第53話 仮面の悪夢、仕組まれた奈落
そして、ついに転移が始まる。
空間が歪み、光がねじれ、空気が凍る。その中心に現れたのが……それだった。
コード・ナイトメア
形は人に似ている。だが、どこかが違う。くすんだ紅と墨色の衣装は、血と墨を吸い込んだように重く、湿った音を立てて揺れる。
首元には、幾重にも巻かれた血染めの布。
その奥に浮かぶのは、笑っているはずなのに、どこか裂けているような仮面。左右非対称に歪んだ口元、ひび割れた頬、塗り潰された目の空洞。瞳はない。しかし、確かに見られている。
その手に握られた黒鉄の大鎌、デスサイズ。
光を吸い込むような闇色の刃は、金属とは思えぬ鈍い質感を放ち、刃先には赤黒い残光が揺れていた。
その日、ダンジョンには、北方の王国随一と名高い精鋭パーティー《銀の鷹》が潜っていた。
五人の猛者たち。いずれもA級の称号を持ち、国家の誇りとして知られた存在。彼女たちは王国の命を受けて、王都付近に発生した未踏破迷宮の第十四階層を進んでいた。
今回の探索は秘密裏としてのもので、配信は行われず、調査が主体で行われた。
魔法剣士のリーダーが前を行き、魔導士が後方から魔力の流れを探る。盾役の重戦士が中央で守りを固め、錬金術士が補助魔法を担当。斥候役のシーフは、すでに先行して周囲の罠解除と索敵を終えていた。
「……異常なし。魔物の気配も、罠もない。けど……」
シーフが、眉をひそめて戻ってくる。
「空気が変だわ。音が、吸い込まれてるみたい」
「魔力の流れもおかしい。まるで、何かが呼吸してるみたいな……」
魔導士の声が、わずかに震えていた。彼女の魔力感知は、王国でも五指に入る精度を誇る。そんな彼女が、震えを感じるのは、極めて稀なことだった。
「……進むわよ。ここで引き返す理由にはならない」
盾役の重戦士が静かに告げる。その声に、誰も異を唱えなかった。
《銀の鷹》は、王国の誇り。数々の死地をくぐり抜けてきた彼女たちにとって、恐怖は進軍を止める理由にはならない。
あとでシーフは後悔する。なぜあの時、本能に従って撤退しなかったのか、と。そう、その先に待っていたのは、彼女たちの常識を覆す何かだった。
通路の先、空間が歪んでいた。まるで、そこだけが別の世界に繋がっているかのように、光が揺れ、影が逆流している。
「……あれは……」
魔導士が、震える声で呟いた。
「魔力の渦……? 違う、これは……感情の濁流……?」
その瞬間、空間の歪みの中心から、何かがこちらを見た。
視線を感じた。見られている。心の奥底まで、覗き込まれている。
「っ……!」
重戦士が、無意識に盾を構えた。魔法剣士が剣を抜き、魔導士が詠唱を開始する。シーフはすでに姿を消し、背後の警戒に回っていた。
そして、次の瞬間……それは、現れた。
仮面をつけた異形の存在。人の形をしていながら、人ではない。その身から溢れる黒い靄が、空間を蝕み、感情を濁らせる。
「……な、なに……あれは……」
魔導士の声が、震える。本能が拒絶する……まるで初めて迷宮に潜った際に覚えた押さえきれない……それは原初の恐怖。
「……戦闘準備。全力でいくわよ」
リーダーの声が、静かに響いた。その瞳に、わずかな迷いもなかった。しかし、彼女たちはまだ知らない。
この出会いが、彼女たちの運命を大きく狂わせることになると。
それは、戦いと呼ぶにはあまりにも一方的だった。
魔法剣士が先陣を切り、鋭い剣閃が闇を裂く。
魔導士が詠唱を終え、炎の壁の奔流が空間を焼き尽くす。
重戦士が前に出て、盾を構え、仲間を守る壁となる。
錬金術士が魔整合の爆薬を投げ、地面を揺らし、煙幕を張る。
シーフが影を駆け、背後からの奇襲を狙う。
銀の鷹が得意とする完璧な連携。それは、幾度となく死地を越えてきた、精鋭たちのいつもの動きだった。
しかし、それには通じなかった。
仮面の奥から、笑い声が響く。
耳を塞ぎたくなるような、軋むような、壊れた玩具のような音。
