第31話 理性崩壊、ただいま発生中
四人の甘く混線したやり取りを横目に見ながら、紫乃の胸の奥では、静かに、けれど確かに焦燥の熱が広がっていった。
(……冴月に先を越されるわけにはいきませんわ)
賢者の名を冠する者として、この場で出遅れるなど、あってはならない。
その相手が、たとえリーダーである冴月だとしても、それは九条としての誇りであり、使命であり、何より彼女自身の、譲れない感情だった。
紫乃は、優雅さを保ったまま、しかし明らかに早足でフェルマの方へと向かう。
その足取りに、わずかに金属の軋むような音が重なった気がして、思わず眉をひそめる。
(……チイィ……などという音、わたくしという存在から出るはずが……)
「……いえ、違いますわ。わたくしが舌打ちなど……ありえませんもの」
そう心の中で否定しながらも、舌先がわずかに鳴った感覚に、頬がほんのりと赤く染まる。
(……落ち着きなさい、紫乃。あなたは九条の名を背負っているのよ)
けれど、その勢いの先には既に、夜々が静謐ともよべる雰囲気で待ち構えていた。
その姿を目にした瞬間、紫乃の足が、ふと止まる。
(……やはり、簡単にはいかないわね)
それでも、彼女の瞳に宿る光は、決して揺らがなかった。
黒の装束に身を包み、くノ一としての気配と艶やかさを極限まで研ぎ澄ませた姿。
肌をなぞるように流れる布地は、光を受けるたびにしっとりと艶めき、その存在だけで、空気に静かな緊張を走らせていた。
夜々は、目を伏せたまま、静かにそこに立っていた。けれど、その沈黙は決して無音ではない。まるで、空間そのものが彼女の気配に引き寄せられているかのように、周囲の空気が、ふと重たくなる。
やがて、夜々の瞳が、そっとフェルマを見上げた。
その視線は、決して強くはない。けれど、まるで心の奥を見透かすような深さがあった。
フェルマの呼吸が止まる。
その場に立ち尽くしたまま、まるで時間が止まったかのように、彼は動けなくなっていた。
(……この……御方……なんて……瞳で……)
言葉にならない想いが、胸の奥でざわめく。視線を逸らすこともできず、ただ、見つめられるままに。
その静かな圧に、紫乃もまた、わずかに息を呑んだ。
内心で己を叱咤しながらも、夜々の放つ圧倒的な存在感に、思わずため息がこぼれそうになる。
しかし、出遅れるわけにはいかない。
紫乃の瞳が、再び鋭く光を宿し、夜々の前に立ちはだかる覚悟を、その胸に固める。
夜々の静かな視線と、固まったままのフェルマ。そして、焦りを隠しきれない紫乃。
三者の間に、微細で甘やかな、けれど確かな緊張が張り詰めていた。その空気を切り裂くように、夜々の瞳が、静かに紫乃を見据える。
「……これだけは、貴女の命令でも譲れません」
低く、滅多に聞かれることのない声。その響きは、まるで夜の帳がそっと降りるように、周囲の空気をひんやりと震わせた。
その言葉に込められたのは、夜々特有の静かな重み。決して声を荒げることなく、ただ一言で、意志を貫く。
紫乃は、思わず息を呑んだ。
夜々が自分に対して否を示すなど、これまで一度としてなかった。その彼女の言葉には、揺るぎない決意が宿っていた。
「……お嬢様はあの人と……斗花と代わる」
その声音はあくまで淡々としていた。けれど、そこに込められた意味は、誰の耳にも明らかだった。
指先ひとつ動かさず、ただ言葉だけを持って、この場の秩序を、夜々は静かに、しかし確実に塗り替えた。
紫乃の足が、わずかに止まる。
その視線が、ふと横へと流れる。夜々がそこまで言うのならと、目が向いたのは、もちろん本命のクラウだった。
けれど、その視線の先に立っていたのは……なんと、順番待ちをしている冴月の姿だった。
「……はぁ!? 冴月も、興味ありますの!?」
思わず声が跳ねる。驚きと、ほんの少しの心の刺が、言葉の端ににじんでいた。
