第28話 事故は、運命を抱き上げた
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
第34話から第二章が始まります。
それまでは、いつも通りゆるやかな流れになっておりますので、のんびりとお付き合いいただけたら幸いです。
静寂の中、うたたが、視線を床へと落とした。
「あ……」
ボス部屋の中央に、カリギュラの魔石が転がったままになっていた。
戦闘の余波でえぐれた大地のあちこちには、オークたちを倒した際に現れた魔石が点々と落ちている。そのなかには、オークロードのものと思しき、他よりひとまわり大きな魔石もあった。
けれど、それらとは明らかに異なる、ひときわ存在感を放つ、大きな深い紅に脈打つ魔石。それは、彼女たちを瀕死に追い込んだカリギュラが滅んだ際に残した核。
うたたは、気だるげな足取りのまま一歩、前に出た。
その動きに、誰もが視線を向ける。けれど彼女は気にする様子もなく、ひょいとしゃがみこみ、魔石を拾い上げると、じっとそれを見つめた。
掌の中で魔石が淡く脈打ち、ほんのりと熱を帯びている。
(ダーリンが倒したんだもん)
うたたの思考は、誰にも聞こえない場所で、いつものように、ゆるやかに、けれど確信を持って流れていた。
(だったら、これは……ダーリンのものだよね)
別に誰かに言われたわけじゃない。ルールがあるわけでもない。でも、うたたの中では、それが自然なことだった。
(だって、ダーリンが一番がんばってたし)
(あたしは、見てたもん)
そう思いながら、彼女は魔石をそっと胸に抱えた。まるで、大事な贈り物を預かるように。
その仕草に、誰もが言葉を失った。けれど、うたたは気づいていない。ただ、当然のことをしているだけなのだから。
カリギュラの魔石をそっと胸に抱えたうたたは、そのまま、ふらりとストレイの方へと向き直る。
(これ、ダーリンに……)
そう思いながら、ゆるやかな足取りで歩き出した、その瞬間だった。
……ごりっ。
足元で、何かが不自然に転がる感触。
「……あ」
厚底ブーツの裏で、オークの魔石が滑った。
地面に埋もれていたのか、それとも戦闘の衝撃で転がってきたのか。いずれにせよ、うたたの歩幅とぴたりと噛み合ってしまったのが運の尽き。
重心が、ふっと前に流れる。
(あ……これ、やばいかも)
気づいたときには、もう遅かった。身体がふわりと浮くように、前のめりに傾いていく。
「……っ」
魔石を抱えたまま、うたたの身体がゆっくりと、けれど確実に崩れていった。
その一部始終を、ストレイは見ていた。
いや、正確には、うたたが動きだしたその瞬間から、彼女の動きに視線を奪われたままだった。
気だるげに歩き出す足取りも、胸に抱えた魔石を守るような仕草も、そして、ふいに傾いた身体。
(……危ない)
思考が言葉になるよりも早く、ストレイの身体が自然と動いていた。
「……っ!」
反射的に、手を伸ばす。けれど、距離がほんのわずかに足りなかった。
指先が、かすかに……うたたの手の甲に、ふれる。
それだけ。
けれど、その一瞬の接触に、うたたの身体がびくりと跳ねた。
驚きと反射が重なり、かえって体勢が崩れてしまう。
(……まずい)
そう思ったときには、もう、世界がふわりと浮いていた。
「……え?」
足裏にあったはずの地面の感触が、ふっと消える。
うたたの身体が、重力から解き放たれるように、宙へと持ち上がった。
詠唱はない。魔法陣も、光の紋様も何もない。ただ、ストレイの白金の瞳が、一瞬だけ鋭く細まった。
その視線が、空間の流れを制御し、空気が、重力が、彼の意志に従うように静かに変化していく。
無詠唱・浮遊制御。
それは、魔術師の中でも限られた者しか扱えない、極めて繊細で、極めて高度な術。
「……失礼しますっ」
その声と同時に、ストレイが一歩、踏み込んだ。
迷いのない動き。
浮かび上がったうたたの身体を、まるで最初からそうすることが決まっていたかのように、自然に、確かに、受け止める。
腕が、背中と膝裏にすっと回る。重さをはかる間もなく、体勢が整えられる。
気づいたときには、うたたは、完全なお姫様だっこの状態で、ストレイの腕の中にいた。
「…………」
「…………」
一瞬、時間が止まった。
近い。あまりに近すぎる。
視界いっぱいに映るのは、ストレイの顔。眼鏡の奥の白金の瞳が、至近距離で揺れている。その瞳が、何かを必死に理解しようとしているのがわかる。
うたたのハーフツインの髪が、重力を忘れたようにふわりと垂れ、フリルのスカートの裾が、彼の腕にそっと触れる。
互いの呼吸が、はっきりと感じ取れる距離。空気が、やけにあたたかくて、やけに静かだった。
ストレイの思考は、完全に停止していた。
(……軽……)
(いや、違う、そうじゃなくて……)
(え、は?……今……)
(……抱えている……?)
