第43話 風は駆け、影は奪い返す
風が、また一陣、血の匂いを運んできた。
美しすぎる森の中に、確かな現実の気配が混じり始める。
リュカは走り出そうとして唇を噛み、視線を丘の向こうへと向ける。熟練冒険者の勘が、どうしようもなく胸の奥をざわつかせていた。
このままでは、間に合わない……そんな焦燥が、喉元までせり上がってくる。
「……カゲトラ、止まってくれ」
リュカが声をかけると、カゲトラは無言で振り返った。その目に宿る光を見て、リュカは頷く。
「風の印、合わせるぞ。風詠みで、加勢する」
「心得た」
カゲトラは刀の柄に手を添え、リュカはリュートを構える。
二人の間に、言葉以上の連携が走る。バルドも静かに目を閉じ、数珠を握りしめた。
「風林火山……風の印!」
「風よ、目覚めろ 《風詠みの旋律・第一楽章》!」
カゲトラの言霊が空を裂き、同時にリュカのリュートが高らかに鳴り響く。その瞬間、大地が震え、空が唸った。
カゲトラの足元から爆ぜた風の紋が、雷光のように三方向へ走り、リュカの旋律がそれに呼応し、音の波が風に乗って広がっていく。
天を貫くような風の柱が三人を包み、空には巨大な風の刃の幻影が浮かび上がった。それはまるで、風神が三人に力を貸すかのような神威の顕現。
風は唸りを上げて渦を巻き、三人の足元に同時に紋章が浮かび上がる。その中心から、淡い光が吹き上がり、身体を包み込むように駆け巡った。
「……いつ見ても、お主らの複合魔法は惚れぼれするの」
バルドが目を細め、慈悲乃鉄槌を肩に担ぎなおす。その巨体すら軽やかに感じるほど、風の加護が全身を駆け抜けていた。
「よし、風が味方してくれてる!」
リュカがリュートを握り直し、口元に笑みを浮かべる。
「拙僧も、これならば……存分に振るえるな」
バルドが静かに呟き、足を一歩踏み出す。
風が三人の背を押すように吹き抜けた。その風は、ただの空気の流れではない。意志を持ち、彼らを勝利へ導かんとする、神秘の力そのものだった。
無冠の灯の六人が揃って駆けるとき、風は彼らの背を押す。それは、たとえ今は三人しかいなくとも幾度もの戦場を共に越えてきた証。
言葉は少なくとも、術はすでに、心と心を繋いでいた。
「ニャル、コトラ、フワリ!」
リュカが振り返り、鋭く声をかける。その瞳には、決意の光が宿っていた。
「俺たちが先行する! 君たちは、ここで周囲を警戒して待っててくれ」
「えっ……でも、うちらも……」
ニャルが一歩踏み出しかけた、その時だった。
「……いけませぬ」
低く、しかしどこか慈愛を帯びた声が、彼女の足を止めた。バルドが一歩前に出て、静かに首を振る。
「この先は、戦場となるやもしれぬ。拙僧らが汝らを守りきれる保証は、ない」
その言葉には、怒りも苛立ちもなかった。ただ、命を預かる者としての責任と覚悟があった。
ニャルは悔しそうに唇を噛み、しばし俯いた、そしてすぐに顔を上げると、まっすぐにリュカたちを見つめる。
「……わかったにゃ。でも、気をつけるにゃ……絶対、無事で戻ってくるにゃ」
「任された」
カゲトラが短く応じる。その声音は静かだが、確かな信念が込められていた。
「……風は、我らに味方しておる。すぐに戻るでござる」
そう言い残し、彼は一刻も無駄に出来ぬと再び風のように駆け出した。その背を追うように、リュカとバルドも地を蹴る。
風が、三人の足元を撫でるように吹き抜け、すぐに森の奥へと消えていった。
三人の姿が森の奥へと消えていった後、残された猫獣人の三匹は、しばしその場に立ち尽くしていた。
「……うぅ、なんか、胸がざわざわするにゃん……」
ニャルがぽつりと呟く。その瞳は丘の向こうを見つめたまま、微かに揺れていた。
「うちも……なんか、イヤな感じするにゃ……」
