日本夢酒造の未来
思いもかけず愛夢農園の件が片付いた。あとは、學の件だけだ。日本夢酒造買収という難題を片付けなければならない。學から話を聞いた時は100パーセント無理だと思ったが、愛夢農園に方向性を出せた今、考えは180度変わっていた。やってやろうじゃないか、という気になっていた。それだけでなく、悔しい思いをさせたまま終わらせるわけにはいかなかった。
それに、父のこともある。華村酒店を経営しながら日本夢酒造の蔵元になって再建を果たした苦労を水の泡にしてはならないのだ。
更に、祖父が蔵元と築き上げた信頼関係をここで終わらせるわけにはいかなかった。フランスで頑張っている開夢も悲しませたくなかった。
もちろん、咲の未来がかかっている。万が一、得体の知れない所に買収されたりしたら、追い出されることだってあるのだ。橋渡と結婚し、子供に恵まれ、公私ともに充実した毎日を送っている咲から、若い醸造家の育成という生きがいを取り上げてはならない。
だから、これは一醸造所を買収するという話ではなかった。華村一族の血と汗の結晶を守り抜くという重要な意味を持っているのだ。
しかし、問題は買収資金だった。自前の資金では到底足りないので銀行に借りるしかない。但し、店を抵当に入れるわけにはいかない。万が一の場合、華村酒店を失うことになってしまうからだ。祖父と父が命を懸けて守ってきたこの店を手放すわけにはいかない。
といって、他に資金調達の道はない。気持ちは前向きになったが、どんなに考えても買収資金の調達方法が思い浮かばなかった。
それでも諦めるつもりはまったくなかったが、〈下手の考え休むに似たり〉という言葉もある。その日はそれ以上考えるのを止めて、はなゆりをぐっと呷って、寝室に向かった。
*
考えて考えて考え抜いて、1週間後、學の自宅を訪ねた。融資の相談をするためだ。學は経営のプロであり、顔の広さも抜きん出ているからだ。挨拶もそこそこに本題に入った。
「日本夢酒造の買収の件をじっくりと考えさせていただきました」
すると學が大きく頷いて、身を乗り出した。
「祖父が佐賀夢酒造の蔵元と懇意になったことからすべてが始まりました。その後、窮地に陥った酒蔵を買収して再建したのが、學おじさんと父でした。そして父から蔵元を継いだ咲が〈はなむらさき〉と〈はなゆり〉を開発して経営を軌道に乗せました。日本夢酒造は華村一族の血と汗が詰まった酒蔵といっても過言ではないと思います」
すると、祖父と父の顔が思い浮かんできて胸の奥が熱くなった。それは學も同じようで、あの日から今までのことを思い出しているかのように目を細めた。
「華村酒店が日本夢酒造を買収するのは分不相応かもしれませんが、しかし訳の分からない所に買われるのだけはなんとしても阻止しなければなりません。そこで、融資についてご相談させていただきたいのですが」
そして、より具体的な話をしようとすると、右手を上げて止められた。
「融資については、なんの問題もない」
いきなりそんなことを言うので驚いたが、既に手を打っているという。長年の付き合いがある大手都市銀行の頭取に相談しているというのだ。
「日本夢酒造の企業価値を独自に調べてもらったんだけど、たいそう高く評価してくれてね」
それだけでも十分な融資を受けられるのに加えて、華村酒店の将来性にも注目してくれたのだという。
「大手流通チェーンにはないこだわりを持った日本酒や地ビール、ヨーロッパのビールに加えて、泡酒や低アルコール日本酒を揃えて高い成長を成し遂げている醸君の手腕に賛辞を送ってくれているんだ」
學は頭取を訪問する度にはなむらさきとはなゆりを持参していただけでなく、その時に必ず華村酒店の情報を伝えていたのだという。
「まあ、日頃の行いが大事だということだね」
自分を褒めるような高笑いが部屋に響いたが、すぐに顔を引き締めた。
「問題は経営者なんだ。酒蔵の経営は誰にでもできる簡単なものではない。ましてや華村一族が心血を注いだ酒蔵だ。そんじょそこらの奴に任せるわけにはいかない」
