表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/89

選択と集中

 

 父がこの世を去って、10年が過ぎた。

 醸は40歳になり、翔は10歳になった。


 あっという間に80年代が過ぎていった。レコードがCDに変わり、インターネットが誕生した。世界の人口が50億人を突破した。日本人の平均寿命が世界一となり、昭和が平成に変わった。世界も日本も大きく変わっていった。


 それは、日本酒を取り巻く環境も同じだった。日本国内では流通革命が起きていた。スーパーマーケットの出現と躍進が小売業全体を揺るがしていた。1957年に大阪で生まれた小さな店が、25年後には百貨店を追い抜いて日本一になるまでに成長した。それを追いかけて続々と企業が参入し、その多くが巨大になっていった。その成功要因は〈安売り〉で、価格破壊という嵐が庶民を巻き込んでいった。その結果、定価販売が姿を消し、ディスカウントが当たり前になった。

 1990年代後半になると、スーパーマーケットやディスカウントストアが個人商店を脅かす存在になり、一気にシェアを奪っていった。

 それは、日本酒の業界でも同じだった。規模の大きな酒蔵が酒類卸を通じてスーパーマーケットとの取引に応じ始めると、雪崩を打ったようにその波は大きくなった。

 逆に、スーパーマーケットから相手にされない小さな酒蔵は小規模な酒店と取引するしかなく、どんどん消費者の目から遠ざかっていった。そして、益々苦境に陥っていった。

 そんな小規模な酒蔵が生き残りのために選んだのがプライベート・ブランドという道だった。それは、自らのブランドを捨てるという選択でもあった。その選択で目先の利益は確保できるし、一定の販売数量は確保できるが、厳しい条件を飲まざるを得ず、却って体力を消耗していくことになる。

 そんな中、華村酒店と取引があった酒蔵も次々と大きな流れに飲み込まれていった。スーパーマーケットや大規模安売り店の店頭に並び始めたのだ。

 それは、華村酒店にとって許容できるものではなかった。何故なら、同じ銘柄が違う値段で売られるからだ。価格では太刀打ちできない。醸は決断を迫られた。


 しかし、ゆっくり考える余裕はなかった。時間をかければそれだけ寿命が縮まるスピードが速くなるのだ。待ったなしの中で心を決め、幸恵に伝えた。


「安売りの店と取引を始めた酒蔵からの仕入れは止める。その代わり、そうでない酒蔵の酒は注文数を大幅に増やしていく」


 大手流通に対抗するためには特徴を明確に出さなければならない。華村酒店でしか買えないものを揃える必要があるのだ。絞り込んで深掘りをしなければならないのだ。醸は選択と集中を経営の主眼に置いた。


 幸恵の同意を得た醸は迷うことなく日本酒の取引先を4社に絞った。祖父から父へ、そして醸へと引き継がれた『北海入魂酒造』、『灘生一本酒造』、『房総大志酒造』、『日本夢酒造』と運命を共にすることを決めたのだ。これによって、4社と華村酒店は強い絆で結ばれることになった。


 醸が経営の方向性を大きく変えようとしていた頃、規制緩和がビール業界を大きく揺さぶっていた。1994年4月に改正された酒税法が新たな動きをビール業界にもたらし始めたのだ。ビールの製造免許に関する規制緩和で最低製造量が大幅に引き下げられ、小さなメーカーにも製造免許が与えられるようになった。

 そのことにより、全国各地に〈地ビール〉メーカーが誕生していた。彼らは大手メーカーとは違う独自の味を追求し、その個性的な味や香りで従来のビールに満足しない若者を中心に着実にファンを増やしていった。しかし、小資本のため広告投資もままならず、認知度が低いまま苦しんでいるメーカーも多かった。


 醸はそこに目をつけた。日本酒の取引を4社に絞ったことに後悔はなかったが、売上の落ち込みをカバーするためにはビールの取り扱いが必須だった。それでも、大手流通やディスカウントストアで取り扱っているものに手を出す気にはならなかった。差別化を旨とした経営を貫くためであり、価格競争に参入するという愚行を犯すつもりはなかった。

 醸は全国の地ビールメーカーに足を運んで味と香りを確かめながら、これはというものに出会うと、直取契約を結んでいった。個性的な地ビールの取り扱いを少しずつ増やしていったのだ。

 しかし、拙速は戒めていた。一つの失敗が大きな痛手になることがあるからだ。そのため、地ビールメーカーと契約する前には必ず學の家を訪ねて、試飲を依頼した。客観性を担保すると共に助言を仰ぐためだ。


        *


 この日、持参したのは新潟県の地ビールだった。


「結構いけるね」


 代表取締役副社長に就任していた學が右手の親指を立てた。


「しかし、コシヒカリを使うとはね」


「そうなんですよ。でも、和食にピッタリだと思いませんか」


「間違いないね。それに、日本酒を極めてきた華村酒店との相性はバッチリだと思うよ」


「良かった……」


 安堵したが、確認を忘れるわけにはいかなかった。


「売れると思いますか?」


 學は大きく頷いた。


「大手メーカーのビールとはまったく違うから差別化になると思うよ」


 太鼓判を押してくれたので肩の荷を下ろすことができたが、それも束の間、意外なことを提案された。


「ところで、ベルギーのビールを扱ってみないか?」


 醸は首を傾げた。ベルギーの場所はおぼろげだし、そこのビールについてはなんの知識もなかった。


「ヨーロッパの小さな国だけど、個性的なビールが多いんだよ。フルーティーなホワイトビール、深紅に近い色味を持つレッドエール、アルコール度数が高めだけど飲みやすいゴールデンエール、修道院が造っているトラピスト、どれも旨いぞ」


 そう言われても、頭の中にはなんのイメージも湧いてこなかった。


「一度飲んでみればいい。気に入ったらうちで輸入するから」


 頷いてはみたものの、頭の中は今日持参した地ビールのことでいっぱいで、その他のことが入る余地はまったくなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