第40話 刃を向けぬ選択、迫る足音
鍋の中でスープがことことと音を立て、香草の芳しい匂いがさらに濃くなる。
「……クラウ、ストレイ、フェルマの三人は無事でいるかな」
リュカがぽつりと呟く。
その声に、バルドもカゲトラも、自然と顔を上げた。あいつらのことだから、大丈夫……そう思いたい。
とはいえ、転移の衝撃と、この不可解なダンジョンの様子を思えば、楽観はできない。
「三人とも、同じ場所に転移していれば、さほどの問題もなかろうが……」
「個別に飛ばされてたら、ちょっと厄介だな。合流の目処も立たねぇし」
リュカが眉をひそめると、バルドが静かに頷いた。
「とはいえ、あの三人なら、きっと大丈夫だ。何せ、ここはこの程度の低ランクの迷宮だ。あいつらの手に余るようなものじゃない」
「うむ。クラウ殿の剣は鋭く、ストレイ殿の術は冴えておる。フェルマ殿も……あの者の策は、時に拙者の想像を超えるでござる」
「だな。むしろ、こっちが先にやられないように気をつけねぇと」
三人の間に、ふっと笑みがこぼれる。
「この迷宮のどこかに転移して来ているのならいいのだけど……別の迷宮だと探すのも一苦労だな」
不安はある。だが、それ以上に、仲間への信頼があった。
「まあ、先ずは生きてこの迷宮を抜け、無事に国に戻ることだな……そう考えたら、戦力的には、いい感じに分かれたもんだ」
前衛は、クラウとカゲトラ。
後衛は、ストレイとバルド。
そして、中衛に、フェルマとリュカが無冠の灯の通常の隊列だった。
「……拙僧、後衛でよいのか?」
「まあ……どう見てもお前、前衛バリバリの見た目だよな」
リュカが呆れたように言うと、バルドは照れたように笑い、鍋の蓋をそっと閉じた。
身長は百九十センチを超え、丸太のような腕に、岩のような胸板。分厚い僧衣風の戦闘装束の下には、鎧で補強された肩と胸元。
その巨体が振るう鉄製メイス『慈悲乃鉄槌』は、見た目だけなら完全に破壊の象徴だ。
しかし、バルドはそれを「祝福の延長」と呼ぶ。その目はいつも優しく、顔には汗と笑顔が絶えない。
「拙僧の拳は、癒しのためにある……そう思いたい」
「思いたいってなんだよ」
「ふふ、すまんすまん。だが、あの三人が無事なら、きっとまた会える。そう信じよう」
「……ああ。あいつらなら、きっとどこかで俺たちと同じように呑気に飯食ってるさ」
「フェルマ殿がつくる料理の毒見は、ストレイ殿の役目でござるな」
「……あいつ、また胃薬増やしてそうだな」
三人の笑い声が、静かなダンジョンに溶けていった。
スープの香りが満ちる中、三人は音も立てずに器を手に取った。温かな味が、身体と心をゆっくりとほぐしていく。
「……よし、腹も落ち着いたら、地上を目指すか」
リュカが器を置きながら、ぽつりと呟く。
「うむ。まずは合流を目指しつつ、上層への道を探るとしよう」
「どこかで、この迷宮を攻略中の歯車……この国の冒険者たちに出会えたらいいんだけどな。なんにしても情報が欲しい」
「懸念があるとすれば……我がミレディアセイン女王国と敵対関係にある国の者でなければよいが」
バルドが眉をひそめ、スプーンを置いた。
「言葉が通じればまだしも、通じなければ……面倒なことになるな」
「バルド、念のため翻訳の魔法、かけといてくれ」
「承知。拙僧の『言霊の交わり』が、異なる舌を結び合わせようぞ」
バルドは立ち上がり、静かに呪文を唱えはじめた。
その声は低く、穏やかで、まるで風が水面をなでるようだった。やがて、淡い光が三人の胸元にふわりと灯る。
「これで、かなりの言葉の違いは補えるはずだ……ただし、意思が通じなければその限りではないがな」
「そこはもう、気合いでカバーだな」
「拙者、気合いには自信があるでござる」
「お前のは気合いというか、気迫だろ……」
三人の笑い声が、再び静かな空間に広がっていった。
食事を終え、器を片づけた三人は、再び装備を整え、魔法陣の縁へと足を向けた。
薄明かりの中、扉の向こうに続く通路が、静かに彼らを待っている。
「……敵が弱いからって、気を抜くなよ」
リュカが背中越しに言う。