考える中で真っ先に咲の顔が浮かんだが、〈名選手名監督にあらず〉という言葉が浮かんできて、すぐに候補から外したそうだ。それに、醸造家として頂点を極める方が咲にとって幸せに違いないと思ったという。
もちろん、音のことも考えたが、すぐに頭から消したという。革新的な方法で新たなワイン造りに挑戦している息子を呼び戻すことなど、できるはずはなかった。
「すべての条件を満たすのは醸君だけなんだ。一徹爺さんと崇さんの血を引く醸君こそが適任なんだ。日本酒が体の芯まで沁みている君しかいないんだ。でも、押し付けるわけにはいかない。多忙な君にまた負荷をかけることになるから言い出すのを躊躇った。だから、融資の件も言わなかった。外堀を埋めて追い詰めるわけにはいかないからだ」
それでわかった。「少し時間をください」と言った時、無言で頷いて帰ったことが。
「ありがとうございます。そこまで考えていただいて」
「いやいや、お礼を言うのはこちらの方だよ。醸君が決断してくれなかったらどうしようかと思っていたからね」
特にここ数日は気が気ではなかったという。
「あの若造が早く売却したがっていたから、それを押し止めるのが大変だったんだよ」
社長のことを若造と言い捨てて一瞬険しい顔になったが、それはすぐに戻って、「では、すぐに進めさせてもらうね」と経営者の顔になった學が書類の束をテーブルに置いた。
買収や融資に関する契約書のたたき台だった。これをすべて確認してくれという。
まさかそこまで準備しているとは思わなかったので驚いたが、それは時間が切迫しているという表れであり、早急な対応が求められているのだと受け止めた。
「わかりました。早速、弁護士などと相談します」
すると肩の荷が下りたのか、「では、話もまとまったことだし、一杯やろうか」と學が腰を浮かせた。
「いえ、もう一つお話したいことがあります。会長になっていただきたいのですが」
「会長?」
「そうです。いままで世界を相手に戦ってこられたおじさんの経験は貴重です。その貴重な経験は何物にも代えがたい宝のようなものだと思っています。そのお宝をお貸しいただきたいのです」
必死になって學の目を見つめた。これだけはなんとしても実現させなければならなかった。學がバックにいてくれれば百人力を得たのも同然だからだ。
「ありがとう。そんなにまで言ってくれて本当にありがたいと思う。それに、この年になっても必要だと言われることは無上の喜びに他ならない」
「では、」
「いや、」
「えっ、」
「リーダーは一人でいい。社長の上に会長を作る必要はない」
そこに柔和な顔はなかった。
「私も人間だ。会長になれば余計なことも言いたくなる。君の意見を否定することもあるかもしれない。それに、私は咲の父親だ。あの子を依怙贔屓することだってあるかもしれない。そうなればどうなると思う? 組織は分断される。一枚岩ではなくなるんだ。内外の権力闘争を数多く見てきたが、どれも酷いものだった。中でも血の繋がった身内の争いは見ていられるものではなかった。親子、兄弟姉妹、本家と分家、それは醜いとしか言いようのないものだった。警察沙汰になったものも少なくなかった。言葉だけでなく、刃物で傷つけることさえあった。本当に酷いんだ。私はそんなことを引き起こしたくはない。見たくもない。だから全力で応援はするが、地位を得たり、権力を持つつもりはない」
そこで立ち上がった。この話はもうおしまいというように。
そして、ワインクーラーからワインを抜き出して戻ってきた。
それは音が造り上げた極上の赤ワインだった。
『スウィング』
カベルネ・ソーヴィニョンとメルロに加えて、アメリカ産のジンファンデルというブドウをを絶妙に配合したワイン。しかも、熟成中にジャズを聴かせ続けた特別なワイン。
国際的なコンクールで金賞に輝いたワインを2つのグラスに注ぎ終わると、學はCDを取り出してプレイヤーにセットした。『シング・シング・シング』だった。躍動感のあるリズムに乗って管楽器によるゴージャスなアンサンブルが鳴り響くと、學はグラスを上げて、踊るような声を発した。
「日本夢酒造の未来に乾杯!」




