第32話 守る者、守られる温もり
周囲では、斗花をその胸のなかに抱えたクラウ、ストレイの胸のなかに顔をうめるうたたが、まるで時間が止まったかのように、微動だにせず佇んでいた。
その光景が、夜々の頭をふわりと揺らす。
胸に抱いたフェルマの体温が、じんわりと腕に残る。それが現実であることを、否応なく突きつけてくる。
「……あ、あの、これ……いや……違います……」
普段なら決して漏らさないような声が、夜々の唇から、かすかにこぼれた。
そのすぐ横では、斗花がまだ、クラウの腕の中でお姫様だっこされたままだった。
そこへ、ずい、と紫乃が詰め寄る。
「いい加減、かわりなさい!」
「……え?」
斗花はきょとんとしたまま、ストレイとうたたの方へと視線を向ける。
「……あっちは?」
「あっちは、誰がどう見ても、つけ入る隙間もありませんでしょう!?」
「……ああっ……」
納得したのか、諦めたのか。斗花は小さく声を漏らし、クラウの腕の中で、そっと身を起こす。
クラウは、まるで精密機械のように正確な動きで、けれど騎士としての礼節を忘れず、斗花を丁寧に地面へと降ろした。
その所作は完璧だった……ただし、彼の目は、完全に虚ろだった。
(女性……尊き御方……抱える……順番……?)
(理解……不能……思考……限界……)
クラウの中で、何かが静かに音を立てて崩れた。その瞬間から、彼はただのオートマター騎士と化していた。
表情は硬直し、動きは正確すぎるほどに滑らかで、その瞳には、もはや人間らしい感情の光はなかった。
「では、次は……わたくしが」
紫乃が一歩、静かに踏み出す。
その所作は優雅で、気品に満ちていたが、その前で、冴月がぴたりと動きを止めた。
「……っ……」
声にならない声が、喉の奥で詰まる。その様子を見て、斗花が腕を組み、にやりと笑った。
「おいおい、賢者様ともあろう御方が順番も待てないのか?」
「……わたくしの賢者脳が囁いておりますの」
紫乃は、ちらりと視線を横に流す。
その先では夜々が、フェルマをお姫様抱っこしたまま、まるで時間が止まったかのように、微動だにせず立っていた。
「……違う」
ぽつりと、夜々が呟く。
「……絶対に違います……」
その腕の中で、フェルマはすでに白目を剝き、魂の半分以上が、静かに天へと召されかけていた。
紫乃は、そっと息を整えながら言う。
「……まもなく、この御方……クラウ様も限界を迎えますわ。その前に」
その言葉に、冴月は完全に言葉を失った。耳まで赤く染まり、ただ黙って俯く。
その沈黙を、豪快にぶち破ったのは、やはり斗花だった。
「よっしゃ! オレが紫乃をお姫様だっこしてやるよォ!」
「えええええっ!? い、いりませんわ!!」
「遠慮するなや! オレとお前の仲だろう?」
「世間体が悪すぎますわー!!」
ばたばたと逃げる紫乃、追いかける斗花。その様子は、もはや賢者の優雅な知性さもなく、拳闘士の豪胆さでもない、年頃の女性たちの、甘くて騒がしいひと幕だった。
その横では、うたたを抱いたまま、まるで時が止まったかのように微動だにしないストレイ。そして斗花を下ろし、次の命令を待つように直立するオートマタークラウ。フェルマを抱えたまま、「違います……」と繰り返す夜々。そして、事態を止められず、頬を赤らめたまま固まる冴月。
十八階のボス部屋は、もはやダンジョンではなかった。
そう、乙女心と尊厳と理性の、最前線戦場であった。
混沌とした空気の中で、冴月は、静かに、深く息を吸い込んだ。
(……象徴であること。皆を導くこと。常に守る側であること……)
それが、自分の役目だと信じてきた。誰よりも前に立ち、誰よりも動かず、仲間の心を支える白峰 冴月であること。
それは、誇りであり、責任であり、そして、彼女自身が選び取った在り方だった。
けれどいま胸の奥で、何かがそっと揺れていた。
胸の奥で確かに鳴った、小さな鼓動。それは、白峰冴月をそっと前へと押し出した。
「……クラウ」
その声は、いつもより少しだけ小さく、けれど、どこまでも澄んでいて、柔らかかった。
オートマターと化していたクラウは、その名を呼ばれた瞬間、反射のように顔を上げた。
視線が合う。そこにいたのは、至高の御方。第一に敬い、決して触れてはならないはずの存在。
けれど……身体は、すでに動いていた。
「……失礼、いたします」
その言葉とともに、クラウの腕が、冴月をそっと包み込む。
それは、これまでと同じ。騎士としての所作に一片の乱れもない、丁寧で、優しすぎる……完璧なお姫様だっこだった。
冴月の視界が、ふわりと浮く。
「……っ……」
思わず、息が詰まり、胸の奥が、きゅっと鳴った。
鎧越しでも、確かに伝わる体温。揺るがない腕の中で、自分がどれほど安心しているかに、ふと気づく。
その腕は、自分を落とすはずがないと、疑うことすらさせないほどに、確かなものだった。
(……守られる、って……)
冴月の胸が、そっと締めつけられる。
(……こんなにも……あたたかくて……)
誰よりも強くあろうとした王子の心に、「委ねることの温もり」が、初めて、静かに芽吹いた瞬間だった。
完全に意識が飛んでいたはずのクラウの脳裏に、ふいに、何かがふわりと流れ込んできた。
(……?)
