第57話 森に落ちる影、白印の記憶
ユグドラシルへと続く森のなかの道を、インクラインの六人は慎重に進んでいた。その最中に、風花がふと立ち止まり、申し訳なさそうに口を開く。
「……ごめんね。シルフィもドリュアスも、まだ怯えてて……精霊魔法、特に身体強化系は、今はちょっと……」
その声には、いつもの穏やかさとは違い、不安と戸惑いがにじんでいた。そんな風花に、香炉をくるりと回しながら、花恋がにっこりと笑いかけた。
「大丈夫大丈夫! あたしの魔導香炉《桃薫》、今日は特別仕様だよ〜。名付けて~カレンSP!」
「カレンSP……?」
雪が首をかしげると、花恋は得意げに胸を張った。
「そう! スーパーパワフル・カレン・スペシャル! 身体強化も集中力アップも、ついでに美肌効果もある優れもの!」
「おお〜! それってつまり、香りで強くなって、ついでにお肌もつるつるになるってこと!?」
萌黄が目を輝かせて身を乗り出す。
「そうそう! これで戦って汗をかいても、いい香りが残るの。まさに戦う乙女の必需品!」
「……それ、戦いの場で必要?」
朱音が呆れたように眉をひそめるが、花恋は気にした様子もなく、香炉をくるくると回し続ける。
「えっ、じゃあカレンSPって、スペシャル・ピーチの略じゃなかったんだ……?」
萌黄が真顔で言うと、花恋がぴたりと動きを止めた。
「……それ、なんか桃味の炭酸飲料みたいじゃない?」
「えっ、違うの!? てっきり、あたしのもえもえSPに対抗してるのかと……」
「そんなのあったっけ!? ていうか、もえもえSPって何!?」
「え、えーと……すべってもポジティブ?」
「それ、ただの慰めじゃん!!」
思わず吹き出す雪と空。朱音も、ふっと口元を緩め、風花もまた、精霊たちの落ち着かない気配に包まれながらも、そっと微笑む。
不安は消えていない。けれど、仲間たちの声が、確かに心を軽く解きほぐしてくれる。
ユグドラシルの森に差し込む光が、この時だけは六人の影を優しく照らしていた。
「じゃー、用意するからちょっとあの大木のところで止まって〜」
花恋が軽やかに言いながら、森の中でもひときわ目立つ大木の根元へと歩み寄る。
香炉の蓋を開け、特製の香材を取り出そうとした、その時。
「……え?」
ふいに、彼女の頭上に影が差し、何かが、彼女に覆いかぶさるように降ってくる。
反射的に顔を上げた花恋の瞳に映ったのは、空から迫る黒い影。
「花恋、伏せて!」
鋭い声とともに、分厚い大楯が彼女の頭上に滑り込む。直後、金属と何かがぶつかる鈍い音が響き、火花が散った。
「そら姉さん……」
花恋が驚きに目を見開く。
彼女を庇うように立ちはだかったのは、藍坂 空だった。その手には、巨大な楯《蒼壁》がしっかりと構えられている。
「みんな! 上に気をつけて……!」
朱音の声に、全員が一斉に見上げる。
大木の枝の影……そこから、複数の影が彼女たちに向かって飛び降りてきた。
緑がかった肌、鋭い牙、粗末な武器を手にした小柄な影たち。
「ゴブリン……!? でも、なんか様子が……」
雪が呟く。
その姿は、見慣れたゴブリンとは違っていた。ひと回り以上も大きく、目は赤く血走り、体表には黒い紋様のようなものが浮かび上がっている。
「……濃い魔瘴に侵されてる。普通の個体じゃない」
風花が低く呟いた。その声に、精霊たちが再びざわめき始める。
「まったく、せっかく香炉の準備してたのに〜! そら姉さん、ありがとん!」
花恋は笑いながらも、すぐに香炉を構え直す。
「さあ、インクラインの開幕演目、始めましょうか!」
仲間たちはそれぞれの武器を構え、迫り来る異形のゴブリンたちに向き直る。
ユグドラシルの森が、静かに戦いの幕を上げようとしていた。
異形のゴブリンたちは、口から黒い煙のようなものを吐き出しながら、獣のような唸り声を上げて突進してくる。
その目は真っ赤に血走り、理性の欠片も感じられない。まるで、何かに取り憑かれたかのようだった。
「そっちは任せた!」
「了解っ、任せて!」
朱音の魔剣が唸りを上げ、迫るゴブリンを一閃で斬り伏せる。その隙を突こうとした別の個体は、空の大楯に弾き飛ばされ、花恋の香炉から放たれた桃色の煙に包まれて動きを鈍らせた。
「はいよ! もえもえビリビリキック!」
萌黄の蹴りの動作で発動した雷の閃光が、ゴブリンを鮮やかに打ち抜く。
