第52話 影は先に進み、悪夢は待っている
そして実際のところ、鏡宮 美麗は動いていた。
雪たちがミラーパレスに突入する数日前……コードネーム《ミラージュ》と呼ばれる美麗直属の暗部、そのチームを先行で潜入させていた。
目的はただひとつ。つゆ払い……すなわち、雪の前に立ちはだかる想定外を、事前に排除すること。
「白銀坂 雪に、余計な刺激は不要です……彼には、ただ一刻もはやくユグドラシルが待つ十五階に到着していただければ、それでよい……ふふっ」
その命令は、冷たくも、どこか慈悲をおびていた。
コード・ミラージュの存在を知る者は、国家の上層部の中にもほとんどいない。
彼女らは記録にも残らず、存在すらも鏡宮の裏に隠されている。
もしかしたら、九条財閥が有する群星リンクの中でも情報操作に特化した九重すみれには、わずかにその痕跡が漏れているかもしれない。
とはいえ、その存在は鏡宮においても、最深の秘中の秘。そして、誰の目にも触れぬその影に、彼女たちは確かにいた。
コード・ミラージュ。鏡宮美麗の命によってのみ動く、絶対服従の兵士たち。
その正体は、白蛇紋システムによって生み出された歪な模倣体。
先頭に立つのは、コード・ルーセント。
透き通る薄い金髪に、淡く光を帯びた瞳。その身に宿す白蛇紋の力は、他の追随を許さない。
まるで光そのもののように、静かに、そして確実に、敵を焼き尽くす。
彼女は、特異個体。美麗の最初の模倣にして、最も完成された光を帯びた影。
その隣に立つのは、コード・レイン。
漆黒の軍装に身を包み、無表情のまま部隊を指揮する統率型。
彼女の命令は絶対であり、戦場においては一糸乱れぬ動きを見せる。
その存在は、まさに支配そのもの。彼女が指を鳴らせば、戦場は一瞬で沈黙に包まれる。
その背後に控えるのは、無数のコード・シェイド。
顔のない仮面をつけた、無個性の影たち。彼女たちは、オリジナルの影として量産された存在であり、ただ命令に従い、ただ敵を排除する。
感情も、言葉も、名前すら持たない。あるのは、ただ忠誠のみ。
さらに、補助要員として配置されたのが、コード・ミラーとコード・ライン。
ミラーは、美麗の姿を模した鏡像。
特異な能力は持たず、ただその外見だけが彼女に似せられている。その存在は、あくまで象徴であり、一般兵としての役割を担い、実力的にはD級冒険者に相当する。
ラインは、識別番号で管理される量産型。
《ライン-07》《ライン-12》《ライン-19》……こちらも一般兵士として存在する彼女たちは、まるで工場の生産ラインから流れ出た部品のように、均一で、無機質で、完璧だった。
彼女たちは、誰の命令にも従わない。
ただ……鏡宮 美麗と特殊個体たちの声だけが、彼女たちの世界の法だった。
それは、忠誠という名の呪い。
それは、創造主への絶対的な帰属。
そして今、彼女たちは動いている。
白銀坂 雪のために。
彼の前に立ちはだかる想定外を、静かに、確実に、影の中で排除し、安全にユグドラシルに届けるために。
コード・ミラージュの中でも、ルーセントとレインは、ずば抜けて優秀な個体として、戦闘、戦術、魔力制御、情報処理、すべてにおいて、他の追随を許さない。
とはいえ、彼女たちですら、決して越えられない原点がある。
コード・ゼロ……鏡宮 美麗。
原初にして唯一。白蛇紋システムの起点であり、すべてのコード個体の雛型。
彼女の存在そのものが、コード・ミラージュの法であり、神であり、母でもあった。
そして、その美麗の傍らに常に控えるのが、コード・エコー。
秘書長として振る舞うその個体は、最も忠実な反響体。