フワリが耳を伏せ、しっぽをぎゅっと抱きしめるように丸める。その声はかすかに震えていたが、どこか決意の色も混じっていた。
「ねぇ、ねぇ、やっぱり行こうよ! うちらの里なんだよ!? じっとしてられないにゃん!」
コトラが勢いよく叫び、くるりと踵を返す。その目には、涙と怒りと、そして強い意志が宿っていた。
「でも……三人に止められたばっかりだよ……」
フワリが不安げに言う。
「うん、でも……」
ニャルがゆっくりと首を振る。
「……あたしたちだって、里の一員だにゃん。見捨てるなんて、できないよ」
「だにゃっ!」
コトラが拳を握りしめ、にぱっと笑う。
「よーし、こっそり追いかけるにゃん! バレなきゃセーフにゃ!」
「……そ、そーだね。こっそり、なら……」
フワリもおずおずと頷いた。
「よし、行こう。あたしたちの里を、ちゃんとこの目で見届けるにゃん」
三匹は顔を見合わせ、こくりと頷き合うと、駆け足で森の中へと踏み出した。
風が、彼女たちの背中をそっと押すように吹き抜けていった。
丘を越えた瞬間、リュカたちの足が止まった。
「……っ!」
眼下に広がるのは、炎と悲鳴に包まれた地獄だった。
木々の間に点在する小さな家々は、すでにいくつも崩れ落ち、黒煙を上げている。地面には倒れ伏した猫獣人たちの姿。中には動かぬ者もいた。
空気は血と焦げた毛皮の臭いで満ち、風が吹くたびに、かすかな呻き声が混じって聞こえてくる。
「……遅かった、のか……」
リュカが呆然と呟いた。しかし、惨状はまだ終わっていなかった。
集落の中央……かつて広場だった場所の中心に、ひときわ異様な存在が立っていた。
その姿を見た瞬間、三人は違和感を覚えた。
「……あれが、コボルト……だと?」
バルドが低く唸るように言った。
そう、それをコボルトと呼ぶには、あまりに異質だった。
身の丈はバルドよりも一回り以上大きく、筋肉の鎧をまとったような巨躯。
そして全身を覆う黒紫の毛並みは、まるで闇そのものを吸い込んでいるかのように鈍く光り、その背からは、禍々しい黒煙のようなオーラが立ちのぼっていた。
そして、その手に。
「……っ!」
その巨体の腕に掴まれていたのは、ひときわ目を引く猫獣人の女性だった。
しなやかな肢体に、艶やかな長毛の毛並み。琥珀色の瞳は強い意志を宿し、戦士としての気迫をまとっている。
その佇まいには、ただの里の民ではない気高さがにじみ出ていた。とはいえ、その誇り高き姿は、いまは宙に吊るされている。
片手で首を掴まれ、持ち上げられた彼女は、必死にもがいている。爪を立て、足をばたつかせ、なおも睨みを利かせるその眼差しは決して折れていなかった。
その足が空を蹴るたび、それを見せられているリュカの心臓が締めつけられるように痛んだ。
「……くそっ、あんな魔物に……」
リュカの手が、無意識にリュートの弦に触れる。その時だった。一陣の風が、彼の横を鋭く吹き抜けた。
次の瞬間、宙に吊るされていた猫獣人の女性が、こつ然と姿を消した。
「……え?」
誰もが、何が起きたのか理解できなかった。
リュカも、バルドも、そして、彼女を掴んで絞め落とそうとしていた異形のコボルトすら。
そして……気づけば、カゲトラがそこにいた。
魔物のすぐ横、風のように現れた彼の腕の中には、その女性がしっかりと抱きかかえられていた。
「……間に合ったでござるな」
カゲトラが静かに呟く。その足元には、何かが転がっていた。
それは、異形のコボルトの右腕。
肘から先が、まるで紙のように断ち切られ、地に転がっている。黒紫の毛並みが血に濡れ、異様なオーラがそこから煙のように立ちのぼっていた。
「……ナ、ナンダ……?」
巨体の魔物が、初めて声を漏らした。
その声には、怒りでも叫びでもない。ただ、純粋な困惑がにじんでいた。




