第21話 歌の中にしかいなかったはずの人
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
この先も、のんびりとした歩みで物語が続いていきますので、ゆるりと楽しんでいただけたら幸いです。
黒の回廊十八深階、ボス部屋。
砕けた石柱と、魔術が爆ぜた跡だけが残る広間。その中央には、赤黒く濁りながらも不思議なほど澄んだ光を宿す魔石が転がっていた。
この世界ではとても希少な価値をもつ。けれども彼ら異世界から来た者たちにとって、それは大した戦利品ではなかった。
クラウ、ストレイ、フェルマは、荒い呼吸を整えつつ魔石へ視線を向ける。
本来なら、尊き御方五人の危機的状況を救い、ひと息ついて達成感にひたってもいい場面だった。なのに三人の視線はどこか落ち着かず、光っている魔石にばかり意味もなく目がいっていた。
理由は単純だった。
素顔を見せて以来、背中に刺さるように注がれる彼女たちの視線が、どうにも熱を帯びてるように感じる。
気のせいではない。目が合えば、そのまま逸らされないどころか、じぃっと見つめられる。
結果、三人は示し合わせたわけでもないのに、五星姫がいない魔石がある方向に視線をさまよわせる羽目になっていた。
ドラゴンを主食にする凶悪な竜喰らいとの命がけの戦闘より、よほど落ち着かない。
彼らの生きてきた世界にも、女性という存在は確かにいた。けれど、その数はあまりにも少ない。特に前線で戦う冒険者にとっては、生涯で一度も姿を目にすることなく命を散らす者もいるほどで、女性はどこまでも遠い、手の届かない憧れのような存在だった。
それは単なる異性というだけではない。遠くから敬い、決して触れてはならないと教えられてきた、まるで聖域のような存在。
だから彼らにとって女性とは、求めるものではなく、ただ胸の奥でそっと敬う尊きものだったのだ。そんな彼らが、初めての体験である間近で女性を目にして動揺するのは、むしろ自然なことだった。
直接言葉を交わすなど、想像の中の出来事にすぎない。声をかけてもらうなんて論外で、まして微笑みを向けられるなど、それは一生に一度あれば語り草になるほどの奇跡だと、本気で信じられていた。
そんな価値観を、疑うことなく受け入れてきた世界からやって来た。
その思い込みを育てたのが、前線帰りの冒険者の歯車たちが集う、行きつけの酒場だった。石壁に染みついた汗と鉄さびの匂い。鎧を脱ぎ捨てた男たちが肩を寄せ、乱暴に酒をあおる、百人いて百人とも男しかいない男くさい空間。
その喧騒の片隅に、気がつけば彼はいた。
リュカ。吟遊斥候にして、『無冠の灯』の一員。斥候であり、吟遊詩人でもある青年。
酒場が最も騒がしくなる頃、彼は静かに席を立ち、風詠のリュートと呼ばれる武器にもなる小さな弦楽器をそっと取り出す。
指先で弦をひとなで。
その瞬間、ふわりと風が触れたように、怒号と笑い声で満ちていた酒場が、すっと静まった。
「……聴けよ。リュカの歌だ」
誰かがそう呟くと、杯を持つ手が一斉に止まった。そして彼の歌は、いつだってどこかに女性が現れる物語から始まる。
紡がれるのは、戦場の向こうに一度だけ姿を見せた白い影。瓦礫の街で、傷ついた兵士にそっと水を差し出した名も知らぬ女性。剣では守れないものを、祝福だけで包み込んだ尊き御方。
触れることも、声をかけることもない。ただ遠くから見つめるだけの存在。
それでも、歌の中の彼女たちはいつだって美しく、強く、優しかった。
「……本当に、いるのかもな……」
ぽつりと誰かが呟く。
「いや、いたとしても……俺たちが近づいちゃいけねえ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
リュカの旋律は、女性とはこうあるべきだという理想を、静かに、しかし確かに胸へ刻み込んでいく。
それが、彼らにとってのすべてだった。
間近で見ることもなく、言葉を交わすこともなく、ただ歌の中でだけ許された、遠い憧れ。
