第39話 偽りの深層、湯気の向こうの賛歌
「うおおおおっ!?」
最初に声を上げたのは、バルドだった。百九十センチを超える巨体が、石畳にドスンと着地し、床がわずかに軋む。
続いて、ふわりと風をまといながら、リュカが軽やかに一回転して着地。
最後に、まるで音をたてることなく、カゲトラが静かに地を踏みしめる。
「……ここは、どこでござるか」
「む、転移罠とは……しかも、ここは拙僧の記憶にもない迷宮とみえる」
三人は互いに顔を見合わせ、そして周囲を見渡した。
そこは、見たことのない構造の迷宮だった。壁は滑らかな石でできており、空気は重く、魔力の濃度があきらかに彼らの知っているものと違った。
そして何より、どこか人工的な気配がこの迷宮には色濃く漂っている。
「……転移罠、か。だとすれば、ここは……」
リュカが腰のリュートに手を添え、耳を澄ます。風の音が、どこか不自然に反響していた。彼は眉をひそめると、そっと風詠リュートの弦をはじく。
生まれた風が壁をなぞり、音の輪郭を浮かび上がらせる。
「……まさか、転移罠にかかるとはな。やっぱり、焦ってたか」
C級昇格がかかった大事なクエスト。そして迷宮庁推薦の実地任務という響きに、つい気負ってしまった。
リュカは珍しく小さく舌打ちをする。それは、斥候として致命的な判断ミスによる結果だった。
「……カゲトラ、無事か?」
「うむ。拙者は、特に異常はないでござる」
短く、しかし芯のある声が返る。
カゲトラはすでに立ち上がり、背筋を伸ばして周囲を警戒していた。その動きに、無駄は一切ない。まるで、影のように静かで、鋭い。
無影居合のカゲトラ。
かつてA級まで上り詰めた実力者。
まだB級だった頃、彼はある任務で、女王陛下の親衛隊に所属する一人の『侍』と出会った。その人物は神環の聖騎士の一人として名を馳せる伝説級の剣士であり、その立ち居振る舞い、信念、そして己を律するという生き様に、カゲトラは深く心を打たれた。
「真の武とは、己を律することなり」
その言葉は、今も彼の胸に刻まれている。
後に、迷宮の深層に潜った際、偶然発見した『レアクラス転職の秘宝』を手にしたとき、カゲトラは一切の迷いなく侍へのジョブチェンジを選んだ。
それは、かつて憧れたあの背中に、少しでも近づくための選択だった。
その代償として、ランクはE級に逆戻り。しかも、侍クラス特有の言霊の呪いにより、話し方まで完全に武士語に固定されてしまった。
「拙者、転移の衝撃にて、羽織が乱れ申した……無念」
「いや、そこはどうでもいいだろ……」
寡黙でストイック。
余計な動きは一切せず、感情もめったに表に出さない。その生き様そのものが無影と呼ばれる所以であり、仲間内ではすでに技というより哲学と評されていた。
変人扱いされようが、彼は気にしない。「真の武とは、己を律することなり」それが、彼の揺るぎなき変わることのない信条なのだから。
転移の衝撃が落ち着いたのを見計らい、三人は無言のまま散開した。
リュカが風詠リュートを弾き、風の流れで通路の構造を探る。カゲトラは壁際を滑るように進み、罠の気配を探知。そして、バルドは後方に立ち、静かに両手を組み合わせた。
《聖標の灯 (セント・マーカー)》
低く呟かれた詠唱とともに、彼の手のひらに淡い光が灯る。
その光はふわりと宙に浮かび、やがて周囲の空間をなぞるように回転し始めた。まるで見えない地図をなぞるように、光は複雑な軌跡を描き、最後に一点を指し示す。
「……ここは、地下十六階……間違いないな」
バルドが魔石を拾い上げ、眉をひそめる。
「……おかしいな。地下十六階にしては、敵が弱すぎないか?」
リュカが呟く。現れた魔物は、どれも彼らが知る迷宮では、せいぜいが地下一階か二階に出る爬虫類型か、動きの鈍い魔導ゴーレムの亜種ばかり。
当然のことだが、ドロップする魔石は小粒で、魔力の質も低い。すべて集めて換金しても、せいぜい酒代ぐらいにしかならないだろう。
「拙者も同感。魔の気配、浅きこと水の如し。これが深層のはじまりと位置付けられる十六階とは、信じ難し」
「うむ……この空気の薄さ、魔力の流れも妙に均一だ。まるで、誰かが計算して整えているような……」
バルドが拾った魔石を指で弾くと、カランと軽い音を立てて転がった。
その音が、やけに遠くまで響いた。
「……妙だな。まるで見せかけの深層って感じだ」
「罠か、あるいは……誘導かもしれんな」
慎重に進みながら、三人はやがて開けた空間にたどり着いた。