美麗の言葉を反復し、意志を補完し、時に先回りして命令を実行する。彼女の存在は、まるで美麗の影そのものだった。
この三体……エコー、ルーセント、レイン。それは、鏡宮美麗という絶対的な柱を中心に構成された、完全なる写し鏡の三人の僕。
静かな狂気をはらんだ忠誠が、そこにはあった。
そして、その均衡を、揺るがす想定外の一体が存在する。
コード・ナイトメア
それは、狂気の果てに生まれた偶然。
模倣の連鎖の中で、何かが狂い、何かが欠け、何かが混ざった。
形はある。しかし、魂はない。
性別もなく、意志もなく、ただノイズのような微かな知性が、空虚の中でざわめいている。
単純な命令には従う。だが、理解しているわけではない。
感情もない。だが、時折、誰かの声に反応するように、首を傾げる。
その姿は、まるで夢の中の亡霊のようだった。
白蛇紋システムによって生み出された歪で図らずも生まれた失敗作……コード・ナイトメア。
美麗ですら、その存在を「失敗作」と呼びながら、なぜか破棄しようとはしなかった。
そして、その理由が、明らかになる日が訪れる。
某大国の北部に広がる未踏のダンジョン。そこに、白蛇紋システムによって完成したばかりの試作転移装置が、極秘裏に設置された。
転移コアの設置と安定化を担ったのは、ルーセントとレインが率いるコード・ミラージュの先遣部隊。
彼女たちは、誰にも知られぬまま、迷宮の深層に潜入し、転移座標を確保した。
五十年前に突如としてダンジョンが発生したリバースアースにとって、迷宮は新たなるエネルギーの宝庫であった。その攻略は人類の夢であり、未知を切り拓くパイオニアたる冒険者たちの使命でもあった。
しかし、現実は過酷だった。
ダンジョンの危険性はとても高く、攻略には膨大な犠牲と時間を要した。その中で、長らく待ち望まれていた三大発明があった。
一つ目は、ダンジョン攻略に不可欠な回復手段であるポーションの開発。現在はレアドロップに頼るしかなく、供給は不安定なまま、価格は上昇の一途をたどっていた。そして九条財閥が世界に先駆けて人工ポーションの開発に取り組んではいるが、それは未だ試行錯誤の連続であり、前途多難な事業となっていた。
二つ目は、ダンジョン探索を劇的に変える転移装置の発明。迷宮内の移動を一瞬で可能にするそれは、夢物語とされてきたが、ついに鏡宮財閥が試作に成功した。しかし、その成果が世界に発表されることはなく、数多の組織の情報網にすら一切漏れることはなかった。
それは、秘匿技術の管理における鏡宮の徹底ぶりと、その背後にある圧倒的な情報統制力を如実に物語っていた。
そして三つ目、男女比が1:100となったこの世界で、白印と呼ばれる儚く繊細な男性たちが、女性たちの保護対象となって久しい。そんな世界で、かつて存在した逞しく、強く、頼れる男たちの姿は、今や伝説の中の幻。その復活を望む声は、密かに、しかし確かに広がっていた。
白蛇紋システムは、そんな願望をも内包していた。
本来の目的……それは、失われた男性性の再構築。白印たちを、かつてのような存在へと還元するための、禁断の装置の構築。
そして今、鏡宮財閥はその力を、転移装置の稼働に転用しようとしている。
この発想の転換は、当初、感情エネルギーを蓄積・送信するための補助機構を設計していた最中に、偶然にも導き出されたものだった。
本来の用途とは異なる応用……とはいえ、それはまさに、思いがけない閃きによる副産物だった。
しかし、その起動には、莫大なエネルギーが必要だった。感情、願望、恐怖、憧憬……人々の心から抽出される感情エネルギーこそが、その鍵となる。
白蛇紋が静かに脈動する。その中心で、転移装置が、目覚めの時を待っていた。




