第56話 楽園の森、怯える精霊
インクラインの六人は、これといって敵とエンカウントすることもなく、静まり返った十四階層を駆け抜けた。
そして、ボス部屋にたどり着いたが、やはりここでも主は不在のまま、目的階層の十五階へ続く扉へと歩を進めていた。
「ねえねえ、これってさ、もしかして……誰かが先にビリビリドカーンっと倒してくれてるってことかな?」
萌黄が、ひょいと顔を覗かせながら言う。
「スーパーヒロイン登場ってわけ? それとも、伝説の先行プレイヤー様がご活躍中?」
カレンが香炉をくるりと回しながら、にやりと笑う。
「え〜、じゃあ次はその人達がピンチになって、あたし達がさっそうと助けに入る展開?」
「それ、完全にヒロイン枠狙ってるでしょ。残念、うちの雪くん以外に主役はいないから」
「ええ〜じゃあ、あたしは……主役の親友ポジションでいいや。おいしいとこ全部持ってくから」
そんな軽口を叩きながらも、彼女たちの視線は、フロアの最奥へと向かっていた。
インクラインの六人は、階段を下りきり、ついに迷宮十五階層の扉の前に立った。
そこまで来ると、誰もが無言になっていた。目の前にある重厚な扉は、まるで彼女らの到来を待ち構えていたかのように、軋む音ひとつ立てず、静かに開いていく。
扉の向こうは、なだらかな丘の上で、周囲をぐるりと見渡せる場所だった。
視界が一気に開け、その先に広がる光景に、六人は思わず足を止めた。
誰かの息を呑む音が、静寂の中に溶けていく。
そこに広がっていたのは、迷宮の中とは思えない、圧倒的な世界だった。
視界いっぱいに広がるのは、深く、濃く、そしてどこまでも続く原始の森。
あるはずの天井が見えない。代わりに、遥か頭上には青空のような光が広がり、雲がゆるやかに流れていた。
そして中央には、ひときわ巨大な樹がそびえている。
その幹は岩山のように太く、枝葉は空を覆い尽くし、まるでこの階層そのものが、その樹の内部にあるかのような錯覚すら覚える。
風が吹き抜けるたび、草がさざめき、どこからともなく鳥のさえずりが響く。なのに……その音は、どこか人工的で整いすぎている。
光の差し方、風の流れ、葉擦れの音。すべてが、あまりに美しく、あまりに完璧だった。
まるで、誰かが理想の自然を設計し、ここに再現したかのように。
六人の胸に、同時にざわりとした違和感が走る。
ここは、ただの森林エリアなんかではない。なに者かも知れぬものが、意図して作った世界。
その中心にそびえる巨樹……ユグドラシルが、静かに彼女らを見下ろしていた。
「……うわっ、なにこれ……」
萌黄が思わず声を上げる。
彼女の目の前に広がっていたのは、まるで神話の中の楽園のような光景だった。
天井があるはずなのに見えない空間。
空は青く、雲が流れ、風が頬を撫でる。陽光が木々の隙間から差し込み、草花が揺れ、鳥のさえずりがどこからともなく響いていた。
「……迷宮の中、だよね? ここ……」
花恋が香炉を胸に抱きしめながら、ぽつりと呟く。
「空気が……澄みすぎてる。音も、匂いも……全部、整いすぎてる」
朱音が眉をひそめ、剣の柄に自然と手をかける。
「……まるで、舞台の上か、映画のロケみたいだね」
雪がぽつりと呟く。その言葉に、誰もが頷いた。
自然が広がっているはずなのに、どこか作り物めいている。風の流れ、光の角度、草の揺れ方……すべてが、あまりに完璧だった。
そのときだった。
「……っ!」
風花が、ぴたりと足を止めた。
「ふうちゃん?」
雪が心配そうに声をかける。だけど、風花は応えなかった……いや、応えることができなかった。
彼女の周囲に漂っていた風の精霊と、樹の精霊が、まるで何かに怯えるように震え、波動を大きく乱していた。その慌てふためいた精神状態は、まるで共鳴するように風花自身にも影響を及ぼし、彼女の心を不安な気持ちで埋めていく。
いつもなら、風花の肩にふわりと寄り添うシルフィが、今は彼女の髪の毛のなかに隠れるようにして、大きく震えている。そして、ドリュアスに至っては、まるで根を張ることすら拒むように、空間に溶けるようにして、姿を消してしまった。
「……っ、なに、これ……」
風花の声が、震える。
彼女の瞳が、森の奥を見つめる。その表情には、仲間の誰よりも深い畏れが浮かんでいた。
「風花……?」
空がそっと声をかけると、風花は小さく首を振った。
「……この場所……精霊たちが、とても怖がっている。こんなこと、今まで一度もなかった……のに」
風花の言葉に、場の空気が一気に張り詰める。
彼女の精霊が今までみたこともないほど恐れるということ……それは、ただの異変では済まされない何かが、この階層に潜んでいるという証だった。
【コメント欄】
