第22話 その名が、御前に届くまで
名を問われる。それはただの確認ではない。この身の存在そのものを、御前に差し出すのと同じ意味を持っていた。
「……わ、私は……クラウ、と申します」
かすれそうな声。それでも、騎士としての矜持だけは崩さず、胸に拳を当てて深く頭を垂れる。
「王国迷宮庁第七探索班《無冠の灯》のリーダーをしている、クラスは剣騎士にございます……我が祖国ミレディアセイン女王国に戻るまでは、未熟ながら、刃をもって御身の盾となる者です」
それが、彼なりの存在証明だった。
続いて、クラウの背に隠れるようにしてフェルマが口を開く。
「……フェルマ、です……調薬錬金術師……第七探索支援班所属……」
視線は上げられない。それでも、震える指がぎゅっと薬が入ったポーチの紐を握りしめていた。
「……傷を癒やし、命を繋ぐ薬を……創る者、です……」
それ以上は言葉が続かなかった。とはいえ、それが彼のすべてをあらわしていた。
最後に、眼鏡を静かに押し上げながらストレイが一歩前へ出る。
「……ストレイと申します。第七探索班所属、同じく無冠の灯の魔術師」
低く澄んだ声。けれど視線はやはり伏せられたまま。
「魔を編み、理を律し、戦場に終局の文を記すことしか力およばぬ未熟の身にございます」
名乗り終えた三人は、まるで裁きを待つ信徒のように、ただ静かに頭を垂れていた。
自分たちの名が、この至高の御方の記憶に残るかどうか。今の彼らにとっては、それだけが世界のすべてだった。
冴月は、ふわりとやわらかく微笑む。
穏やかな雰囲気に顔をあげ、その笑みを目にし、三人の胸は大きく波打った。名を告げることさえ栄誉であり、同時に畏れでもある。彼らにとって、それはまだ慣れない光の中に立つような行為だった。
遠くに転がる魔石が、淡い光をこぼす。静けさと緊張が溶け合う中、クラウ、ストレイ、フェルマの意識は、ただひとりの存在へと静かに吸い寄せられていく。
一方で冴月も、彼らを見つめながら、胸の奥に小さな高鳴りを覚えていた。
ただ立っているだけなのに、揺るがない。戦場を渡ってきた者だけが持つ、あの重心の低い静けさ。その堂々とした佇まいに、頬がわずかに熱を帯びる。
「では……次は、私たちの番だな。私たちは戦律の五星姫というパーティーを五人で組んでいる。まずは私たちの参謀を紹介する」
冴月が静かにそう告げた瞬間、クラウたちの耳に届く言葉が、ふっと重みを帯びた。
翻訳の魔法が意味を補い、五星姫という響きに込められた尊さが、胸の奥へじんわりと染み込んでいく。
ただの肩書きではない。そして、ただのパーティー名でもない。
そこにあるのは、姫と呼ばれるにふさわしい気高さと、五人で一つの戦場を背負う覚悟。
クラウは息を呑み、ストレイは眼鏡の奥で瞬きを止め、フェルマは胸の鼓動がひとつ跳ねるのを感じた。
ああ、この人たちは、本当に姫なんだ、と。
翻訳魔法を通してなお伝わる、言葉の奥にある品格と、静かな威厳。
三人はその場に立ちながら、目の前の五人がただの尊き御方ではなく、至高の御方に連なる王族の方であることを、確信していた。
ふと、リュカの歌が脳裏をよぎる。
神託の儀によって選ばれた王族の女性だけが、女王国の名のもと迷宮の深層へ挑む。そんな冒険譚が、彼の定番の歌にはよく登場した。
誰もが好きな物語だった。けれどそれは、あくまで語り物。女神の歯車の中でも精鋭中の精鋭で知られる神環の聖騎士を一人も連れずに、至高の御方が迷宮へ潜るなど、現実にはまずありえない。
そう信じられていた。
しかし今、目の前に立つ五人は、そのありえない物語を、静かに体現している。
歌の中の憧れが、現実の姿を持ってそこにいた。
三人は胸の奥がそっと熱くなるのを感じながら、ただその事実を受け止めるしかなかった。
そして、冴月の声に促され、紫乃が静かに一歩前へ出る。
「九条 紫乃と申します。賢者の務めを預かっております」
澄んだ声は落ち着いていた。けれど、その奥で彼女自身もほんのわずかに呼吸を整えているのが伝わってくる。
その姿を目にした瞬間、クラウの思考がふっと止まった。
脳裏に浮かんだのは、彼らの国で幻の花と囁かれていた存在。
王国迷宮庁本庁舎にただ一人いた受付嬢。整った黒髪、知性を宿した瞳、凛とした佇まい。下級冒険者が一度でも言葉を交わせたなら、それだけで武勇伝になる。
そんな、遠い憧れの象徴。
女性という存在が現実にありながら、ほとんど手の届かない光だった彼らの世界で、その人は現実に咲いた奇跡のような存在だった。
そして今。
目の前に立つ紫乃は、その面影を確かに宿している。知性の気配、静かな威厳、紫にきらめく澄んだ眼差し。
しかし決定的に違うのは、彼女が手の届かない存在ではなく、同じ空間に立ち、自分たちに向けて名を告げているという事実だった。
クラウの胸が、ぎゅっと締めつけられる。視線を上げることすら畏れ多い。けれど、逸らすこともできなかった。
その一方で紫乃は、というと。
理性では状況を冷静に分析し続けていた。異世界由来の装備、未知の薬学体系、異質な魔法の戦闘練度……評価すべき要素はいくらでもある。
それなのに。
クラウのまっすぐな視線が自分に向けられていると気づいた瞬間、胸の奥がふっと熱を帯びた。
(……落ち着きなさい、わたくし)
思考を整えようとすればするほど、鼓動だけが静かに主張を強めていく。
一方、名乗りを受けた三人は、彼らの国では知略の化身と呼ばれ、王族に連なる者しか成れぬと噂されるクラスの賢者が、自分たちに向けて言葉を紡いだ。
ただそれだけのことで、胸の奥がきつく締めつけられる。
視線を上げることすら畏れ多い。それでも、確かに感じていた。
今、自分たちはそんな御方から見られている。それも戦力としてではなく、ひとりの存在として。
それは彼らにとって、剣を握るよりも、魔法を放つよりも、はるかに心臓に悪い出来事だった。