中央には、淡く光る魔法陣が浮かび、ここが休憩できる空間であることを示していた。
「……とりあえず、ここで一息入れるか。魔力の流れも安定してる」
「拙者、周囲を見張るでござる」
そう言うと、カゲトラは静かに目を閉じ、刀の柄に手を添えた。呼吸を整え、意識を内へと沈める。《心静かなる刃》 精神統一の奥義が、周囲の気配を研ぎ澄ます。
魔力の揺らぎ、空気の震え、石壁の向こうに潜む気配までもが、静かに浮かび上がってくる。
敵影、なし。魔力の流れ、安定。……今のところでござる、が。
カゲトラは目を開け、無言でうなずいた。その仕草だけで、仲間たちには十分に伝わる。彼の無影の眼が、今も確かにこの場を守っていることが。
「じゃあ、拙僧は飯の準備を……そういえば、転移のドタバタで飯がまだだったな」
三人は、静かに腰を下ろした。
バルドは荷物の中から、手慣れた動きで調理器具を取り出す。
鉄製の鍋、折りたたみ式のまな板、そして香草の詰まった小さなポーチ。その巨体からは想像もつかないほど、彼の手つきは丁寧だった。
水の魔石で鍋を満たし、火魔石で火を起こす。
その間に、乾燥肉を薄く削ぎ、薬草を刻む。包丁の音は静かで、リズムが心地よい。
「……フェルマに分けてもらった根、まだ香りが残ってるな。よし、今回は迷いの森の香湯スープだ」
呟きながら、バルドは鍋に具材を落とし、木のスプーンでゆっくりかき混ぜる。湯気とともに立ちのぼる香りが、薄暗いダンジョンの空気をやわらかく染めていく。
リュカがちらりとその様子を見て、ふっと口元を緩めた。
「……その手際でその味なら、尊き御方にだって出せるんじゃねぇの?」
その一言に、バルドの手がぴたりと止まる。
「せ、せ、拙僧の料理を……と、尊き御方に……!? そ、それは……いや、しかし……いやいやいや……」
顔を真っ赤にしながら、鍋の湯気に紛れてごまかそうとするバルド。その巨体が肩をすくめて縮こまる様子は、どう見ても戦場の猛者には見えなかった。
「……いや、絵的にどうなんだよそれ。身の丈二メートル近い大男が、湯気の向こうで顔真っ赤とか……」
リュカが笑いながら肩をすくめると、今度はバルドが反撃に出た。
「……そう言うリュカ殿は、尊き御方の御前にて、その歌を披露できるのか?」
「……っ」
リュカの口が、ぴたりと閉じ、さっきまでの軽口が嘘のように、顔をそむけると、リュートの弦をいじり始める。
「……そ、それは……神罰が下るだろ……」
「ふむ、沈黙の返答。拙僧、察した」
「お主、顔が真っ赤でござるぞ」
「うるさい……」
女性が極端に少なく、誰もが敬い、特別な存在として扱われるのが当たり前の世界で生き、尊き御方と呼ばれる女性に出会える機会など、彼らにとってはまさに奇跡のようなものだった。
それでも、いつかその奇跡が訪れたときのことを、三人はどこかで夢見ていた。
もっとも、実際にその機会が訪れたとして、彼らがまともな対応を取れるとは到底思えなかったが……。
湯気の向こうで、三人の影が揺れる。
鍋の中で、薬草と乾燥肉が静かに煮立ちはじめる。湯気が立ちのぼり、香りが空気に溶けていく。
その穏やかな空気に誘われるように、リュカがふと、口を開いた。
「……銀の髪、風に舞い 額に灯るは、聖のしるし……」
それは、彼がよく口ずさんでいた古謡だった。
誰に教わったのかも覚えていない。けれど、迷宮の焚き火のそばで、何度も何度も歌ってきた旋律。
「そのもの魂を呼び 命を繋ぐ……その御方の尊き名は、風の奥に……」
歌声は、静かに、けれど確かに空間を満たしていく。
まるで、遠くにいる誰かへ祈りを届けるように。あるいは、忘れたはずの記憶を、そっと呼び起こすように。
「……巫女様の歌、か」
バルドが、鍋をかき混ぜながら呟いた。その声には、どこか懐かしむような、優しい敬いの響きがあった。
「招魂の巫女様……俺たちを生んでくださった、あの御方の」
「……拙者にとっては、至高の女王陛下と並び立つ、唯一無二の存在にござる」
「……ああ。巫女様がいなければ、俺たちはこの世にいなかった」
三人は、それ以上言葉を交わさなかった。
ただ、リュカの歌声が、静かに響いていた。それは、彼らにとって始まりの記憶。
魂が呼ばれ、生まれ落ちたその瞬間に、確かに聞こえていた旋律。
風が、そっと揺れた。まるで、その歌に応えるように。
リュカの歌が静かに終わると、しばしの沈黙が訪れた。
鍋の中でスープがことことと音を立て、香草の香りがさらに濃くなる。