次の瞬間、黒い靄が爆ぜた。
重戦士の盾が、音もなく砕け散り、女にしては重量のある巨躯が吹き飛び、石壁に叩きつけられ、鎧ごと肉が裂ける音が響く。
魔導士が叫び、詠唱を重ねる。しかし、言葉が終わるより早く、彼女の口元に黒い刃が突き刺さった。
声が、途切れ、魔力が暴走し、爆発する。
光と熱が空間を包み、仲間たちの視界を奪った。
その隙を突かれ、錬金術士が背後から貫かれる。血が舞い、彼女の手からこぼれ落ちた薬瓶が、床に砕け散る。
魔法剣士が叫びながら斬りかかった。
その剣は確かにそれの仮面をかすめた。なのに、仮面の奥の瞳は、まるで何も感じていないかのように、ただ静かに彼女を見つめていた。
次の瞬間、魔法剣士の身体が宙を舞う。黒い靄が彼女の四肢を絡め取り、空中で引き裂いた。
叫び声を発する間もなく赤い雫がこぼれ落ちる。
後には、静寂だけが残った。
一人、またひとりと倒れていくなか、最後に残されたのは、斥候役のシーフだった。
……いや、違う。
それは、まるで……遊んでいた。
もっと遊びたいような、遊び足りないような、そんな気配が、空気の震えとなって背後から忍び寄る。
そのときだった。
「……あそ……ぼぉ……おお」
声とも言えない、軋むようなノイズが、耳の奥に直接流れ込んできた。言葉の形をしていながら、意味を持たない。けれど、確かに呼びかけられた。
その瞬間、彼女の中で何かが壊れた。
理性が焼き切れ、視界が白く染まる。足がもつれ、呼吸が乱れ、心臓が悲鳴を上げる。
それでも、彼女はひたすら走った。
地下十四階から、地上まで……迫り襲ってくる魔物をどうにか振り切り、血まみれの身体を引きずりながら、何度も転び、壁にぶつかり、吐きながら、それでも前へ進んだ。
恐怖に染まり、理性が崩れかけても、彼女の中に残っていたのは、ただひとつの使命。
伝えなければ。
あれは、ただの魔物じゃない。
あれは、世界を壊す何かだ。
そして、夜明け前。
彼女は、王都の門前にたどり着いた。血に濡れ、意識は朦朧とし、言葉もまともに出せない。
それでも、彼女は最後の力を振り絞って、口を開いた。
「……カリ……ギュラ……」
それは、恐怖とともに刻まれた、ナイトメアに与えられた唯一の名だった。
記録は秘匿され残らない。だが、確かに存在する。
迷宮に潜む悪意そのもの。
国家すら震え上がらせた、EX級脅威と後に呼ばれる存在へと。
それが、再び、動き出そうとしていた。
黒の回廊……第十八階層へ。
それは、これまで誰も到達したことのない未踏の領域として、リバースアース全土にその名を轟かせていた。
そして、五星姫がそこに挑んでいる。人々は息を呑み、画面越しにその戦いを見守っていた。
しかし、実のところ、第十八階層は、すでに攻略済みだった。
数日前。
ルーセントとレインが率いるコード・ミラージュの部隊が、極秘裏にこの階層へ潜入し、攻略を完了させていたのだ。
とはいえ、それはS級に手が届くレベルに達している彼女たちにとって、大した戦果ではなかった。
本来、この階層のボスとして出現するはずだったのは、オークロード。
確かに強敵ではあるが、彼女たちと同様に五星姫の実力をもってすれば、多少の苦戦はあれど、十分に勝機はあっただろう。
しかし、五星姫たちは知らない。
そのボス部屋に、脅威を呼ぶ転移装置が設置されていることを。
それが、白蛇紋システムによって生み出された試作型の転移コアであることを。
そして、その座標が、ある存在を呼び寄せるために調整されていることを。
ルーセントたちは、ただ彼女達の絶対的な主の命令に従っただけ。転移装置を設置し、周囲の脅威を排除し、痕跡を消す。
それだけの任務。
彼女たちにとって、それは少し煩雑な掃除に等しい作業だった。
とはいえ、その掃除の果てに残された空白の部屋は、いま五星姫たちを迎え入れようとしている。
何も知らずに、彼女たちは進む。
その先に待つものが、本来のボスではないことを知らぬまま。




