第55話 聖域を背に、風は世界樹へ
世界樹ユグドラシルで何かが起きているのであれば、なるべく早めに調査に取り掛かった方がよい。だというのに、リュカも、バルドも、カゲトラも、すぐには動けなかった。
戦闘を得意としない猫獣人たちが多く里に暮らしている。もしも、調査中に何かが起きたら……守る者がいなければ、彼女たちはひとたまりもない。
迷う三人の様子に、ミトラが意を決して一歩、進みでた。
「……世界樹ユグドラシルに、なにかが起きているのなら、私たちに構わず、調査をお願いする……にゃ」
その声は、震えてはいなかった。けれど、どこか無理してつくった明るさがあった。
「逃げ足だけなら、うちらも得意だから……にゃ」
ニャルが、冗談めかして笑い、コトラも、うんうんと頷いてみせた。
しかし、三人は見逃さなかった。
ミトラの指先が、かすかに震え、ニャルのしっぽが、いつものようにふわふわとは揺れず、ぴんと張っている。そしてコトラは足元を、ほんのわずかに震えさせていた。
それでも、彼女たちは健気に笑っていた。恐怖を押し隠し、仲間を信じて、背中を押そうとしている。
その姿に、リュカは唇を噛み、バルドは目を伏せ、カゲトラは静かに拳を握る。
このエリアもしかしたら、迷宮のどこかで、確かに何かが起きている。それを知ってしまった以上、見過ごすことはできない。
とはいえ、守るべきものが、ここにはある。
「……今回はリュカ殿一人だけで行かせるわけにはいかぬ。拙僧も、カゲトラ殿も同行する。ならば、やるべきことをやっておかないと、な」
バルドが静かにそう呟くと、背中に背負っていた巨大なメイスを肩に担ぎ上げた。
その銘は……慈悲乃鉄槌。
かつて、バルドが女神の歯車と認められた成人の儀を経て授けられた、神殿由来の武具。
一見すればただの鉄製のメイス。だが、標準よりも二回りは大きく重く、バルドのような巨躯の持ち主でなければ扱うことすら叶わない代物だった。
これまで幾度となく、仲間を守り、自らを生かすために振るわれてきたその武器は、鈍く銀の光を帯び、すでにただの武具の域を超えていた。
それはまさに、バルドの魂と一体となり……祈りの鉄槌と進化している。
さらに数日前、カゲトラが放った秘技《一閃・無明斬》の余韻を受け、女神の加護が宿ったその力は、今もなおメイスに確かな脈動として残っていた。
「……この地に、神の御手を」
バルドは、ゆっくりと村の中央へと歩み出る。その足取りは重く揺るぎなく、確かな決意を刻んでいた。
慈悲乃鉄槌を愛おしげにひと撫でし、静かに構えを取ると、おもむろに地を穿つように振り下ろした。
「《聖域顕現・月輪結界陣》」
鈍い衝撃音が響き、大地が低く唸った。
メイスが突き刺さったままの地面から、淡い銀光が波紋となって、まるで満月が水面に広がっていくように、その光は村の境界をなぞるように走り、やがて空へと昇り、天を貫く光柱となった。
空気が澄み、風が止む。
作りものみたいに整った木々のざわめきすら、どこか神聖な調べのように変わっていく。
目で認識できるほどの結界が張られた。
それは、ただの防御を主体とした結界ではない。悪しきものを拒み、穢れをはらい、内にある者の心をも静める、聖域の顕現。
女神のまなざしがこの地を見守っているかのような、そんな錯覚すら覚えるほど静ひつな空気を帯びていた。
「……これで、しばしの安寧が保たれよう。拙僧の命でもある慈悲乃鉄槌がこの地にある限り、この結界は破らせぬ」
バルドの言葉に、カゲトラが静かに頷く。
「拙者も、刃を研いでおくでござるよ。いざという時は、すぐに抜刀できるように」
脇に差している刀……《朧月》の鯉口を、愛おしげに軽く叩く。
そのとき、村の片隅から、ふわりとした声が届いた。