(しかも、よりによって……)
(この可憐な……尊き御方を……!?)
顔に、熱が一気に駆け上がる。耳の先まで真っ赤になっているのが、自分でもわかる。
一方のうたたは。
「………………え?」
数秒遅れて、ようやく現実が脳に届いた。視線が、ゆっくりと下がる。
自分の身体が、しっかりと支えられていること。その腕が、驚くほど安定していて、安心できること。そして、その腕の主が、ストレイであること。
(………………)
(………………あ)
思考が、一拍遅れて再起動する。
(……あたし……今……)
(……お姫様だっこ……されてる……?)
心臓が、どくん、と跳ねた。そして、それだけでは済まなかった。
次の瞬間、胸の奥から、まるで熱されたかたまりのような感情が、ぶわっと広がっていく。
(……やば……)
(……無……理……)
(……なにこれ……)
(……ダーリン、かっこよすぎる……)
無詠唱で魔法を使い、迷いなく身体を受け止め、当然のように抱きかかえる。
その一連の動きに、うたたの胸の奥で、何かが静かに弾けた。
(……夢に……何度もみた……シチュエーション)
(これが……本物の……漢……)
頬が、じわじわと熱を帯びていく。心臓の鼓動が、彼に聴こえてしまうんじゃないかと心配になるほど脈打っていた。
ストレイは、ようやく我に返ったらしく、慌てて口を開いた。
「す、すみませんっ! 怪我は……!」
声が、見事に裏返る。その必死さが、逆にうたたの胸をくすぐった。
「……」
その瞬間、うたたは、ふっと笑った。
「……ふふ」
柔らかく、甘く、そしてどこか危うい笑み。まるで、何かを確信した者の微笑みだった。
「……ありがと。ダー……」
言いかけて、ぴたりと止まる。そして、にいっと口角を上げた。
「……ううん。ストレイ」
至近距離で、名を呼ばれる。それだけで、ストレイの心臓は限界を迎えた。
「は、はいっ……!!」
返事は、ほとんど反射だった。声が裏返っていることにも気づかないほど、彼の思考は真っ白になっていた。
うたたは、腕の中でそっと身を寄せる。その距離は、体温がはっきりと伝わるほど近くて、それはもう、逃げ場のない距離だった。
「……落ちなくて、よかった」
その一言が、恋の決定打だったことを、ストレイはまだ知らない。
彼は、顔を真っ赤にしながら、ようやく言葉を絞り出した。
「す、すぐ降ろしますっ!」
けれど、うたたは、その腕の中で、そっと首を振った。
「ううん……もうちょっと、このままで……いい?」
その声は、囁くように小さくて、けれど、耳元に落ちたその響きは、ストレイの思考を真っ白から真っさらに染め上げた。
(……え)
(……え、え、え……え?)
うたたの髪が、ふわりと胸元に触れる。その香りが、ふいに鼻先をかすめた。
甘くて、やわらかくて、どこか胸をしめつけられるような、切なくなる匂い。
そして、腕にかかる、軽いのに確かに感じる重みと、やわらかさ。
(……む、無理……)
(……これ、無理……)
(……限界……)
ストレイの脳内から、言語が消えた。魔術式も、戦術理論も、すべてが吹き飛んでいく。
彼の視界は、真っ白だった。
一方のうたたは、確信していた。
(……やっぱり)
(……この人、あたしの運命だ)
地雷系女子の瞳が、静かに、しかし確実に光を帯びる。それは、獲物を見つけた豹のような、けれどどこまでも幸せそうな光だった。
(……もう、逃がさないからね)
十八階のボス部屋に、新たな事故が、静かに発生していた。そしてそれは、誰にも止められない種類のものだった。
百花繚乱のコメント欄は、静まり返っていた。
いつもなら、誰かが叫び、誰かが語り、誰かが滾る想いをぶつける。すみれがお姉様を讃え、誰かが冴月に魂を捧げ、静流が音もなくカップを口に運びながら観察する。
けれど今は、誰も言葉を発さなかった。
百人のガチ勢が、ただ画面を見つめていた。すみれでさえ、画面に目を向けたまま固まり、静流もまた、手にしたカップを口に運ぶことなく、ただ、目の前の光景を見つめていた。
誰もが、何も言えなかった。
それは、あまりにも唐突で、あまりにも美しく、あまりにもひとつの物語だった。
言葉にすれば、すべてが壊れてしまいそうで。語れば、何かがこぼれてしまいそうで。
だからこそ、誰もが黙っていた。
ただ、見つめていた。十八階のボス部屋で起きた、一つの事故をまるで、永遠にその目に焼きつけるように。