(……香り……?)
甘く、清らかで、それでいて胸の奥をそっと揺らすような……斗花の熱とはまた違う、静かに脳を震わせるような香りだった。
(……な……んだ、これは……)
その瞬間、意識が一気に引き戻される。
見下ろした先。自分の胸の中で、頬を染め、じっとこちらを見上げている……至高の御方。
「…………」
理解が、追いつかない。
(……抱えている?)
(……いや、これは……不敬では……?)
思考が混線し、動揺のあまり、クラウの腕がわずかに緩んだ。
「……っ……!」
小さな、けれど確かな悲鳴が上がる。
「……あ……っ……!」
身体がふっと沈む感覚に、冴月の手が反射的に動いた。
ぎゅっと、クラウの首元に回される腕。その動きは、無意識のものだった。
「……っ……!」
その感触に、クラウの意識が完全に戻る。
胸元にある、かすかな重み。首に触れる、細くて柔らかな指先。そして、至近距離で感じる、冴月の体温と香り。
クラウの中で、何かが静かに、けれど確かに目を覚ました。
「……失礼!!」
クラウは、慌てて体勢を立て直そうとした。けれど、意識と肉体が噛み合わない。足元がふらつき、がくりと膝をつく。
「……っ……!」
それでも……その腕だけは、決して冴月を離さなかった。
むしろ、落とすまいとする本能が先に立ち、彼女を、さらに強く、しっかりと抱きしめてしまう。
冴月は、クラウの首に腕を回したまま、そっと顔を埋めた。
鼓動が、近い。
呼吸が、近い。
まるで、互いの心音が混ざり合うような距離。
「……大丈夫だ……」
それは、誰に向けた言葉だったのか。冴月は、小さく、けれど確かにそう呟いた。
その声を聞いた瞬間、クラウの心臓が、いままでにないほど跳ね上がる。
(……やばい……)
(……この方……近すぎる……)
完全に覚醒した意識と、まだ整理しきれない状況。
騎士としての誇りと、男としての感情が、いま真正面から衝突していた。
その場に、しばしの沈黙が落ち、誰も、声を出せなかった。
それは王子様が、初めて「守られる幸せ」を知った瞬間であり、騎士が、至高の御方を「一人の女性」として認識してしまった瞬間だった。
沈黙の中で、冴月はまだ、クラウの腕の中にいた。
頬は熱く、視線は伏せたまま。けれど、胸の奥で芽生えた温もりを、どうしても手放したくなかった。
「……」
一瞬の逡巡のあと、冴月は、小さく、しかし確かに言葉を紡いだ。
「……降ろさなくて、いい」
その声は、静かだった。けれど……致命的だった。
「…………」
クラウの思考が、再び停止する。
(……許可……?)
(……至高の御方が……?)
もはや、オートマター騎士ではない。しかし、決して正気でもなかった。
気づけば、十八階ボス部屋には、四組の奇妙でどこか甘酸っぱい雰囲気のお姫様抱っこが、見事に並んでいた。




