいいかしら?」
雪は、思わず額に手をやった。そこには、彼が白印として選ばれた証……雪の結晶を宿した紋章が、淡く輝いている。
(白印の取り扱いは、国からも厳重に管理されている……)
今日も、政府から派遣されたSPが同行していた。
(……あの人たち、最初から妙に静かだった)
思い返せば、ここに来るまでの道中、彼らは一言も発していなかった。それどころか、美麗のメイドの指示に、まるで当然のように従っていた。
「安心して。もう手配は済んでいるわ。あなたの護衛たちも、今は私の理解者よ」
美麗は、まるで雪の思考を読み取ったかのように微笑んだ。その笑みは、優雅で、そして底知れない。
「……わかりました。お願いします」
雪は、わずかに戸惑いながらも、頷いた。この人に逆らっても無駄だと、直感が告げていた。それに、攻撃魔法を使うことは、雪が前世からずっと憧れていた、夢のひとつでもあった。
美麗が手をかざすと、近くにあった魔導装置から球体が音もなく浮かび上がる。そして淡い光を放ちながら、雪の額に向かってゆっくりと近づく。
「少しだけ、目を閉じていてね。すぐに終わるわ」
雪が目を閉じると、額の白印がふわりと輝き、魔導装置がそれに呼応するように脈動を始めた。
空間が微かに震え、魔力の波が静かに広がっていく。
やがて、光が収まり、装置が静かに沈黙した。
「……ありがとう。これで、準備は整ったわ」
美麗がそう告げた瞬間、沈黙していた魔導装置が再び淡く脈動を始めた。
中央の球体が静かに開き、そこから三式の小型魔道具が、まるで花が咲くようにせり出してくる。
一つは、雪の白印を模した繊細な意匠の対のピアス。もう一つは、白銀の結晶が埋め込まれた、細身のネックレス。
そして最後に現れたのは、指先ほどの小さなリング型の魔道具……それは、どこか生き物のように脈打っていた。
「あなたのために調整したわ。雪くんの白印の魔力にだけ反応する、世界にひとつずつしかないオンリーワンの魔道具よ」
美麗は、まるで古の儀式を執り行う巫女のように、ひとつひとつの魔道具を丁寧に手に取った。
その所作は、無駄がなく、けれどどこか艶めいていて……雪の鼓動が、どくんっと跳ねた。
「じっとしていて……セットしてあげる」
囁くような声が、耳元をくすぐる。
雪が戸惑う間もなく、美麗の指先がそっと彼の耳に触れた。冷たいはずの指先は、なぜか熱を帯びて感じられ、ピアスが装着されるたびに、微かな魔力の波が肌を撫でた。
続いて、美麗は雪の髪を優しくすくい上げる。
その手つきは、まるで壊れ物を扱うように繊細で、首筋にネックレスの鎖が触れた瞬間、ひやりとした感触が背筋をはい上がった。
彼女は一歩引き、雪の姿を静かに見つめる。
その瞳に浮かぶのは、まるで芸術品を鑑賞するような、冷たいのに熱を帯びた光。
満足げに微笑むと、美麗は再び近づき、雪の左手を両手で包み込むように持ち上げ、そのまま、指先を撫でるようにして中指にリングをはめる。
その距離は、息が触れ合うほどに近い。
美麗の長い銀色に輝く白い髪がふわりと揺れ、何度も雪の頬をかすめていく。
(……いい匂い……でも、なんだろう……)
香りは、夜に咲く花のように甘く、どこか妖しく、心の奥をとろけさせる。けれど、その奥に潜むのは、得体の知れない毒のような気配だった。
(……危ない)
雪の背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。その瞬間、彼の中で確信が形を成す。
(あっ……やっぱり……この人、ラスボスだ)
確信は、再び雪の胸に深く刻まれた。
あのとき、彼女に言われた言葉と、託された魔道具の重みが、今も胸の奥で確かに息づいている。
雪は、戦場の空気を感じながら、そっと左手に視線を落とした。
あの人が指にはめてくれた白銀のリングが、淡く脈打っている。耳元のピアスも、胸元のネックレスも、静かに魔力を蓄えていた。
(……使うなら、今かもしれない)
彼は、魔道具を使うタイミングを見計らっていた。仲間たちの動きに目を凝らし、戦況を読み、いつでも飛び出せるように身構える。
「これで、最後っ!」
萌黄の雷の魔法が、最後の異形のゴブリンを吹き飛ばした。黒い煙を吐きながら倒れたそれは、地に伏したまま動かなくなる。
「……終わった、みたいね」
朱音が剣を収め、周囲を見渡す。
風花の精霊たちも、ようやく落ち着きを取り戻し、空気が静けさを取り戻していく。
雪は、そっと肩の力を抜いた。
(……結局、使う場面はなかった)
魔道具は、彼の手の中で静かに沈黙を保ったままだった。
戦闘は、思ったよりも早く、そして仲間たちの連携によって、ほとんど苦労することなく終わっていた。




