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第10話 絶望の淵に差す虹の光



『尊き存在』が、四人もいる、そんなあり得ない現実が、いま目の前にあった。


「……っ」


 その時、クラウの胸に、冷たいものが駆け抜ける。


 四人もいる? そんな奇跡のような光景の中に……やけに静かすぎる気配がひとつ。


 ……いや、ストレイは扉の前で言っていたではないか。


「間もなく命が終わる者がいる」と。


 クラウの喉が、ごくりと鳴った。その言葉が、今になって急激に胸を刺す。


 クラウとストレイの視線が、血に濡れ、倒れ伏しながらも、なお気高く在ろうとする一人の女性へと同時に向いた。


 薄金のさらさらの髪が、血の海の中でもなおひと際、輝いて見えた。その瞳は閉じられているというのに、まるで静かに世界を見据えているかのような気配を醸し出す。


 意識を失ってなお、彼女の身に宿る気高さは揺るがない。


 その佇まいは、神聖な像のようで、見る者の心に、自然と膝を折らせるほどの威厳を放っていた。


 ……あの御方に、とてもよく似ていた。


 彼らの国の絶対的なカリスマ、女王陛下に。


 三人がまだ冒険者になったばかりの頃のことだった。王都で開かれた、女王陛下の生誕祭。国中の民が集い、広場は熱狂と信仰の渦に包まれていた。


 彼らもまた、他の三人の仲間とともに、六人そろってその場に立ち会っていた。とはいえ、あまりにも遠く、さらに押し寄せる人波と熱気に遮られ、御姿をこの目で直接みることは叶わなかった。


 だけど、祭の終わり、夜空に浮かび上がる、魔法によって映し出された、女王陛下の御姿。


 星々を背に、微笑むその姿は、神聖そのものだった。


 その瞬間、若き日のクラウとストレイ、フェルマの脳裏に、『尊き存在』の概念が刻み込まれた。


 そして今、その御影を、目の前の女性に見た。


「……っ」


 クラウは、言葉を失い、ストレイは、静かに息を呑んだ。


 神聖なものは、遠くにあると思っていた。なのに今、その御方が地に伏している。


 それが、彼らにとってどれほどの衝撃だったか。とはいえ、その傷は深く、裂かれた鎧の下からあふれ出すあまりの血の多さに、間もなく尊き命が終わることを告げていた。


「……っ、フェルマ!!」


 クラウが、喉が裂けるほどの怒声を上げた。それは、追い詰められた心と、やるせない怒りが混ざった叫びだった。


「い、いますぐ、さっき作ったあの薬を献上しろ!! 今すぐだ!!」


 その言葉に、フェルマはびくりと肩を震わせた。


 扉が開かれた瞬間から、彼の心はあまりの衝撃に揺れ、倒れ伏す至高の御方、その姿を見た瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなったのに、身体は冷たく氷ついたように動かなくなった。


 あの御方に、とてもよく似ている。彼が忠誠を誓う、唯一無二の存在、女王陛下。


 その気高さ、静謐な威厳、そして崩れぬ美しさ。フェルマにとって、女王陛下はなにをおいても絶対だった。


 手を触れることすら許されぬ、神域の象徴。


 そして今、目の前にいるのは、その面影を宿す、もう一人の至高の御方。


「で、でも……ボクの作った薬なんて……尊き御方に、それも……至高の御方になんて……」


 彼の声は、かすれていた。


 恐れと、畏敬と、自己否定が入り混じっていた。この三人の中で、回復手段を持つ者は自分しかいない。もう一人の回復ができる僧侶のバルドは、今ここにはいない。


 つまり、この命を救えるのは、自分の薬しかない。


「ボクなんかの薬じゃ……」


 そんなものを、神聖な御方に使っていいのか。 とんでもなく穢してしまうのではないか。


 フェルマの全身が、震えていた。


 そのときだった。


「……お願いします」


 かすれた声が、空気を震わせた。


「冴月を……どうか、助けてください……」


 紫乃だった。


 顔の片側は、腫れ上がり、血がにじんでいた。唇は震え、声は今にも途切れかけていた。それでも、彼女は頭を下げた。大切な人の命を救うために、自らの尊厳を差し出す覚悟を持って。


 その姿は、あまりにも切なく美しかった。


 傷つき、倒れ、それでも誰かを救おうとする。まるで、女神の化身のようだった。


 フェルマの手が、震えた。


 その胸の奥で、何かが崩れ落ちた。『自分の薬なんかじゃ、その清らかさを損なってしまう』そう思っていた。


 なのに今、目の前の尊き御方が、自分に向かって頭を下げている。


 尊き御方に頭を下げさせている、その現実が信じられず、そして切なる願いを、自己否定だけの理由で拒めるはずがなかった。


「……っ」


 フェルマは、震える手で薬瓶を取り出した。それは、彼のすべてを賭けるような動作だった。


 その瞬間だった。


 紫乃の瞳が、大きく見開かれた。


 こんな状況だというのに、その瓶に宿る光を見た瞬間、思わず息を呑んでいた。


 虹色に揺らめく液体。


 瓶の内側から、淡く、静かに、七色の光が脈打つように輝いている。


 ……絶対にただのポーションなんかではない。


 紫乃の脳裏に、かつて目にした極秘資料の一節がよぎった。


 世界に一本のみ存在する、究極の霊薬。その名を『エリクサー』という。


 万病に効き、失われた部位すら瞬時に再生し、老いすらも巻き戻すという、伝説の霊薬。


 その外見は、虹色の光を宿す液体。


 かつて九条財閥が、国家間の交渉資料として入手したとされる、あの一枚の画像。


 今、目の前にある瓶は、それと、あまりに酷似していた。


「……まさか……」


 紫乃の声は、かすれていた。


 とはいえ、追及はしなかった。今はその時ではない。


 もし、これが本当に伝説の霊薬『エリクサー』であるのなら。今この瞬間、冴月の命を救えるのは、これしかない。


 紫乃は、深く息を吸い、そして静かにふたたび頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 その瞳は、これ以上ないぐらいに真摯だった。そこには、揺るぎない覚悟と感謝が宿っていた。


 フェルマは、びくりと肩を震わせた。尊き御方に、今いちど頭を下げられた。


「お、恐れ……多いっ……っ」


 ぶるぶると震えながら、フェルマは瓶を差し出した。その手は、まるで氷のように冷たくなっていた。


「は、半分は……傷口に……も、もう半分は……飲ませて……差し上げてください……」


 その声は、消え入りそうだった。


 紫乃は、迷いなくその手を取り、瓶ごと、フェルマの手を包み込むように握りしめる。


「本当に……ありがとうございます」


 その言葉には万感の思いがこめられていた。


「へっ……?」


 フェルマは、ぽすんとその場に崩れ落ちた。フードの中に隠れている顔は真っ赤、耳まで真っ赤、そして目は忙しなく回っていた。


「……尊き御方に……手ぇ握ってもらった……」


 そのまま、熱が一気に上がったように視界が揺らぎ、意識が落ちかけた。



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