「クラウなら、こう言うだろ。警戒を怠るなよ。迷宮は、牙を隠す……ってな」
その言葉に、バルドとカゲトラが顔を見合わせ、なぜか同時に苦笑した。
「……お主が一番、気を抜くなよ」
「うむ。拙者、リュカ殿のうっかりには何度も肝を冷やした覚えがあるでござる」
「信じてるからこそ、心配ではある……というか、今回の転移がバラバラになったのも、そもそも誰のミスだったかな?」
「……うっ」
リュカが肩をすくめ、目をそらす。
「いや、あれはちょっとした魔法陣の読み違いで……その、罠の発動条件が複雑で……」
「ふむ、ちょっとしたで済まぬ結果になったでござるな」
「まあ、結果的にこうして無事だったからそれはよいが。なんにしてもここは頼むぞ、うっかり吟遊斥候さんよ」
「お前らほんと、仲間に厳しくないかっ!?」
三人の笑い声が、再び静かな空間に広がっていった。
そんなやりとりの後、彼らは扉を開け、次の階層へ向かって足を踏み出す。その背中には、確かな信頼と、少しの不安と、そして変わらぬ絆があった。
そして、数十分後。
「……敵が弱いからって、気を抜くなよ」などとうそぶいていた自分を、今すぐ殴りたい。
リュカは、荒く息を吐きながら、背後の扉を全力で閉めた。
そのすぐ隣で、バルドが肩で息をし、カゲトラでさえ、額に汗を浮かべて壁にもたれかかっている。
先ほどの魔法陣の部屋。そこへ三人は、それこそ全速力で逃げ帰ってきたのだった。
「……はぁ、はぁ……な、なんだよ、あれ……」
「拙僧……拙僧、心より詫び申す……完全に、油断しておった……」
「俺たち、モンスター部屋に迷い込んで、デーモンロードとグレータデーモンの群れに囲まれた時だって、正面からやり合ったよな……?」
「うむ……だが、今のは……あれは……」
言葉を濁すカゲトラの声が、わずかに震えていた。常に冷静沈着な彼のそんな様子に、リュカもバルドも、改めて背筋を凍らせる。
三人の間に、沈黙が落ちた。
ただ、荒い呼吸音だけが、魔法陣の光の中に響いていた。
それは、先ほどの部屋を出てから、数度の戦闘を経て、彼らは徐々にこの階層の魔物の傾向を掴みはじめていた。
出現するのは、いずれも迷宮特有の生成型……この空間で生まれ、この空間で朽ちる存在たち。
そのどれもが知性は低く、ただ本能のままに襲いかかってくる。
……ただし、例外もある。
ごくまれに、ゴブリンやコボルトといった人型の魔物が、迷宮内で独自の進化を遂げることがあるのだ。
彼らは群れを成し、時に集落を築き、簡易な言語や道具を用いて生活を営む。
その存在は、もはやただの魔物とは呼べない。
そして、そうした進化個体を討伐した場合、通常の魔物のように魔石や素材を残して消えることはなく、代わりに亡骸がその場に残される。
まるで、ただの命ある存在を殺めたかのように。
「……ああいうのは、できれば避けたいな」
バルドの言葉には、戦士としての矜持と、僧侶としての想いがにじんでいた。
そして、次の分岐路を前にしたとき、バルドがふと足を止めた。
「できれば……無駄な殺生は、したくない」
「む?」
「この迷宮で生まれた魔物だとしても、だ。俺たちが通らなければ、あいつらも、ただそこにいるだけだったかもしれん」
リュカが眉をひそめる。
「でも、向こうが襲ってくるなら、やるしかないだろ?」
「うむ。されど、こちらから刃を向ける必要はあるまい」
バルドの言葉に、カゲトラが静かに頷いた。
「ならば、拙者が威圧を放とう。それで退かぬようなら、戦うまで……それが、武の道理でござる」
「……了解。じゃあ、まずは様子見ってことで」
そのときだった。
通路の奥から、複数の気配が近づいてくるのを、三人は同時に感じ取った。
足音、衣擦れ、そして微かな魔力の揺らぎ、それは、彼らが期待していたこの国の冒険者ではなさそうだったが、通常のリポップしてくる魔物のものとは明らかに異なる、知性を感じる整った歩調だった。
「……来るぞ」
リュカが、そっとリュートの弦に指をかけ、バルドは巨大なメイスを盾のように構え、カゲトラは静かに刀の柄に手を添えた。