「……それでは、バルド様は……武器がないまま、調査に向かわれるのですか……にゃ?」
おっとりとした猫獣人の娘、フワリが、心配そうにバルドを見つめていた。その大きな瞳には、不安と戸惑いが入り混じった色が浮かんでいる。
「いや……」と、リュカが苦笑いを浮かべながら肩をすくめた。
「こいつ、メルセデス持ってない方が厄介なんだわ」
「なっ……!?」
バルドが、思わず振り返る。
「そ、それでは拙僧が……まるで危険人物扱いではないか!」
「いや、実際そうだろ? 素手で暴れたら、クラウやカゲトラでも止められるか怪しいって、みんな言ってるし」
「む……むぅ……!」
バルドの顔が、珍しく赤くなる。
その様子に、フワリが「まぁ……」と小さく目を丸くし、ニャルとコトラがくすくすと笑いをこらえていた。
「拙僧は、ただ……少々、鍛錬を欠かさぬだけで……」
バルドが照れくさそうに呟いたその瞬間だった。
「バルド様……」
フワリが駆け寄り、そのまま軽やかに彼の大きな胸に抱きついた。その小さな体が、慈悲乃鉄槌の残した光の余韻に包まれる。
「どうか……どうか、気をつけて行ってきてくださいにゃ……」
「ふ、ふ、フワリ殿……っ」
バルドの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「リュカぁ〜、気をつけてにゃっ!」
今度はコトラがリュカの腰に飛びついた。しっぽをぶんぶん振りながら、名残惜しそうに見上げてくる。
「お、おいおい、そんなに心配されると行きづらいってば……」
リュカが苦笑いを浮かべていると、今度はニャルとミトラが、カゲトラの前に並んだ。
「……気をつけてにゃ、カゲトラ」
「あなたがいない間、里は私たちが守ります……にゃ」
「う、うむ……感謝するでござる……」
カゲトラもまた、わずかに顔を赤らめて俯いた。
「おやおや、カゲトラ、顔が真っ赤だぞ〜?」
リュカがニヤリと笑って茶々を入れる。
「……お主も、顔が赤いでござるよ」
「うっ……」
「ふふっ、バルド様も真っ赤にゃ〜」
「む、むぅ……拙僧は常に冷静沈着でありますぞ……」
そんなやりとりに、里の猫獣人の娘たちも、くすくすと笑いながら、次々と三人のもとへ駆け寄ってくる。
「無事に戻ってくるにゃ!」
「気をつけてにゃ!」
「おみやげ、忘れないでにゃ〜!」
猫獣人の娘たち総出の明るく朗らかな見送りに、三人は少し照れながらも、しっかりと頷いた。
「……なんだか、胸を締め付けるほどの嫌な予感がする」
リュカがぽつりと呟く。
「拙者も……ならば、急ぐでござる」
「風の印、合わせる。風詠みでブーストをかける」
「心得た」
カゲトラは刀の柄に手を添え、リュカはリュートを構える。いつもの事だが、二人の間に言葉以上の連携が走る。
バルドも静かに目を閉じ、魔力のこもった数珠を握りしめた。
「風林火山……風の印!」
「風よ、目覚めろ!《風詠みの旋律・第一楽章》」
カゲトラの言霊が空を裂き、同時にリュカのリュートが高らかに鳴り響く。
その瞬間、大地が震え、空が唸った。
カゲトラの足元から爆ぜた風の紋が、雷光のように三方向へ走り、リュカの旋律がそれに呼応する。
音の波が風に乗って広がり、天を貫くような風の柱が三人を包み込んだ。
空には、巨大な風の刃の幻影が浮かび上がる。それはまるで、風神が三人に力を貸すかのような神威の顕現だった。
風は唸りを上げて渦を巻き、三人の足元に同時に紋章が浮かび上がる。その中心から淡い光が吹き上がり、身体を包み込むように駆け巡る。
風の加護を得た三人は、軽やかに地を蹴った。
目指すは、不穏な気配が漂う……世界樹ユグドラシル。
風に導かれ、彼らはその異変の核心へ、なにが待ち受けるかも知らぬまま駆け出していった。




