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第20話 覇者はすでに動いている



 世界中が『漢』の存在に揺れたその夜。


 日本の中枢に最も近い場所で、ただ一人、漢そのものの出現に関しては、まったく動じていない女がいた。


 都心一等地。


 雲を突き刺すようにそびえ立つ超高層ビル。その最上階、国家の心臓部すら見下ろす高さに位置する、九条財閥本社、その総帥執務室。


 床から天井まで全面ガラス張りの空間。夜景が宝石の海のように広がる中、重厚なデスクの向こうに座る女は、置物のように微動だにしない。


 長い黒髪を一つに束ね、一切の無駄を削ぎ落とした漆黒のスーツをまとい、切れ長の瞳は冷えた紫水晶のように澄み切っている。


 外の世界がどれほど騒ぎ、どれほど混乱しようとも、その瞳には一片の揺らぎも浮かばない。


 まるで、世界が揺れていることすら、最初から織り込み済みであるかのように。


 九条くじょう 静流しずる


 ダンジョン発生以降、医療、軍需、探索支援、資源管理、情報網、国家すら依存する巨大複合体へと変貌した九条財閥。


 その全てを束ねる総帥にして、現代ポーション医学の最高権威。


 そして現在、『黒の回廊・第十八深層』のボス部屋で『漢』たちと共にいるのは、九条財閥の後継者、九条 紫乃。


 その母、九条 静流は、地上で世界の動きを冷ややかに見据えていた。


「例の映像、解析完了しました」


 背後に控えていた秘書が、震えを隠せない声で告げる。


 空中モニターに映し出されたのは、調薬錬金術師アルケミストと名乗った『漢』がエリクサーと思われる霊薬を紫乃に手渡し、それを使用するまでの一部始終。


 静流は黙ってそれを見つめた。


 一時停止、拡大、さらに拡大。


「……成分の解析、少しは進みましたか」


 その声は低く抑えられているのに、刃物のような冷たさがあった。


「い、いえ……通常の光学・魔力スペクトル分析、すべて不明です。既存ポーション理論と一致する項目が、ゼロで……」


 沈黙。


 その沈黙は、秘書の背筋を氷のように冷やすほどの重さを帯びていた。


 怒号が飛ぶと思った。机を叩かれると思った……もっとも、そんな感情的な姿をこの人物に重ねること自体が、そもそも難しいのだが。


「そう」


 静流の声は短い。しかし、その一語には、状況をすべて飲み込んだ者だけが持つ冷たい確信が宿っていた。


「想定内です」


 秘書が目を見開く。


 静流は椅子の背に身を預け、ゆっくりと指を組んだ。その仕草ひとつで、室内の空気がわずかに張りつめる。


「現行ポーション理論は、魔力活性による自己治癒促進が前提です。しかし、あの薬はその枠に収まりません」


 画面に映る映像へ、静流の指先が静かに触れる。


「治癒ではない。もっと根本的な……状態そのものの書き換えです」


 秘書が小さく息を呑んだ。


「外傷の修復速度が異常なのではなく、傷が存在しなかった状態へと巻き戻している」


「そ、そんなこと……」


「可能です」


 即答だった。迷いも逡巡もない、研究者としての確信だけがそこにある。


「理論上は、ですが」


 静流の視線が、ゆっくりと夜景の向こうへ流れた。まるで、世界の先の先まで見通しているかのように。


「私は二十年前、同じ仮説に辿り着いたわ」


 秘書がはっと顔を上げる。その一言の重さを、ようやく理解したかのように。


「ですが、当時は何を試しても再現には至らなかった。資金も時間も溶けるように消え、誰ひとり……私自身でさえ、その先を掴めなかった」


 静流の声は淡々としている。なのにその奥底には、諦めとは無縁の長い年月を燃やし続けた執念が潜んでいた。


「……ようやく現れた」


 モニターに映るフェルマの横顔へ、静流の視線が吸い寄せられる。


「私の理論を、現実へと引きずり出した存在が」


「総帥……まさか」


「ええ」


 紫の瞳が、鋭く細められた。その光は、獲物を捉えた捕食者そのものだった。


「彼は、これから訪れるポーション製作の地平を、根底から塗り替える者となるでしょう」


 室内の空気が、ぴんと張り詰めた。その言葉が誇張ではないと、秘書も直感で理解したからだ。


「その価値に気づいた政府、軍、海外の大国、財閥、そして、地下で暗躍する秘密結社や……国際情報庁〈I.I.A.〉など、あらゆる組織が、すでに彼……彼らを確保しようと水面下で動き始めているはずです」


 静流は静かに立ち上がった。ヒールの音が、凍りついたような静寂の中に鋭く響く。


「ですが、遅い」


 その声音には、揺るぎない確信が宿っていた。まるで結果がすでに決まっているかのように。


「九条が最初に辿り着きます」


 秘書が恐る恐る尋ねる。


「……保護、という形で?」


 一瞬だけ、静流の視線が和らいだ。それは氷の表面に、ほんの一滴だけ温度が落ちたような変化だった。


「ええ。もちろん保護です」


 しかし、その柔らかさは次の瞬間には跡形もなく消えた。


「何があっても、他に渡すわけにはいきません。『漢』の騎士と魔術師も確かに興味深い。ですが、仮にその二人を他の組織に譲ったとしても、調薬錬金術師だけは、必ず九条が手に入れる」


 その声音は、選択肢を与える気など最初からない者のものだった。


 それは医学者の言葉ではなかった。研究者のそれでもない。


 覇者が、領土を宣言する時の声だった。


「紫乃は」


 不意に出た娘の名に、秘書が目を瞬かせる。静流が公の場で娘の名を口にすること自体、滅多にない。


「映像が途絶えてから三時間……おそらくですが、地上を目指して十七、十六階ほどの深層を移動中かと」


「そう」


 静流は小さく頷いた。その横顔はいつも通り冷静で、感情の揺れなど読み取れない。


 しかし、ほんの一瞬だけ。紫の瞳の奥に、母としての柔らかな光がかすかに揺れた。


「あの薬師が最初に出会ったのが、私の娘で……本当に幸いでした。彼がいなければ、紫乃も、五星姫の誰ひとりとして生き残れなかったでしょう」


 秘書は息を呑む。その事実の重さを、今さらながら痛いほど理解した。


 モニターが切り替わる。


 世界地図が広がり、複数の赤いマーカーが脈打つように点滅していた。それは、世界のどこかで異変がすでに始まっている証だった。


「専用チームを編成」


 秘書の声は緊張にわずかに震えている。


「コードは」


 静流は一瞬の逡巡も見せなかった。まるで、その名を告げる瞬間をずっと待っていたかのように。


「プロジェクト・アルケミスト」


 その言葉が室内に落ちた瞬間、九条財閥の深層に封じられていた最高機密が、静かに、しかし確実に目を覚ました。


 その頃、世界最高峰の頭脳と資金力を持つ女に人類の未来とまで評されていることなど、当のフェルマは知る由もなかった。


 クラウやストレイとともに、彼らはまだボス部屋から移動していなかった。ただ、戦いが終わった余韻の中で、地上へ戻る準備を静かに進めているだけ……そのつもりだった。


 自分たちがすでに各国や組織の注目を集め、監視すらされる存在になっているなど、フェルマをはじめ、紫乃以外の誰も想像していない。


 異世界から来た三人は、戦いの余韻を抱えたまま、目の前に立つ五人の尊き御方の動きを、戸惑いと畏敬を込めてそっと見守っていた。



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