怯えていた精霊達も、戦いが始まると契約者である風花を守るために、持てる力で援護を行う。それを受けて風花の風の精霊魔法が仲間の動きを加速させ、樹の精霊も敵の動きを阻害する。
インクラインの誰もが、強い。
雪は、仲間たちの背中を見つめながら、拳を握りしめた。自分のすぐ前では、空が大楯を構え、まるで壁のように立ちはだかっている。
(……ボクだけ、守られてる)
仲間たちは、雪を守るように自然と陣形を組んでいた。そのことが、嬉しくもあり、同時に……悔しかった。
(ボクも、戦いたい。みんなと並んで、前に立ちたいのに……)
足がすくむわけじゃない。ただ、今の自分にできることが、あまりにも少ないと感じてしまう。
そのとき、ふと風が雪の頬を撫でた。風花の精霊たちが、怯えながらも健気に力をふるうため、彼のそばを通り過ぎていく。
(……ボクにだってできること、あるはずだ)
雪は深く息を吸い、胸の奥にある小さな決意を噛みしめた。
あのとき、彼女に言われた言葉と、託された魔道具の重みが、今も胸の奥で確かに息づいている。
それは、ミラーパレス攻略を三日後に控えた夜のこと、雪は眠れずにいた。
ベッドに横たわってはみたものの、目を閉じても脳裏に浮かぶのは、明日会う予定の彼女の姿ばかりだった。
鏡宮 美麗。
インクラインの創設者にして、現在のオーナー。そして、リバースアース日本を実質的に動かす、最大財閥〈鏡宮グループ〉の総帥。
その名は、政財界はもちろん、魔術界隈においても知らぬ者はいない。たしか肩書には、現代魔導戦略局の特別顧問もあったはずだ。
そんな人物から、直々に面会の要請が届いたのだ。しかも、白印である雪個人ただ一人に対して。
(なんで、ボクなんかが……)
雪は、胸の内で何度も自問していた。
確かに、白印という特別な立場にはある。しかし、それはあくまで『今世では男として生まれ、魔力を制御し、生き延びた』その結果、白印に選ばれてしまっただけに過ぎない。自分自身が何かを成し遂げたわけではなかった。
(前世じゃ、重い病気でずっと病室のベッドの上だったんだ。外に出たことなんて一度もなくて、友達って言えるのは、タブレットの中のアニメや漫画、動画の世界だけだった……)
庶民的な感覚は、いまだに抜けきらない。
贈られてきた高級なスーツに袖を通すだけで、どこか落ち着かず、鏡の前で何度もネクタイを直しては、ため息をついた。
「……緊張するなあ」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いたその声は、夜の静けさに吸い込まれていった。
そして翌朝。
指定された時間、指定された場所……都心の高層ビルの最上階。
雪は、重厚な扉の前に立っていた。
扉の向こうには、鏡宮美麗がいる。その事実だけで、心臓がひときわ強く脈打つ。
(落ち着け、ボク……これは、ただの面会。うん、ただの……)
そう自分に言い聞かせながらも、手のひらにはじんわりと汗がにじんでいた。
そして、重厚な扉が静かに開いた。
中から流れ出す空気は、まるで別世界のもののようだった。ひんやりと澄んでいて、それでいて、どこか張り詰めた緊張感を帯びている。
案内役のメイドが一歩下がると、雪は小さく息を呑みながら足を踏み出した。
視界に飛び込んできたのは、純白のドレスに身を包み、まるで舞台の中心に立つ女王のような存在感を放つ女性。
鏡宮 美麗。
その背後には、無言で控える白のミリタリーテイストの制服風ドレスに身を包んだ秘書とおもえる人。無表情のまま、まるで人形のように佇むその姿は、どこか現実味を欠いていた。
(……この鏡宮 美麗って……人……)
雪は思わず、心の中で呟いてしまった。
(ラスボスだ……)
不謹慎だとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。
その場にいるだけで空気が変わる。言葉を発する前から、場のすべてを掌握しているような、圧倒的な格があった。
美麗が口を開いた。
「ようこそ、白印の少年。あなたに、少しだけ話したいことがあるの」
その声音は、静かで、優雅で、どこか慈しみに満ちていた。けれど、雪の背筋を走ったのは、冷たい稲妻のような緊張だった。
(やっぱり、この人はただ者じゃない)
その背後に静かに控える明らかにただ者ではない存在をふくめて、雪は静かに身震いした。