リュカ自身もまた、リュートを下ろし、伏せた視線のまま、その想いをそっと信じていた。
女性の前で歌うなど、あってはならない。自分の歌は、遠くから敬うためのものだ、と。
だからこそ。
あの時。現実の中で、すぐそこに現実に目の前に女性が立っていた瞬間、クラウたちの心が、音を立てて崩れたのは、あまりにも必然だった。
歌や噂でしか知らなかった存在が、息をし、視線を向け、言葉を発する。それは奇跡であり、同時に、彼らの理が書き換わる音でもあった。
胸の奥でざわめいていた感情を、クラウは無言のまま噛み砕いた。ああ、そうだ。酒場の喧騒、鉄と汗の匂い、あの夜の旋律。
ふと、リュカの顔が脳裏に浮かぶ。
(……もし、あいつがここにいたら)
クラウは、ほんのわずかに口元を緩めた。きっと、最初の一瞬で俺と同じように固まる。視界に女性が入った時点で、呼吸が止まり、声が出なくなり、リュートを持つ手が震える。
歌を披露する? 冗談じゃない。
俺たち以上に、間違いなくテンパっていた。うん、俺以上にテンパっていた絶対そうだ。
「神罰が下る……」だの、「目を合わせたら終わりだ……」だの、訳の分からない理屈を本気で並べて、柱の影に隠れようとしたに違いない。
そう思うと、少しだけ、胸が軽くなる。しかし、その笑いは、すぐに消えた。
クラウの視線は、自然と遠く、ここではない、どこか分からない場所へと向く。同じ瞬間に転移したはずなのに、彼らは、別の地点へと投げ出されたはずだ。
吟遊斥候の風詠のリュカ。
戦闘僧侶の鉄鎚の浄破バルド。
無影居合の侍カゲトラ。
それぞれが、今どこで、一緒に居て、何と対峙しているのか、分からない。
(……生きてるよな)
静かにクラウは目を伏せた。あいつらなら、きっと大丈夫だ。そう信じているからこそ、今ここに立っていられる。
また、どこかで合流できたなら……その時は、酒場で笑ってやろう。
「結局、歌えなかったな」って。
そして、もし。万が一にも、あいつが女性の前で歌ってしまったら、その時は、全力でからかってやる。
そんな未来を、胸の奥で静かに描きながら、クラウは、仲間たちの無事を、ただ黙って願っていた。
それは、いつもと同じ想いだった。
遠く離れた場所にいる仲間の生存を思い、再会できるかもわからない日々を、それでも当たり前のように受け入れる。
冒険者として、あまりにも慣れすぎた感情の置きどころ。
彼らが無事でさえあれば、それでいい。それ以上を望むつもりはなかったし、望んではいけないと、どこかで自分に言い聞かせてもいた。
そう、あいつらが事あるごとに言っていた、女性とはただ胸の奥でそっと敬う尊きものだと。
だというのに、ここで出会った五人の御方は、誰もが驚くほど個性的な美を宿し、眩しいほどの存在を発しているのに、どこか気さくで……そしてなぜか、距離が驚くほどに近かった。
そのなかでも、ミレディアセイン女王国の絶対的なカリスマである女王の面影を宿す冴月の存在は、三人の心をあっさりと奪っていた。
それは好意などという生易しいものではない。畏敬と憧憬が入り混じった、どうしようもなく抗えない感情からくるものだった。
(まともに目を向けることすら……あっ……ご尊名を……まだ伺っていない……)
混乱のさなか、クラウはふと気づく。自分たちはまだ、この至高の御方の名すら知らないのだと。
とはいえ、声をかける勇気など最初からあるはずもない。こちらから名を尋ねるなど、あまりにも恐れ多い行為に思えてしまう。
自然と視線は伏せられ、唇はきゅっと結ばれる。ただその御姿が視界の端に入るだけで、胸がいっぱいになってしまうのだから。
冴月は、静かに三人を見つめる。その目には、尽きない興味の色が宿っていた。
「……そうだ、命の恩人だというのに貴公たちの名前をまだ聞いていなかったな」
その一言だけで、三人の心臓が大きく跳ねた。
クラウの肩がびくりと震え、ストレイの指先がわずかに強張り、フェルマはうつむいたまま小さく息を呑む。