冴月は、わずかに顔を赤らめた。普段の凛とした佇まいは影を潜め、その表情は、どこか戸惑いを含んだ、柔らかなものだった。
「……こんな機会、もう……ないだろう」
その声は、かすかに震えていた。けれど、確かにそこには、乙女の決意が宿っていた。
紫乃の視線が、冴月に注がれる。戦場では決して見せない、あどけないほどの表情。まっすぐに前を向けず、けれど逸らすこともできず、ただ、胸の奥に芽生えた想いを抱えて、そこに立っている。
「……ああ、冴月の……そんな顔を見るのは、初めてかもしれませんわ」
紫乃の胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。言葉にできない感情が、静かに波紋のように広がっていく。
冴月の頬を染める紅。その小さな震えが、何よりも雄弁に、彼女の心を語っていた。
その瞬間、無冠の灯の男たちを巡って……一名は専属のため最初から除外、甘く、そして微妙に張りつめた空気に包まれていた。
誰もが息を呑み、次に誰が動くのかを、ただ見守るしかなかった。
小さく、けれど確かに動き出した恋の輪郭。それは、静かに、けれど確実に広がっていく。
フェルマは、まだ固まったまま、目の前に立つ夜々を見つめていた。
くノ一の装い、その布面積の少なさは、女性ばかりのこの世界においても、
なお際立つほどに挑発的だった。
夜々より少し背の高いフェルマが、彼女の顔を見ようと視線を上げるたび、どうしても視界の端に、無防備な胸元が映り込んでしまう。
慌てて視線を逸らす。けれど、下を向けば、そこには白く透き通るような太もも。
「……や、やばい……や、やばいって、これ……」
思わず、声にならない声が漏れる。
視線をギギギーッと泳がせ、助けを求めるようにストレイやクラウを見やる。
しかし、そこには尊き御方をしっかりと抱きかかえる二人の姿があった。
ストレイはうたたを、クラウは斗花を、どちらも、まるで絵画のように美しく、完璧な構図で。
フェルマは、たまらず白目を剝きかけた。
それにともなって現実感が、ふわりと遠のいていく。
「これ……現実……?」
震える声でそう呟きながら、もう一度、夜々へと視線を戻す。
そこには、ほんのりと頬を染め、少しだけ照れたように、はにかむ夜々の姿があった。
その笑みは、静かで、柔らかくて、けれど、確かに恋の気配を帯びていた。
(えっ? この御方を、あの二人みたいに抱え上げる……?)
(えっ? どこを持っても……直接、肌に触れてしまうのでは……?)
(えっ? あんなふうに……胸に……顔を……!?)
フェルマの思考が、ぐるぐると渦を巻く。再び、視線をギギギーッと泳がせてストレイとクラウを見る。
それぞれの姫が、胸に顔を埋め、幸せそうに見上げている。
なお、漢二人の視線は、見事に宙をさまよっていたが。
(えっ? あんな感じで……胸に……抱き寄せる……?)
(む、無理……無理無理無理……)
その瞬間、フェルマの限界が崩壊した。
「……あっ……ああああっ……!」
思わず漏れた声。
受け身も取れず、ふらりと真後ろに倒れ込む。
「……!」
その身体を、夜々が咄嗟に受け止めた。無言のまま、自然な流れで、その腕に、フェルマの身体がすっぽりと収まる。
それは、まさに……お姫様だっこだった。
「……こ、これ……違います……」
夜々の声が、はからずも揺れる。
抱きかかえたフェルマの体温と重みが、思いのほか現実的で、胸の奥にじんわりと染み込んでくる。
「……絶対に……違います……」
その言葉に、フェルマの意識がふっと戻る。目の前には、ほんのりと頬を染めた夜々の横顔。
透き通るような肌、細やかな手つき、そして、ふわりと香る、えもいえぬ甘い匂い。
(……あ、これ……)
理性が、完全に溶けた。
顔に触れる、あまりにも柔らかな感触。それが何かを理解する前に、フェルマの意識は、幸せを噛みしめながら、今度こそ、白目を剝いて夢の世界へ、ふわりと飛んでいった。