『……って、あれ? シルフィ震えてない?』
『ドリュアス消えた!? え、え、え!?』
『風花ちゃんが怖がってるの初めて見た……』
『この階層、なんかおかしくない?』
『自然すぎて逆に怖いってどういうこと……』
『ユグドラシル、でかすぎて現実感ないんだけど』
『これ、絶対ただの森林エリアじゃないでしょ』
『風花ちゃんの精霊が怯えるって、どんだけヤバいのがいるの……』
『インクライン、無事に帰ってくるよね? え、帰ってこなきゃ、やだ、やだよ』
『朱音の姐御が、すでに剣構えてる……やっぱり何かあるんだ』
『空さんの表情が……これ、ガチで警戒してるやつ』
『なんか、空気が重くなってきた……』
配信のコメント欄がざわつき始めたタイミングで、とある場所で画面を観ていた者たちにも、静かに波紋が広がっていた。
インクラインの熱狂的なファン組織……ミラージュリンク。
その中でも、五星姫ガチ勢集団《百花繚乱》と並び称される、インクラインの親衛隊とも呼べる精鋭集団《雪華百式》。
その一角が、ついに動き始めていた。
『風花様の精霊が怯えるなんて、過去ログでも前例なし。これは……何かある』
『十五階層の構造、過去の他場所の迷宮記録と照合中。やはり、ここだけ異質すぎる』
『雪様の鼓動、速くなっている……感情解析、開始』
彼女らはただのファンなんかではない。
配信の一挙手一投足を記録し、魔力波形や表情の変化、さらには会話の抑揚や視線の動きに至るまでリアルタイムで解析。
その精度は、もはや個人の趣味の域を超え、国家レベルの観測網に迫る勢い。雪華百式……それは、インクラインを陰から支える技術と狂信の化身。
彼女らの手にかかれば、数秒の沈黙すら意味を持ち、ひとつの瞬きが物語の伏線として記録される。その執念と行き過ぎた愛情は、時にインクライン本人たちすら気づかぬ真実を暴き出す。
彼女らの解析が動き出したとき、それはすなわち、世界が変わる前触れでもあった。
そして、もうひとつ。
この配信を、別の目的で注視している者たちがいた。
国際情報庁……通称〈I.I.A.〉。
表向きは文化保護と記録管理を担う世界的な機関だが、その実態は、迷宮と冒険者に関するあらゆる情報を収集・分析する、国家間をまたいだ諜報組織である。
『ユグドラシル、映像確認。魔力濃度、想定を超過』
『風属性と樹木精霊の反応、異常値。これは……封印系の可能性あり』
『ミラージュリンク経由での情報取得、継続。対象:インクライン』
『鏡宮美麗……リバースアース日本の九条静流と並ぶ女傑。白蛇と女狐の化かし合い、か』
『漁夫の利は我が組織がおいしく頂く。とはいえ、動くのは今ではない』
『ユグドラシル、噂にたがわぬ資源の宝庫。魔力濃度、地脈の流れ、すべてが異常』
『だが、あの女がこれを世界に公開しようとしている理由が読めない……』
『観測の名を借りた干渉か。あるいは、もっと別の……』
『引き続き、鏡宮の動向を監視。必要ならば、悪手ではあるが九条とも接触を』
彼女らは、密かにファン組織の解析網を利用し、独自の情報網を構築していた。そして今、十五階層の映像は、彼らにとっても想定外の事態を告げていた。
静かに、しかし確実に……世界の深層が、揺れ始めていた。
静寂の中、鏡が至るところに張りつめられた室内に微かな足音が響く。
幾重にも連なる鏡面が、無数の光を反射し、まるで現実と幻の境界を曖昧にしていた。
その中心に立つのは、鏡宮美麗。
漆黒のドレスに身を包み、長い銀白に輝く髪を揺らしながら、彼女は静かに微笑んでいた。
「……いよいよね。インクライン、白銀坂 雪が十五階層に辿り着いたわ」
その声は、まるで舞台の幕が上がる直前の囁きのように、甘く、そして冷たい。
大画面には、十五階の青空を背に立つ雪の姿が映し出されている。両耳には陽光を受けてきらめく雪の紋章をかたどったイヤリング、手を振る指先には白銀のリングが光を弾いていた。
「盛大におもてなししてあげないと。せっかくここまで来てくれたんですもの」
鏡の奥から、研ぎ澄まされた声が返ってくる。
「ええ。彼女らの反応、すべて記録済みです。風花の精霊たちの異常も、想定内」
エコーの声は、どこか機械的でありながら、彼女にしては楽しげな響きを帯びていた。
「それに……間もなく、五星姫もあれと接触する頃合い。ふふっ、何もかも、計画通りね」
美麗は、鏡の中に映るユグドラシルの姿を見つめながら、ゆっくりと指先を滑らせた。
「さあ、やっと舞台は整ったわ。あとは、彼女らがどういったライブを披露してくれるか……楽しませてもらいましょうか」
鏡面が、微かに揺れる。
その奥に、まだ誰も知らない運命が、静かに姿を現そうとしていた。




